第28話 あなたを守るもの〈前編 万古の闇〉
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壁面全体にも及ぶ硝子窓から見る景色は、高層ビル群からの光が立ち上るように滲んでいる。その中でも、赤い航空障害灯が一際強く灯り、くっきりとビルの姿を引き立てていた。その景色が見られるのは〈天秤協会〉の会長だけ。ライブラ本部に設えられた、会長の個人宅であった。
主照明が消され、蝋燭を思わせる淡い間接照明が、暗がりを僅かに照らしている。外のビルからの光もあるが、ビル同士の高低差で煌々と部屋を照らすとまではいかなかった。
その部屋は居間なのだが、殺風景でソファセットと、ガラスのテーブルだけが置かれている以外に何もなかった。テレビ、オーディオ類の機器や観葉植物等の彩りを添える品々も無い。部屋の主は自らの身辺に関わることの興味に、激しい偏りを抱いている。ただ暮らせればいい、そんな機能性一辺倒な寒々しい、独り身と直ぐに知れる住居である。
その薄闇の中、独りの男がソファに身を預けていた。男はワイシャツを着崩し、ネクタイを緩めたスラックス姿であった。如何にも高級なジャケットが、ソファへ丁寧にたたまれて置いてある。
蜜色のブランデーを傾けて、密やかな灯りにグラスを透かしている。テーブルには値の張る高価なブランデーの瓶が置かれていて、酒は半分以上無くなっていた。
ライブラの会長、アンゼルクはふと何かを見つけたように目を上げた。それはまるで壁を這う小さな蜘蛛を目の端で捉えたかのようであった。何を考えていたわけではない。ただ口腔を濡らすブランデーに身を揺蕩わせていただけだ。
少しだけ神経質になっていたのかもしれない。この僅かな心の揺らぎがむず痒い。
普通ならどう反応すればいい。
――これは愚問か。
どうにも浮き足立ってしまうのは、当たり前に流れていく時間のように、当たり前ではないことが進んでいくからだ。まるで規則正しく刻まれる秒針のように、何もかもが手のひらで滑らかにステップを践んでいく。それに誤りはない。
――この僕が許さないからだ。
さて、これからどうしてやればいい。
〈向こう側の女達〉の采配がこうも望むように転がっていくとは思わなかった。あと、少しだけ手を加えてやればいいだけ。アンゼルクは完全な傍観者として立ち続けられる。こうして酒を飲んでゆっくり経過を待てばいいのだ。
邪魔が入るとすればステルスハウンドか。奴等の動きは注視すべきだろう。あまりにもヘルレアへ近付き過ぎた。今までに出来ていた歯車を崩しかねない。少し猟犬を甘く見過ぎたか。それ程気には掛けていなかった連中が台頭し、次はどのようなおもしろい景色が見られるだろうか、というのも案外一つの楽しみでもある、が――。
すべては均衡が大事なのだ。まさに、それこそが天秤だろう。どちらかが過ぎれば、どちらかが落ちる。互いに沈まぬように競い合い、危ういところで踏み止まり、足掻くその滑稽さよ。
それにしても、あの王は相変わらず、死と破壊という、ヨルムンガンドの本能に真っ直ぐ従い、赴くままに暴虐をしてくれる。あの王がこれからも、自由に動き回ってくれれば、闇に吹き溜まったクズ共が右往左往して、何十万、何百万単位でくたばってくれるだろう。
――さて、卑しい猟犬共は何万死んでくれることか。
――それにしても、うっとおしい蝿だ。
「……ヘルレアの周りに集りやがって」
ヘルレアが猟犬のねぐらに入り込んだのは、今更になって、やはり番が欲しくなったのだろうか。番うようには見えないというが。それでも。
――カイム・ノヴェク。
不吉な男だ。
猟犬の主。
王の血筋、その直系――。
だとしたらヘルレアは今、恋愛ごっこの駆け引き中でもあるのか?
あの二人が番になると?
アンゼルクは我慢出来ずに喉だけで静かに笑う。
あの血と怨嗟に溺れる男と、死の具現たる王がファックするのか。
お似合いではないか、穢らわしい血を背負った者同士のまぐわい。
だが、
お笑い草な事にヘルレアには奪い、食い荒らすことなど出来はしないだろう。カイム・ノヴェクとて物事を踏み躙れない――敢えて、そうあり続けているようだ――だから、この二人がどうして互いの首を絞められる。必死になっても結果が今のザマなのだから、これ以上あの二人に未来は無い。
「やはり、番うなど、奴らには無理だ」
――ノイマンがヘルレアへ毒を仕込んだのだから。
――王はもう駄目だ。
あのような王など、いっそ食い潰してしまっても、それはそれで悪くはないのだが。しかしそうなれば、もう、この実に愉快な闘争が、終わってしまうのも確かだ。
あとは崩壊するしかない。
人間はどうなる?
――百年、二百年また後退するか。
リテルシアが遺した祝福、あるいは呪い。何度も何度も下がっては進み、下がっては――立ち止まる。彼女は、もう少し人間というものが、賢明であり慈愛深いと信じてしまった。
「ありがとう、リテルシア・アスガルタ〈鷹の子〉よ。そして、我が愛しき愚かなる女神」アンゼルクは独り乾杯の仕草を取る。
あの王なら、素晴らしいものを見せてくれるだろう。
ブランデーのグラスを回して弄ぶ。ソファに深く身を沈め、頬にグラスを当てがってみる。目を瞑るとあの青い瞳が蘇ってくる。あのどこまでも青く澄み切った、この世のどこを探そうとも、見つけ出すことが出来ない、比類なき深青。
アンゼルクはあの目を曇らせたいと常に思っていた。それこそ彼自身の存在理由だと自負し、そしてその事自体に悦びを感じていた。
――王が怪物なら、僕は何だ。
獣か。妖獣か。魔獣か。
それとも紛れもなく人間そのものなのか。
アンゼルクは持っていたグラスを肘掛けに下ろすと、密やかに笑った。笑いで震える手の中から、酒がこぼれて床を濡らした。
――さあ、証明してくれ。相対する王共。
踊り狂って、この悦びを分かち合おう。




