入道雲と心模様
大学キャンパス内に設置されているサイネージの気温表示は37.4°Cだった。蝉に祝福されながら、冷気を求めエントランスまで走った。私はある女性を確認してから二階までまた走った。そしてエレベータのボタンを押した。
額から沸き出す汗をハンカチで拭き、スマホの画面を鏡代わりにして前髪を整える。左鎖骨あたりに鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。鞄から香水を取り出して、手首、うなじ、そして胸の辺りに振りかける。香水を鞄に入れると同時にハンディファンを取り出し、電源を入れた。前髪が崩れないように角度を調整する。エレベータがやっと到着した。
中には、いつも通り、端麗な女性が立っていた。肩のあたりで切り揃えられた艶やかな髪、透き通るような白い肌によく似合う深紅のルージュが特徴的な人だった。私たちは、毎週水曜日の午後3時ごろ、必ずこのエレベータを利用していた。
〈私は恋をしていた〉
今日こそは、と毎週思い、毎週逃していた。勇気を振り絞り、声をかけようとしたとき、
「毎週会いますよね」
と声をかけられた。
「え、あ、えっと…そ、そうですね」
私はこんな自分を知らなかった。頬に熱が帯びたのが分かった。
「ごめんなさい、急に。この時間にいつも見かけるので、つい。えっと…何年生の方ですか?」
「に、2年です…!」
声音が高くなり、またも赤面する。
「じゃあ一個下だ! 私、これから高木教授の講義なんだけど、えっと」
と、私の顔を伺う。綺麗な目が私を見ていた。切れ長で大きな瞳を持つその目はまるで海底を覗いてるような感覚だった。
「狛枝凛音です。私もこれからその講義です…」
「そっか。えっと、私は加崎花。よろしくね」
ニコッと歯を見せて、上品に笑った。私の胸は高鳴り続けていた。脳をフルスピードで回し、次の話題は何にしようと考えていた。彼女はそれも見透かしてるように尋ねた。
「ねぇ、凛音ちゃん。私と授業一緒に受けない?」
エレベータの扉が開き、彼女は私の目を見て合図した。彼女が『開』のボタンを押していたのは分かっていた。会釈して外に出ると、彼女ははしゃぐように外に出た。
「実は花さんが高木教授の講義受けてること知ってました。ずっと綺麗な人だなって思ってて、目で追ってたら私と同じ講義室に入っていったので…。こんなこと言うと毎週エレベータに乗ってたのがストーカーみたいな感じになっちゃうかもなんですけど、それは違くて…」
彼女は早口で捲し立てる私を見て、驚きながらもクスッと笑った。
「大丈夫だよ。そんなこと思ってない。可愛いね凛音ちゃんは」
私はどうにかなりそうだった。可愛い、と言う言葉だけを心の中で何回も反芻した。
講義室に入り、私たちは隣同士に座った。夢みたいだった。窓の外は入道雲が青空いっぱいに広がっていた。
「降りそうだね、今日も」
彼女が私に笑いかけた。その刹那、空に一本の稲妻が走った、と思うとすぐに大きな音が鳴り響いた。雷鳴だった。彼女は目を丸くしていた。
「花さん、大丈夫ですか?」
「うん、ちょっとびっくりしただけ、心配ありがとう」
雷に驚く姿も愛おしかった。途端に雨が降ってきた。俄雨だろうか。
「凛音ちゃん、連絡先交換しよ?」
雨がどんどん強くなってきた。
「これでもう友達だね」
空はあっという間に暗くなった。誰かが講義室の照明をつけた。私はこのとき、どんな顔をしていただろう。彼女はまだ微笑んでいた。
〈友達〉
その言葉が重かった。
暗雲が空に、心に、雨を降らせた。