第18話 幸福の値打ち
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暖かいシャワーがエマの顔から肩、胸、広い腰へと流れていく。シャワーの水音以外何も聞こえない。身体が少しづつ温まって来ると、胸の奥にある芯のようなものが、深いところまで沈んで行く様な気がした。頭がじん、と震える感覚に酔っていると、身体が火照って来て、エマは顔から髪へかけて手で拭い上げた。
エマはシャワー室から出ると、バスローブをまとって髪をタオルでまとめた。
居間へ来ると低卓に置いていた電子端末で着信履歴を確かめた。館内で親しい女性事務員からの外出を誘うメールが来ていた。エマはその誘いを受ける事にして、返信を書いた。カイムはしばらく休みをくれると言っているから問題はあるまい。他には、やはり館内の女性職員からの恋人に付いての、たわいない話のメールで、エマは微笑んだ。
オルスタッド達の任務は長引いている。ジェイド達もまた、帰っては来ない。今まで全ての班が同時に長期任務に当たる事はほとんどなかった。誰かしら館に詰めていたので、エマは不安な気持ちに駆られる。
――何か起こっているのだろうか。
けれど、カイムに問う事も憚られる。エマが不安な素振りを見せたら、必ずカイムを困らせる事になるのは分かっているからだ。それは幼い頃から既に知っていて、エマは常に見て見ぬ振りをして来た。
今回もまた同じ。けれど、今までと違う何かが起こっている予感がする。それも最悪な形で進行している。
――取り返しが付かない事が起こっているのかもしれない。
エマはソファに横になると、胎児のように小さくなって胸を抱いた。こうすると少しだけ落ち着いてくる。
何が起こっていようとエマには何もする事が出来ない。これもまた同じこと。エマの気持ちと現実が齟齬を起こすのは、館で誰よりも役立たずな存在だからだ。動こうとすればするほど、カイムを煩わせる事になる。
何が私の裏で起こっていようと、気に掛けてはいけない。動いてもいけない。そうしないと大きな何かが、損なわれてしまう気がするのは、エマ自身が弱いからだとしか思えなかった。
力も、意思も――。
しかし、どんなにエマの目から隠されていても、いずれ分かる時は来るのも確かだ。
エマは起き上がると洗面所へ行って、頭に巻いていたタオルを解くとドライヤーで乾かし始めた。赤味の強い茶髪は濡れて余計に赤く見える。洗面台にある鏡の前で自分自身の顔を見つめた。エマは母親に良く似ているのだと、うっすらとした記憶の中で重ね合せると、喜びと共に切なさが蘇る。父も母も大人になったエマを見る事なくこの世を去ってしまった。できる事ならステルスハウンドで両親と共に働きたかった。エマは両親が健在の頃、大人になったら当たり前に自分がステルスハウンドで働くものだと思っていた。そう思うだけの自然な光景が館にはあった。
エマは髪が乾くとブラシを通してから寝室に行って、クローゼットを開けた。白地に小花の刺繍があしらわれたワンピースをベッドに置くと、バスローブを解いてはだけ落とした。暗い部屋に曲線の強いシルエットが露わになり、引き出しから下着をとり出して身に付けると、ワンピースを足元から引き上げてファスナーを上げる。
今日はカイムとの久し振りの食事だ。一緒に食事、といっても館の食堂で二人だけのささやかな晩餐で、マツダが給仕をしてくれるというものだ。別段、珍しいという事ではなかったが、カイムに余裕が出来た証なのではないかと、エマは安堵しているところがある。
少しだけお洒落をした自分を、クローゼットの鏡で確認すると、一回転してみた。生地ををふんだんに使ったスカート部分が優雅にひらめいた。
後は化粧にまとめ髪をして、それで終わりだが、あまり気合いが入っていない様に見せなければならない。張り切っている事を気取られては恥ずかしいし、反対にカイムに手抜きと思われるのもなんだか悔しい。エマは部屋の照明を点けると、鏡台に座ってほんのりと化粧を施して、今度はきっちりと髪を結い上げまとめた。
エマが時間を確認すると、丁度いい頃合いだったので部屋を出た。廊下を進んでいると、市街戦用の迷彩服を着ている戦闘員と、多くすれ違う。また、濃灰色をした常装の開襟制服をまとう猟犬も、劣らず目に入る。
服装は違っても、皆が皆、一様に大型のホルスターを腰に下げていた。普通は目を引くはずだが、ステルスハウンドの館では日常の風景なのでエマも全く気に掛けてはいない。
今は偶々すれ違わなかったが、普通に自動小銃を肩に下げて歩いている猟犬が、ちょっとそこまでといった体で、常にうろうろ行き交っている。なので、拳銃程度では、もう驚きようもないというものかもしれないが。
正直、カイムとの会食はあまり目立ちたくはない。だが、外廊下と呼ばれる公道に等しい廊下を、歩かないわけにもいかない。よく見知った猟犬達は、エマとカイムの私的な交流を見て見ぬ振りをしてくれている。しかし、新しくステルスハウンドに入って来た職員等からは、エマはカイムに取って特別な何かなのかと、直ぐ勘違いされてしまうから、廊下を歩くのを見られてはいないか、変に神経を使ってしまう。
エマの存在は館関係者を多々勘違いさせるものだが、彼女はカイムと、一度もその何かの様な雰囲気にも、関係にもなった事がなかった。なりたいかと、問われば今とは違う意味で特別な存在になりたいのも確かだ。本人には一度も気取られた事はないと、自負しているけれども。
しかし、エマは自分がカイムに相応しくない事も知っている――。
食堂の扉前で、猟犬が二人折り目正しく立っている。兵士が扉をエマの為に開けてくれる。
カイムは既に席へ着いていた。
「ワンピース、似合ってるね。可愛いよ」カイムはさらりと言ってのけた。
「ありがとう。少し子供っぽかったかな」
「そんな事はない。エマにぴったりな雰囲気だ」
マツダがエマが座る席を引いた。エマが座ろうとすると、カイムが手で制した。
「ワンピースのファスナーが全て上がってないよ」
エマが急いでファスナーを手探りしていると、カイムは立ち上がりエマの後ろに立って、ファスナーをうなじまで引き上げた。エマは顔が真っ赤になって熱くなった。カイムは一切気にしていないのが判る。彼は人に対して常に泰然としていた。焦ることも臆することもしない。――だから、心が解らない。
マツダがにっこり笑って、エマに着席を促すと二人は食事を始めた。
「ノヴェクの本家はどのような様子だった?」
「手入れされていて、とても綺麗な状態よ。モデルルームのようだった」
「そうか、あそこは庭が見事だったろう。特別に樹木を取り寄せて庭木にしたからね。長く青いままの瑞々しい葉が見られる」
「本当に緑がとても美しかったわ。今の季節でも、新緑を少し過ぎたばかりみたいで驚いた。眩しいくらいだったもの」
「――でもね、雪が降るともっと綺麗だよ。何もかも白一色に掻き消されてしまうようで。それが寂しげでもあるんだけれどね」
「いつか、雪の降る庭も見てみたいな」
「また、お使いに行くかい?」
「お使いだなんて、子供じゃないんだから」エマはくすりと笑った。
「それもそうだな。どうも昔の癖が抜けないようだ。ジェイドにもオルスタッドにも言われてしまったよ。エマはもう子供じゃないのだから、と」
「ジェイドはもとより、オルスタッドも妙に人と違うところで鋭いから。なんでも見透かされそうで怖い時もあるの。でも、嫌いになれない不思議な魅力があると思う」
「エマはオルスタッドが好き?」
「好きって、確かに好きだけれど、恋ていう意味の好きじゃないわよ。家族愛みたいな感じ。だって子供の頃から一緒にいたんだもの、いいお兄さんって事かな。たまに子供っぽいところがある気もするけど」
「それをオルスタッドが聞いたらどう思うだろうね。興味深いって言って、考え込んでしまいそうだ」
「ありえそうね。私はオルスタッドを考えさせるのは、ちょっと好きよ」
「僕もそういうところがあるな。わざと意味深な事を言ってみたりして。実際、意味は全くないとか」カイムは笑った。
エマは一緒に笑う。けれど本当は、カイムの場合、冗談で済まないことがあるけれど。
本当に館の人々、特に影の猟犬の周辺には、家族の様な繋がりがある。エマは胸が暖かくなる気がした。彼等、彼女等がいればこの先何があろうと、受け止められる気がした。
「カイムは何をしていたの」エマは言った瞬間、自分が余計な事を口にしたと思った。
「僕は人に会ったり、会議に出たりしていたよ。プライベートな時間はほとんどなかったね。エマも知っての通り、いつもと同じ感じかな。面白味のない男だね」
「何事もないのが一番じゃない。特に、私達にと取っては重要な事だと思うわ」
「本当にそうだね。僕たちに取っていつもと同じじゃないって事は、重大事件へ繋がるに等しいから」
二人がそれぞれ離れている間の話題を中心に、たわいのない話で食事に彩りを添えた。その間一度も仕事の話は出ず、少し不自然なまでに避けていることがエマにも分かった。
カイムは緊張し続けているのだ。今も安らかな状態に置かれていない事が分かった。
デザートが並ぶ頃、マツダが現れた使用人に何か囁かれている。マツダが一つ頷くと、カイムに耳打ちをした。すると、カイムの眉根が歪んだ。
「大叔父様が、僕をご自身の屋敷へお呼びになっているようだ」
「これから……?」
「あの方は容赦ないからね」小さく溜息を吐く。
「どうか、気を付けて――いってらっしゃい」
カイムは片手を後ろ手に挙げ、エマに応えてくれた。それがどこか、心ここにあらずの答えに見えた。




