第12話 人というものを〈後編 彼女の居場所〉
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カイムは瞬時に熱を奪われて、身体の自由が利かず、末端から氷のように硬直する。
頭の芯まで凍てついて、正常な思考が追いつかない。ただ、視界に慌てふためく多数の人間が、この場から逃れようと、這いつくばって手足をもたつかせていた。
「戻りなさい! 王のお怒りを恐れてはなりません。その御心を我らへお示して下さっているのです。これ程、幸福な事はありません。さあ、同士よ。立ち上がり、王を我等が玉座へ」
カイムは強ばる両手を、口元へかざして息を吐いた。白い息が上がって、長々っと顔周辺に留まり続ける。
「王、寒いです。お怒りは分りますが、僕まで死んでしまいます」
ヘルレアは静かに見ている。
「カイム、私はヨルムンガンド――死の王だ。人ではない」
「承知しております」
「己が意思一つで生死を断じ、裁可を下す、絶対的な死の権化」
「どうされました……」
「ならばその意思、一時的だがお前に託そう。カイム、お前が断じろ。子供を生かし、私を失うか。子供を殺し、私を獲るか。この、まるで釣り合いの取れない選択をどのように考える。さあ、猟犬の主よ、どうする」
ヘルレアは笑んでいるが本気だ。
挑戦的な青い瞳が、蛍火でより鮮やかになっている。その表情にに揺らぎはなかった。
幼い子供とヨルムンガンド。
命と力。
ステルスハウンドに選択の余地などない。馬鹿馬鹿しい取引。そして、そこで真に問われるのは、カイムのあり方。
カイムは小さく溜息をつく。
「勿論、僕等には王が必要です――正直、子供を選ぶ理由は僕にもありません。僕は聖人ではありませんから、全ての人を守らなければいけないとも思いません」
「よく聞き慣れた台詞だ。お前も言い飽きているだろう」ヘルレアは面白そうに嘲笑う。
カイムは眉間を寄せた。
「――しかし、人というものを、そこまで侮らないで下さい。本来命というものは、天秤に掛けて取り引き出来るものではありません。贖う事も、取り替えも利かないのです。たとえ王であろうと、その二択は放棄します。王よ、そこで見ていて下さい」
カイムがカフスボタンへ触れると、それを合図にして扉という扉が一斉に開き、銃を構えた私服の兵士達が殺到する。
激しい発砲音が雨のように飛び交い、倉庫を満たす。
カイムの傍近くで笑い声が聞こえて、咄嗟にヘルレアの手を引こうとするが、強い力で突き飛ばされて物陰に追いやられた。いつの間にかヘルレアは傍にいない。見渡せば王は、女児を片手で抱いて、女の首を握っていた。
カイムは取り敢えず、そのまま伏せた。王を心配する必要は勿論ないし、王と共に居る女児を心配する必要もまたなかった。それより自分の身を守る方に集中した方が懸命だ。
今、何が起こっているのか分からない。弾丸が飛び交う中、ヘルレアは何の障壁もない場所に佇んでいる。
「うるさい、馬鹿共!」
その突然の大音声は銃声さえ押し退けて響き渡った。発砲音は疎らとなり、睨みを利かす王によって、静寂が取り戻された。
王の怒り、その片鱗を数分前に体感し、見た者達に取っては、それだけで十分な衝撃だった。
王は女の首を握りしめたままだ。生きているのか、死んでいるのか分らない。すると王が女の首を掴んで人形のように揺さぶると、呻き声を上げ始めて、女がただ気絶しているだけなのだと分った。
女は目覚めると喉が潰されている為か、蝦蟇のような声で喚き出した。
「おい、カイムの下っ端。このブタと三下共をまとめて連れて行け」
兵士達がぎょっとして王を見ているので、カイムが頷いてやると連行を始めた。
ヘルレアが何者なのか、兵士達は既に知った上で任務に当たっていた。この日、王の為に特別に編成された部隊で、正式な名称は無く、俗称も持たない、選り優られたエリート達だった。
カイムは正直迷った。今の段階では王の事を知る人間が増えれば増えるほど、余計なトラブルを招き兼ねなかった。しかし、王を連れて民間人が暮らす街へ出るのは、あまりに危険過ぎた。ノイマンの死によって、ヘルレアに接触を試みるのは何も、ステルスハウンドだけではないからだ。そして、何より危険だったのはカイムの同道という、王の足手まといだった。ヘルレア一人ならば何とでもなるだろう。だが、カイムが居ることによって、ヘルレアの意思を何らかの形で曲げかねなかった。
これはヨルムンガンドの質というより、ヘルレイア固有の危険性だった。
王の為の部隊でありながら、守るのはヘルレアではなく実のところカイム自身であった。
ヘルレアは喪服の女を兵士へ渡すと、兵士は王を一切見ることなく手早く女を拘束した。
「王、王、偉大なるヨルムンガンド様。どうか話しを……」女は猿ぐつわをされ、問答無用で引き立てられた。
「よくもまあ、これだけゾロゾロ連れてきたものだな。うっとおしくてかなわなかった」
「自衛の為ですよ。僕も一応それなりの地位がありますからね」
ヘルレアが眠る女児を軽く片手に抱いている。カイムは、王のそういった姿が思いの外愛らしくて、くすくすと密かに笑う。
「何を笑っていやがる」ヘルレアがカイムの足へ蹴りを入れて来た。膝を突きそうになる程痛い。だが、どれだけ手加減しているのか考えると恐ろしくなるので、カイムは取り敢えず思考停止しておいた。
ヘルレアはジゼルを片手に抱いたまま、鼻で嘲笑う。「偉そうな事を言って、結局は他人任せじゃないか」
「それは、さすがに数が数なので。人間の僕一人だけでは無理があるかと」
「まあ、いい。随分と笑わせてもらったからな――だが、この子供はもう、一般社会へ置くのは無理だろう」
「そうですね……下手に放置すれば悪用されかねません」
「でたらめに綺紋地味たものを綺述しやがって」
「綺紋官能がないのに、どうして綺紋を利用出来るのでしょう」
「こんなものは綺紋ではない。綺述に整合性がなく、おまけに虫食いだらけでまるで成立していないんだ。駆動できる理由が、冒涜的なものであるとしか考えられない。レグザイアの狂信者が。一体何を掘り返して来た」
ジゼルは寝息を立てて、ぐっすりと眠っている。ヘルレアはその姿を見ると、溜息をついた。
「殺してやるか……」
「そんな、駄目です。この子に罪科はありません。こんなに残酷なことをされておいて、更に命まで奪うなど」
「だが、こいつはどうにもならない。放って親元にでも返してみろ、綺紋モドキが悪さして、直ぐに破綻する」
「出来るなら、そのまま棲家に連れ帰りましょう。もう、この子には帰るところはありません――無いという事にするしか、方法がないのですから」
「知らぬ間に仲間へ引き込まれて、一生恨まれるぞ」
「分っています。それだけの覚悟が無いのなら、言いません」
「バレたら誘拐犯ではないのか」
「そこは心配しないで下さい。戸籍も偽造ますし、必要なら何でも揃えられます。ついでに言うなら、親権者に訴えられても、穏便に済ませます」
「ライブラの私がどうとか言っていたが、お前達も相当ヤバいな」
「今更、何をおっしゃる。王には言われたくありません」
「仕方ない、連れて帰ってやれ。民間人の所へ置くよりはいい」
ヘルレアは黒鉛のようなナイフを取り出すと、ジゼルの首輪を切った。首輪の下には文字が焼印されており、ヘルレアはその文字を細く切り付ける。
「今はこれしか出来ないが、しないよりは抑えられるだろう」
猟犬がカイムへ車を寄せた事を伝えに来た。
倉庫を出ると車が横付けされており、ヘルレアはジゼルを乗せると、そのまま王自身も乗り込んだ。
カイムは思わず棒立ちしていた。まさかここまで素直に、車へ乗ってくれるとは思わなかったからだ。
ヘルレアが顎でカイムを呼ばわる。
「カイム、勘違いするなよ、このガキへのちょっとしたサービスだ」
「サービス?」
「もう少し人間として、暮らし易いようにしてやるって事だよ。このままではおそらくただの人形のままだ」
「そんなに酷いんですか?」
「一体、何を見ていたんだか」
「切っただけでは駄目なんですね」
「あれはカイムへのサービスなんだけどな。あれをしないと盗聴、盗撮、位置特定等々の可能性があるぞ」
「それはありがとうございます。手間が省けました」
「猟犬には過ぎた事をしたようだな」
「感謝しています」
車は倉庫街を抜け人通りの多い商店を走る。先程、カイムとヘルレアが買い物していた店が横目に過ぎて行った。
「この子供はどうするんだ。まさかカイムが育てるのか」ヘルレアは笑う。
「さすがにそれは、今の時制では無理です。それに僕、独身ですし。職員に託します。でも、目の届くところには置くつもりです」
「よく見ておいてやれよ、まともな人生は送れないぞ。殺してやる方が慈悲深い施しになるかもしれない」
「ご心配無く。彼女が仲間になった以上、僕が見守るのは義務です。ですから王に生命を差し出すわけにはいきません。今はたとえ幼く、自らで立つ事もままならなくても、人は直ぐに成長します。いずれ彼女自身で道を選ぶ時が来るでしょう……エマのように」
ヘルレアは少し考えているようだったが、ジゼルへの関心を失ったように外を眺めだした。
「ヨルムンガンドだ、王だ、と馬鹿な連中ばかりだ。私はそいつらに付き合うのは、もう辟易している。何をそんなに有難がっているんだか。このガキもいい迷惑だろうに」
「それは耳が痛いです」
ヘルレアの横顔は微かに笑っている。
「お前も馬鹿な連中の一人だものな」
「この子のような子を、作らないように生きてきたつもりでも、知らないところでは多くのものを傷つけている……分かっているつもりです。それでも、そう生きずにはいられない――愚かしい限りですね」
「理解はできる。でも、同情はしない」
「同情は必要ありません。いつか罰は受けましょう」
ヘルレアが鼻で嘲笑う。
「お前、碌な死に方しそうもないな」
「今更な、お言葉」




