第30話 過ちの代償〈後編 献杯〉
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カイムが車から下りると、霧雨が降り道路を濡らしていた。水溜りが夜の灯りに揺れている。長い秋が過ぎつつあり、冬とまではいかないが、そろそろ寒さを迎える季節が迫って来ていた。
もう一週間も経たずに外套が必要になるかな、とカイムは息を吐いてみる。けれど、息は白く上がらなかった。マツダが手違いをするわけも無いか、と、肌を撫ぜる風の、少し冷たくも心地良い感触に肩の力が抜ける。
高い場所にある、アトラスの顔。彼はいつも通りの服装で、濃灰色をした常装開襟制服を着ている。カイムが、背の高いアトラスを見上げると、穏やかな面差しで主人の世話を焼いていた。アトラスが差し掛ける傘に、ジェイドの面影を見て笑みが微かに溢れる。いつか若いアトラスが、ジェイドを継ぐかもしれない。
何となくカイムは背広のポケットに手を突っ込む。普段なら絶対にしない無作法だが、自分の猟犬しかいないので気が抜けている。それを目敏く見付けたアトラスは、自分が着ていた制服の上着を素早く脱いで、カイムへ着せかける。
「……冷えますか」
「いや、何となくね。アトラス、上着も必要ないし、傘もいい」
「ですが、」
「独りであいつに会いたいんだ、今は独りで歩きたい」
「承知致しました。いってらっしゃいませ」カイムの肩に掛けた上着を取り去り、自らの腕へ掛ける。
カイムは僅かながらの貴重な孤独を味わいながら、ビルの半地下へ向かう。いつもの不吉なプレートを横目に店へ入った。バー、ヘルハウンドで、カイムは玩具屋オリヴァン・リードと再び会うことになったのだ。
オリヴァンは季節感を一切無視する男だ。相変わらず、意味の判らない柄をした半袖と、短パン、無理があるだろうにビーチサンダルを引っ掛けて、カウンター席でふんぞり返っている。
「やあやあ、今回は情報の厚みがちょっち違うぞ」
カイムは西アルケニア、東占領区の最新の動向を詳しく知る為に、好きでもない――むしろウザい男の面を拝みに来なければならなかった。
カイムがオリヴァンの隣に座ると、葉巻きが薫っている。
「時間が無い、さっさと行くぞ。東占領区の爆心地はエルドラントという町である事が、衛星写真から分かった。周囲数十キロが吹っ飛んで、周囲も雪崩れるように全滅と来た。核か水爆でも使ったかと言いたいところだが……」
オリヴァンはウイスキーを僅かに含むと、店で注文した葉巻を吸った。吐き出した煙は独特の芳香を放ち、先程と同じ薫りがする。カイムはといえばバーに来ていても、一応仕事の一貫なので炭酸水を飲むか飲まないかの程度で、口に運んでいた。
「……破壊の規模はかなり大きいと予想していたが、そこまで深刻だとはね」
「深刻も深刻、大深刻ときたものだ。あの国は国民にはちと厳しい。救援も期待出来ないし、諸外国からの救援物資も被災地に届く可能性はゼロに近い。つまり駄目なら駄目で、そのまま放置だ。視察する連中は行くだろうが、それっきりで何もしないだろう」
「無惨なものだな。施政者は自国民を蔑ろどころか、初めから存在しないもののように振る舞っている。もし、王が紛れ込んだら、好き放題に荒らしていくだろう」
「まさに打って付けの巣というわけだ。人間は食い放題。虐殺はし放題。飽きればポイッだ」
「そのような場所に影とヘルレアを送り込んでしまったうえ、ジェイドと王の二人だけの組みを作って、東占領区の捜索をさせてしまった。まったく結果が見えない」
「生きてくれてりゃ万々歳、そうでないなら仕方なかったと神を恨め。神はいい。恨んで、恨んで、恨み倒そうとも、何も文句は言ってこない。
ところがどっこい、王を恨めば首が飛ぶどころか、挽肉になって食われちまう。お前達ステルスハウンドは、挽肉予備軍だってことを忘れるなよ」
「猟犬の主人の前で、血も涙も無い」
「お前にもそいつはないだろうが」
「少なくとも本人の前で、言わないくらいの礼儀は備えているよ」
「ところでどうだ。ヘルレア王は口説き落とせそうか」
「居ないものをどう口説けと言うんだ」
「違う、意識的な問題だ。正直言ってヘルレア王は、まだ子供だ。いくら美しかろうとロリコンで無い限り手を出すのは、色々な意味で辛いと思ってな」
「それは了解済みだ。王が子供なのは仕方がない。番を得て初めて一次性徴が始まるのだから。こればかりはどうしようもないだろう。王が大人になっていたら、僕達には更にどうしようもないが。……まあ、生きながらえて下さったのなら、少しは希望があるとも言えるが、番う相手でまた状況も変わるだろうけど」
「やっぱり、お前は相変わらずの、ロリコンか。だから、どうて……」
カイムはオリヴァンの口を叩くように塞いだ。
「こんなところで、なんていう話をするんだ。しかも大声で。分かっているだろう。馬鹿な事は言うな」
オリヴァンはけらけらと、カイムの手の内で器用に笑っている。
「悪い。悪ふざけが過ぎた。なんだか、お前の顔を見ると、からかいたくなるものでな」
「度が過ぎれば、頭から水を浴びる事になるぞ」
オリヴァンは怖い怖いと言って、ブランデーを回した。
「ところで、珍しく、お前の方から話があるんじゃないのか」葉巻きを灰皿で押し潰す。
「……オルスタッド以下二名、全員死亡と確定した」
「やはり東占領区にいたか。全員死亡とは、悔やむ事しか出来ないな。一応確認しておくが、蛇に殺されたって事でいいんだな」
「そのようだ……」
「運命とは言えど、か」
オリヴァンの方から、酒の入ったグラスを掲げた。カイムは――相変わらず厭な男だな――と苦く笑った。二人はグラスを無音で合わせる献杯を捧げ、中身を飲み干した。




