第15話 獣達の舞踏〈前編 憐れみの果てにあるもの〉
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カイムが書面を見ていると、扉がノックされた。彼が入室を促すと、エマが書類を持って部屋へ入って来る。彼女はいつものスカートスーツと、髪はアップスタイルにして、秘書らしい装いをしている。
「カイム、ライブラからの協力要請が入ったわ。蛇が住民の中に紛れており、多数出没しているにも関わらず、未だに掃討出来ていないということらしいの。
事態は急を要していると協会側は申しており、影の派遣要請をしているわ。
どうするべきかしら。影が出払っている今、通常部隊を出動させるしか手はないけれど」
「……私兵を名指しか。通常部隊を任務に当たらせる。状況的には確かに影を出して早急に掃討するべきだろうが、残念ながら影は全員出払っている。しかし、出し渋って協会側との関係が拗れるのも得策ではない。協会側の人員の手もあるから、影の手を借りなくても叩く事は出来るだろう」
ステルスハウンドに通常配備している部隊は、単独行動や比較的単純な行動をする使徒を狩るためにいる。大規模な戦闘行為にも通常部隊は配備され使徒の掃討に働くが、今回のような特殊な状況は私兵と言えども影の猟犬が、出動する事になっている。――なっているのだが、他組織の暗部に置いている兵士を、名指しで要求するのはさすがに礼儀を欠く。
「直ちに通常部隊を派遣して、協会側と協力して掃討するように通達してくれ」
「……それと、アンゼルク・ルドウィン会長がカイムにくれぐれもよろしく、との事」エマは眉根を少し寄せているのに、口元は意味ありげで、ほんのり笑みを含んでいる。
カイムは苦く笑った。エマが困り顔なのもよく分かる。とんでもなく分かり易い脅しをしてくれる。
「こちらもよろしく、と伝えておいてくれ」
「承知致しました」エマは部屋を辞去した。
今後、〈天秤協会〉は世界中にとって、厄介な火種になるかもしれない。前会長ノイマン・クレスは中立を貫き通す、天秤の名を背負うに相応しい男であった。だが、アンゼルクと言えばその容貌からは想像出来ないくらい、野心の塊であるようだと、カイムは感じ始めていた。
過去、何度かアンゼルクと会ったものだが、あの男の温和さには、裏があると透けて視えていたのも確かだ。己がどのように振る舞えば、人が望むように動くかをよく知っている。それならば、人望も厚いと言う認識で、周りを固められるのは必然。カイムすらも感心したパフォーマンスの上手さや、それらを含んだ人心掌握術全般の手練は、既に悪辣ささえも覚える。
カイムでもアンゼルクの情動は把握し切れない。それならば、一般に気取られる虞は限りなく低いと、カイムは判断した。あれだけの振る舞いが出来るなら、いくらでも心証を操作出来るし、言ってしまえば、カイムと同類の臭いがする。上に立つ人間だ。多かれ少なかれ裏はあるだろうが、あの男はきな臭い。カイムとはまた違う、後ろ暗い欲望を抱えている。
カイムは椅子の背もたれに身を任せ、足を組む。
「……面倒なことになった。早く会長が決まればいいとは考えていたが。恥知らずめ」
カイムが言うのもなんだが、アンゼルクは若い。若いなりの失敗ならば可愛いものだが、あの男が裏社会においての暗黙の了解を、知らないとは思えなかった。カイムとは違い、アンゼルクはルドウィンという姓で、名も無い生まれのようだが、どう這い上がってきたのだろうか。あれだけ自身を律する術を具えているのだから、誰かに師事していても可笑しくはない。
それとも、生まれ持っての才覚なのか――。
どちらにしろ、常識を弁えない行動を取ったからには、いずれ、それなりの制裁を加えなければならない時が来るだろう。無礼が一度切りで済むとは思えない。
頭の痛い思いだ。ヨルムンガンドと戦い、数多の組織間対立を処理しなければならない。また、諸国はノヴェクを嫌うが、手を切るだけの力が国家にはなく、猟犬への干渉も止めない。そして、ノヴェクと国家間には、明確な条約があるわけではないのだが、暗黙で武装制限を科さざるおえなかった。これはノヴェクだけではなく、対世界蛇共通の制限だが、不自由このうえない。
本来、ノヴェクの三権ですら手に余るものを、幾つも幾つも複雑に絡み合って、解こうとすればする程、絡め取られていく。
いっそ全て壊してしまいたいと思う時がある。カイムなら、それが出来るだろう。自棄になれば、ヨルムンガンドなどいなくても、本当に焼け野原にしてしまえる。
「癇癪か? 僕も馬鹿者の一人だな、」自嘲気味に息を吐く。
世界の行く末が変わろうとしているこの時に、トップが世界中を踏み躙る妄想をしているなど、なんと滑稽なことだろう。
今、猟犬は過去にない程、片王に接近しているように思われる。この機会を逃せば次はない。そして、オリヴァンの言う通りヘルレアを逃しても先はない。任務を終えてからでも、なんとかヘルレアをステルスハウンドに引き止めなくては、せっかく繋がり続けている糸が、簡単に切れてしまう。
――その後どうなるというのだろう。
まるで他人事のような思いで、あの小さな身体を抱く空想が無感動に浮かぶ。けれど、
……私が独りで立ち続ける為に、お前の元へ来たんだ。
王は番を端から求めてはいなかった。
ただ、独り戦うという決意。
しかし、番も下僕も持たない未成熟な状態のヘルレアが、正体不明の片王に勝てるというのだろうか。それに、人の世界で生きて来たあの王が、本能へ忠実に生きて来た、暴虐の王と如何程に渡り合えるという。
……大切だから棄てたんだ。
憐れむべき存在ではけしてない。けれども、カイムは思わずにはいられない。過酷な生き方を選んでまで、人を慈しむ道を選んだ、ヘルレアの心を。
この歪みは悪なのだろうか。王は自然の摂理に反した罪深い存在なのか。そういったヨルムンガンドを創り出した、人間こそが真の科人なのか。
それでも自らの半身と戦う事を選んだヘルレイア。分かっていながら、王は覚悟の上で片王と向き合っているのだろう。自らをあえて窮地に立たせながら――。
時間がないのはヨルムンガンドであるヘルレア自身が、一番よく分かっているはずなのに。
カイムは机を撫でてみる。よく磨かれた机はつるりとして滑らかだ。父が机に着く姿が思い出された。カイムが机に着こうとすると父は叱るのだ。
……猟犬の主人である覚悟がない者は、座ってはならない。
あの、言葉――。
全て分かったうえで、父はカイムを諭したのだと今は解る。当時、何も知らなかった幼い自分の後ろで、物事が大きく動いていたのだ。けれども、その真実はあまりにも残酷だった。
残酷に過ぎた。
父はどのような気持ちで、あの時カイムと向き合っていたのか。既に、父があの結末を決めていたのかすらも、もう、判らない。
雪の季節は長い秋の先にある。
このまま秋が終わらなければいいと願う。
永遠の雪に閉ざされた庭で、今も自分は立ち尽くしたまま。
あるいは……猟犬の碑の前から、未だ動けずにいるのか、
父は、双生児が猛威を振るう時代には生きることがなかったが、カイムは誰よりも父には双生児と向き合う資質があったのだと思っている。
――果たして、自分はどうなのだろうか。
父が失われたあの日から、自分は変わっているのだろうか。何も省みることなく生きて来た。ただそうして生きていくしかなかった。結局は選びようがなかったのだ。それは今でも変わりない。だとしたら、初めて銃を手にしたあの時から、何が変わったというのだろう。
椅子から離れ、窓を開けると夕暮れの少し冷たい風が吹き込んで来た。カーテンが煽られて揺れている。風はカイムの髪を乱し、頰に当たる風が心地よかった。長い間、空が暗くなる頃までそうしていると頭が冷えて来て落ち着いて来た。
――あの頃より、どんな結果であろうと、受け入れる覚悟は出来ているかもしれない。
カイムは机の席に着き直し、静かに深呼吸して、ショルダーホルスターに納めていた銃を手にした。銀の銃身に細かい文字のような装飾が施されている。そのクラシックなリボルバーの銃を弄んだ。
いずれ終わる時が来るのも確かだ。絶対とも思える双生児とて永遠ではない。それは、勝利した王にも言える事だ。いずれにしろ王は死に、代替わりして、また人も変わって行く。次の世代に遺せるものは多い方がいい。決して王に屈しないように、立ち向かう術を残したい。先人達のように。
再びノックの音がすると、カイムは銃をしまってから、入室を許可する。マツダが訪ねて来ていた。手にしたトレーにはティーカップ二客とティーポット、お皿の上にはカイムが好きなパウンドケーキが乗っていた。
「お休みをなさいませんか」マツダが一歩下がると背後にはエマがいた。
「さあ、お二人でお茶を召し上がってください。まだお仕事が長引きそうですから」
カイムは肩の力が抜ける思いがした。
「……マツダ、カップとケーキをもう一セット用意してくれ。形式張ることはない、マツダもお茶にしよう――皆でお茶にしたほうが、もっと楽しい」カイムは自然笑みが溢れる。
――僕が壊さずにいられるのは、今この一時を愛しているからだろう。




