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第4話 真の名前〈後編 祈り〉



「雨が激しくなってきたな」ヘルレアがソファに寝転がったまま、目を閉じて呟く。


「雨ですか?」向かいのソファに座るカイムは、遠くカーテンの引かれた窓へ視線を送る。


 防音施工をしているので、外の音は聞こえないのだ。人間には。


 執務室にはカイムとヘルレアだけが居た。ジェイドとチェスカルは一時的に別の仕事で離れている――という、まあ、単純過ぎる設定である。


「だから急いで棲家に来たんだけどなー」ヘルレアがソファで猫のようにゴロゴロしている。


「僕はあまり天気予報は見ないので、分かりませんでした」


「まあ……理由はなんとなく分かっているが」


「どういうことですか?」


「ヨルムンガンドというのも、なかなかに面倒だなという話だ」


 カイムは先の会話をしたために、何となく込み入った理由が聞きづらく、他の話題を探した。


「一緒に食事をしませんか? ご希望のものをご用意致します」


「あ? ――人間の肉」王が怪しげに微笑んでいる。


「王、そういった冗談は受け付けかねます」


「カイムなら、もっと怒ると思っていたけどな」


「今でも十分に怒っています」


「つまらない奴だな、お前は」


「本心というものは、悟らせるべきではないと心得ていますから」


「――私は食事をしないんだよ。人間のように野菜や穀物をそもそも好んで食べない。いや、ほぼ食べられないと言う方が近いか。そして何より、家畜の肉は臭くて、完全に食べられないんだ。

 飢えというものには際限がなく、人間の血肉を求め始めれば、歯止めが利かなくなる」


「それを知っているのは?」


「一応、言葉にするのは初めてだ」


「人の前で口にするべきではないかもしれません」


「まあ、そうだな。誰だって食い物扱いされるのは御免だろう」ヘルレアが瞼を閉じると、長い睫毛でどこか物憂げだ。


「食べずにいられますか?」


「お前よくそれを聞けるな」ヘルレアは楽しげに笑う。


「ヨルムンガンドの生き方を曲げて、それを最期まで貫き通そうとするヘルレアは強いな、と」


「まあ、血の味も忘れて久しい――食事に誘ってくれるなら、カイムの血を喜んで頂くが?」


「……今なぜか性癖というものを想起しました」


 ヘルレアは小さく吹き出した。


「前言撤回だ。カイムは面白いな……」


 王はソファから立ち上がると、カイムの隣に座る。カイムはできるだけヘルレアの方へ向いた。王はカイムの手を取ると、その手のひらにヘルレア自身の指を這わせた。


「怖いか?」


「歯止めが利くならば」


 ヘルレアは指一本だけ爪を立てて、カイムの手のひらを掻いた。一瞬の痛みが走ると、ヘルレアは直ぐにカイムの手に顔を寄せる。ぬるりとした柔らかなものが手のひらを舐め、(うごめ)いた。


 体温を感じないだけ、どこか生物的な感覚は乏しく、濡れた肌触りがなければ、それこそただ無機物でくすぐられているよう。また、ヨルムンガンドだという事実は無視出来よう筈もないが、一応それなりには未成年であり、まだまだ幼さが残る子供だ。ともすれば猥雑さを喚起しかねない状況ではあったが、今回の場合においてカイムはあまり性的な接触には感じられなかった。


 どちらかというと、猛獣に舐められているような緊張を彼に強いていた。


 強張りそうな身体を理性で抑え、あくまで平静な心持ちで、感触を確かめるようにしていると、次第に鼓動が早くなり呼吸が乱れて来る――その事実に気がついた。


 恐怖ではない、これは完全に性的な興奮だった。襲い来る衝動に、迷う事無く気付いてしまった。目が回るような気分で、カイムは舌の感触を意識から排除しようと口腔内を強く噛んだ。


 そして、自身の前に深く身を折るヘルレアを自覚した途端、カイムは顔を逸し、思わず空いている手で口元を抑える。


 カッと熱が押し寄せて、酷く暴力的で猥雑な考えが土砂崩れのように頭の中を汚して行く。


 ――この眼の前にいる、子供を脅かしたい。


 汚して乱れてゆくさまが、瞬くように繰り返されて――。


 執務室のドアが唐突に開く。


「悪い、カイム忘れて……あ?」顔だけ出したジェイドは、一瞬で扉の奥へ消えてしまった。


 カイムは何かが弾けたように、周りが見えるようになった。速い呼吸を繰り返して、熱に浮かされた自分自身をみつける。


 身体を折ったままヘルレアは震えている。まさに肺の息を全て出すかのような音と共に、カイムへ向けて舌を突き出した。そこには血の一滴もついておらず、完全に計られたのだ。カイムはしっとりと濡れた手を胸元のハンカチで拭う。


「本当に切られたと思っただろう」


「……結構な痛さでしたよ」


「お前、体温と心拍数が上がってるぞ。興奮してたな」


 ヘルレアは悪戯が成功した子供のように喜んでいる。


 興奮していたなどという段階ではなかった。カイムは口元を押さえる。


 ――欲情していた。


「案外に生々しかったもので」


「気持ちよかったか?」


(たわむ)れが過ぎます」


「ジェイドならノックもせずに入って来るかと思って待っていたんだ。なかなかの衝撃を与えられたかもしれないな」


「何かとんでもない勘違いをされたかもしれませんよ」


「あいつも大人だ気にするな」


「あなたという方は……」カイムは小さく笑い出すと止まらなくなって、笑い続ける。


 ヘルレアは視線を落として微笑んでいる。その顔は優しげで、カイムの笑う姿を静かに感じているよう。


 どこか母親を思い出すその仕草に、カイムはいつの間にか深く息をついた。


 ――息が詰まるような。


 カイムは笑む。


「ヘルレアは悪戯好き、というか、常に人を翻弄してやまないですね」


「楽しめたならよかったな。だが、カイム。私に血肉はくれるな。この渇きはおそらくお前が思う以上に、私を苛むものだ。全身が焼けるような……そうだな、おそらく水を与えられない人間が、生き続けることを、強いられるようなものかもしれない――血肉を喰らえば、私が、今の私でいられる保証ができない」


「僕もあまりに軽率でした。申し訳ございません」


「まあ、今回はカイムが謝ることではないな。お前で試してみたんだよ――本当に喰いそうになった」


「さすがに手を舐められた後では震えが来ます」


 ヘルレアが呑気に笑っている。


「でも、試したというのは、なぜ今更」


「私は滅多に人間と触れ合わない。ここ最近ではジェイドとオルスタッド、それにエマ、その三人に接触したが、生身というのはできるだけ避けている。あと一つ言っておくが、私自身の性的興奮を誘発しかねない関係もあるから、不用意に近寄ることはしない部分もあるんだ、それで……、」ヘルレアは突然口ごもった。


 カイムが待っても王は何も言わない。ヨルムンガンドの性にまつわる話にためらったのだろうか、とカイムは何も口にしなかった。


 ヨルムンガンドの性については、いまいちよく分かっていないところが多いのが現状だ。ただ、性別を持たず、人間の男女双方と番えることが可能である、そういう情報しかない。番えるということはつまり性交を行うというのが前提にあるが、どういった時期に相手の性を受け入れられる状態になるのか、全くの不明だった。ヨルムンガンドの身体の機能を観察できる立場にいる人間など、いないに等しく、また行為そのものを観察記録できるものなど、また等しく存在しなかったからだ。


 王と、その番。そして、その組織に属する人間。


 それらには大きな隔たりがあり、記録という行為が成り立たないように()()()()のは明らかだった。


 また、話題も話題故に、喜々として尋ねるわけにもいかない。


「……僕に近寄って、あまつさえ触れて舐めるとか、問題はないのですか」


「私ではなくて、やはりカイムの方に問題が起きたな。性的興奮を誘引されただろう。さすがに粘膜まで接触すると、激しい興奮を誘うな。久し振りに試してみたが、昔と変わらないようだ」


「昔、ですか? なるほど。これは世界蛇の能力なのですね。薬でも打たれたような感覚でした。王はエマにキスをされていましたが、危険はないのでしょうか」


「あれは表面撫でたようなものだ。危険のないやり方は心得ている。まあ、極端に耐性の無い子だったら保証は出来ないけどな。あんな臭い迫られ方で動揺し続けるって、どれだけピュアなんだって話になるが。この、血気盛んなクソゴツい猟犬だらけの棲家にいる女なら、男くらい簡単に()()()()のではないか」


 カイムはなんとも言えない複雑な顔で笑う。安心したような気もするのだが、逆にエマが心配にもなった。カイムは自分が男であり、何よりも主人だから、鍛え上げられた猟犬というものを、当たり前だが何ら意識した事がなかった。それがエマを中心に周りを見ると、兇器として育て上げられた男の猟犬達に、囲まれて生活をしているのだ。


「エマに手を出したら、ぶっ殺してやると顔に出てるぞ」


「僕の場合、言ったら駄目な部類の冗談ですね」


「お前、本当にキレて、舘の猟犬全部放って食い殺させそうだよな」


「……王が僕の事を、どう思われているのかよく分かりました」


 カイムは髪を掻き上げる。そして、思わず顔を覆ってしまう。何故か自分が奥ゆかしい少女のようになった気がしてうなだれた。


「さすがに、(おのの)いたか」


「相手があなたなので、何というか……絶対に乱暴する心配がなかったから――とにかく、恐ろしくなりました。相手が人間だったとしたら、と思うと」


「お前に乱暴される程、お人好しではないから安心しろ――手を出そうとしたら肉塊にしてやるからな」


「それにしても、なんというか、あまりに考えなしではありませんか」


「よかったな、これで私にも変化があれば、カイムの思い通りかも。興奮して本格的に盛りがついたら番になれるかもしれないぞ。始まりは試しの餌扱いとか、とんでもなくアホくさいけどな」


 カイムは、ヘルレア自身が番の話を出してくれたことは喜ばしかったが、方向性のおかしさに首をだらけさせた。これは完全に本気ではない。ふざけきっている。


 ヘルレアという幼蛇は案外に陽気だ、とカイムは思う。悪戯好きのようだし、冷や冷やする瞬間でも軽い調子で片付けてくれるのだ。どこか不思議な色をした、人間に対する真摯さを常に感じる。


 だから、カイムは初めて会って、そして思いがけず再会したあの時――ただの人だ――とまで感じ入ってしまったのだろう。しかし、それをヘルレアへ見出し続けることはできるのだろうか、あるいはこの先も、見出すことが赦されるのだろうか。


「聞いてもよろしいですか」


「なんだ、改まって」


「何なら食べられますか?」


「そうだな――カップケーキ、干した果物が入っているやつ」


 カイムは瞬いた。ジェイドが東占領区でのことを、説明していてくれたのだ。


「……用意できます。棲家(うち)の料理人が、お好み通りに作れるかは分かりませんが」


 カイムは静かに微笑む。


 どうか、(ゆる)しがありますように、と祈る――。



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