第13話 穢れた聖処女〈後編 罪と罰 そして……〉
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店主の言う通り、人を泊めるような部屋ではなかった。案内された二階の部屋は、暗く黴臭い。酒の貯蔵部屋らしいのだが、床は剥き出しの板張りで、木箱が四隅に積んであり、裸の電球がぶら下がっている。随分と酒が粗末に扱われていると思ってしまうのは、館の酒用貯蔵庫が、完璧に管理されているのをちょくちょく見るからか。主人の気まぐれな遊興が、ジェイドへ与えた知識は、この状況を余計に寒々しく感じさせる。
店主が高い位置にある裸電球を灯す。
「住居は別にあるのでいつもは昼過ぎにならなければ、店には来ない。早めに顔をだしますが、行き違いでも構いませんよ。小さい村だ。ここいらはどうせ、知り合いしかいないから、こそ泥が出ようもないものでね」
店主は二枚の毛布を持って来たり、何やかんやと彷徨いている間、明らかにヘルレアを不躾に観察していた。当のヘルレアは店主の視線に気が付いているだろうに、一切見向きもせず無視を決め込んでいたのだ。やはり王は、こういった人間の下卑た行為もやり過ごせる程、人の世界に馴れている。
ジェイドは店主を追い立てるように――はっきりと言えば全ての行動を妨害して、扉を手早く閉めてしまった。
ヘルレアは毛布を見向きもせず、放置したまま膝を立てて座った。「野宿よりは、ましだろう」
「確かに、風を防げる分だけ、居心地は悪くない……だが、この部屋を借りる為にやった事は、大分やり過ぎだ」ジェイドは毛布を一枚手にすると、床に敷いてから、あぐらを組んで腰を下ろした。
「もう、それはいいだろう」ヘルレアは煩い虫を払うように、手を投げ遣りに振る。
「気になったんだが……あれだけ酒を飲んで、何ともないのか?」
「身体の構造の違いか、私は酒で酔わない。工業用アルコールだろうが、製造限界度数の酒だろうが何を飲んでも変わらなかった……ただし同時に、美味いとも思わないが」
「それを聞くと、試してみたようだな」
「ん? ああ、まあな……くだらない、ガキの遊びさ」
「学生のような遊びをするな。まさか、先程のような事をしたのか?」
「いきなり今の私があるわけではない。もう過去の事だ。お前に話す価値を見出せない」
「……そうだな。互いを知る必要もなし」
「そんなことよりお前は聞いたか? 空に走った柱の事を」
「王も聞いたか。この村では話題になっているようだ。規模があまりに大き過ぎる」
「これは王がしでかした事だろうな」
「まだ片王が留まってくれているといいが」
ヘルレアは黙って何か考えている。一つ息を吐くとジェイドを見た。
「これは言っておく。私はまだ成長しきっていない。気配を読むのは正確にとはいかない」
「それでもないよりは、確実にいい。指標が立てられるのとそうでないのとは雲泥の差だ」
成長しきっていない。番がいないのだから当たり前だ。王が大人になるのは番を得てはじめて叶う事柄だ。この死期も近い時に自分からカイムの事を袖にしたのだから、未だ子供のままなのは当然だろう。
だが、ジェイドは主人とヘルレアの未来が想像出来なかった。言葉では簡単に表現出来るだろう。二人は交わって夫婦となり、ステルスハウンドを手を取り合って治める。いずれ、ヘルレアは子供を孕むかもしれない。ノヴェクからヨルムンガンド・ヘルレイアを生母とする――始祖双生児が――新たに生まれて、血統が枝分かれする。
だが、その言葉の狭間を全て埋められる姿が、一つも思い浮かばない。
ヘルレアはカイムを愛するのか?
ステルスハウンドはどうなる?
カイムは自分の禁忌なる子供へ何を見出す?
「……何故、カイムの申し出を断ったんだ」
「ジェイドは初めて合った相手に、結婚してくれと言われて受けるのか?」王は悪戯っぽく笑う。
「それは、普通の人間が言う理屈だ。王は人間ではないだろう。俺がどうとかの問題でもない。もしかして、本当にカイムの容貌が気に入らなくて振ったのか? そんな、ふざけた理由で」
「まだそれを言うか。いい加減諦めたらどうだ。ジェイドがどうこう言おうと変わる事はない」
確かにジェイドが王を説得できるとは自分でも思わなかった。ただ、ジェイドの主人であるカイムが何故、王に相応しくないのか知りたかったのだ。未来を想像出来ない二人への、確かな理屈が欲しかった。冗談で聞き流したくはない。
ヘルレアは驚く程はっきりと溜息をついた。
「……私は元々、番など持つ気はないんだ」
「なんだと?」
「話しは止めだ、私は寝る! ジェイド、お前も休むことだ」
寝ないだろう――そんな言葉も飲み込むしかなく、それっきり会話は途絶えてしまった。ジェイドもヘルレアも、身体を横たえる事なく休み、いつでも動けるような体勢だった。長い間、そのまま二人とも目を瞑っていた。
ジェイドは意識していなかったが、ヘルレアを少女と見なす人間が多い。酒場に居る男達からは、完全にお嬢ちゃん扱いされていた。確かにジェイドにも、ヘルレアは女寄りに見える時がある。だが、ヘルレアに性別は無いはずだ。人間のヘルレアへ対する認知機能というものは良くわからない。少年のようであり少女のようである王。絶妙な均衡に立つ王は、また、その特有の美しさで、人間の認知を更に乱して、性差を撹乱するようだ。
ジェイドはヘルレアの存在感を肌で感じ取り眠れなかった。これは本能から来る恐れだと自覚できた。闇の中で肉食獣に怯える小動物のような感覚。訓練を受けたジェイドでさえ、自分自身を誤魔化す事が出来そうになく、眠ることなど到底無理だった。少女のよう、美しい、そんな認識が確かにあるのに、そこには矛盾した化生の臭いが漂う。
まんじりともせずにいると、音もなくヘルレアが動いた事が空気の流れで分かった。ジェイドは一瞬身体が強張ったが、慌てて眼を開けると、ヘルレアが部屋の扉から出るところだった。
「どうした?」
ヘルレアは口に指を当てて、静かに、と身振りで示した。
王は無音でありながら、滑らかな速度でもって動き、廊下の窓を開けると外へ出た。屋根の上に立つ王はジェイドを手招きしている。王に倣って静かに動くと、窓枠を超えて二人で屋根に立った。
王は先に屋根の端に立ち、少し遠くを指差している。薄暈けた月明かりの中、黒い塊がそろそろと建物の間を歩いている。こんもりと丸く厚みがあるので、人間ないのは直ぐに判る。
――使徒だ。
「村に紛れ込んでいたか、私に引き寄せられて来たか。どちらにしろ、始末しておくべきだろう?」
「村人に犠牲は出さない。見過ごしたら、ステルスハウンドの意義を失う」
ヘルレアは笑って、屋根から飛び降りた。使徒は王に気付き、立ち止まってしまう。ジェイドもヘルレアに続いて屋根から飛び降りた。
ヘルレアは使徒に迷いなく突進して、使徒の背後に回り込むと片腕を掴んだ。足を使徒の身体に掛けてから、関節とは逆方向に捻じ曲げる。すると、雑巾のように赤い血が絞られて血飛沫を上げた。ヘルレアは顔を鮮血に染めたまま、気にもせず捻じ切り、そのままもう片腕も同じ様に、軽々と絞り上げて毟り取ってしまった。
すると突然使徒の姿が歪む。波打ち暈けて、輪郭が捉えられないほど揺らぐ。滲むように黒い影へと沈んで行くと、細く小さく収束した。確固とした輪郭を取り戻すと、人の姿に変性した。両腕のない青年が血を流しながら、何事もないように、よたよたと歩いている。
王は青年の顔面を鷲掴みにした。ジェイドには王が僅かに手へ力を込めたのが分かった。ヘルレアは片手だけで頭を体から引き抜くと、大量の血液が噴き上がる。王が掴む頭には剥き出しの頸椎と、引き千切られた組織が、幾筋も色鮮やかに垂れ下がっている。
ヘルレアが血に濡れた顔で穏やかに微笑む。その顔はまるで聖人画の聖処女のようで、血に塗れたその姿は、神聖な乙女が淫らに穢され、冒涜されたような情景を作り出していた。
そして、手で頭を無造作に掴む全体像を捉えると、まさに宗教的持物を携える、堕天を主題とする絵画そのものだった。
ヘルレアが青年の頭を振り上げて、ジェイドへ生首を投げて来た。彼が反射的に受け取ると、ずっしりとした重みをその手に感じた。頭からは止めどなく流血が続き、生温いぬめぬめとした血が掌をどす黒く染めた。
「猟犬共、これがお前達の罪と罰だ。受け取るがいい」
使徒は人間なのだ――。
使徒は人間を素体として生まれて来る。人間であるジェイドが、かつて同種だった人間を殺めるということの重み。覚悟をして今まで戦ってきた。既に慣れきったものだと思っていた。
しかし、王に言われ戦慄した。
ジェイドは何も見えていなかったような心持ちにさせられた。人の死へ真に向き合うのではなく、目を逸らしていただけなのではないかと、思えてならなくなった。この手に抱える潰えた命が科す、真実なる重み。
――これが王なのだ。
顔を赤黒く染め、薄い月明かりの下佇んでいる。その顔には今さっき、元人間を殺めた興奮など微塵もない。
そして、殺気も。
王というものは、ただただ静かに、日常の一場面として、殺戮すら行使出来うる存在なのだろう。
心すら伴わず、その手一つで世界を動かす者。
ジェイドは絶句する。
その血に染まる王があまりにも、清らかに見えた。
――これは、違う。
宗教画などという、人間の希うような、想像上としての都合の良い聖性ではない。
もっと純粋で残酷な、されど、あまりにも尊い、死――。
そして、
「……運命」
仄かに灯る瞳は穏やかで、全てを見透かし包容するようなゆとりを、見る者へ感じさせる。ヘルレアは外套の袖で顔に飛び散った血を拭うと、ジェイドを睥睨して通り過ぎ、屋根に軽々と飛び乗ると、窓の奥へ消えて行った。




