【短編版】公爵に利用されていた孫娘に転生したので、ハッピーエンドのために戦います ~「君を愛するつもりはない」と私を捨てた貧乏公爵を後悔させ、王子から溺愛されます~
(私の人生もここまでですね……)
商人として王国を発展させてきたシンシアは、齢八十を超え、その長い人生を老衰で終えようとしていた。
壁一面が白で塗られ、薬品の匂いが漂う病室には、大勢の人が集まっている。王国を治める国王や大臣、帝国からは皇帝までもが足を運んでいた。
(商人としての務めを果たし、王国を発展させることができました。良き人生でした)
臨終を見送りに来た見舞客の顔ぶれに視線を巡らせ、家族の姿を探す。息子のルドルフは、凛々しい顔に涙を浮かべている。大人になって泣く彼を見るのは初めてだった。
(ルドルフはしっかりしているから、きっとすぐに立ち直るはずです……)
息子はシンシアの後を継いで、これからも商会を盛り立てていくだろう。
(唯一の心残りは……)
ここにはいない孫娘のクラリスの存在だ。優しい娘だが、最近、ふさぎ込むようになり、自室に引きこもるようになったという。力になりたかったが、身体が動かせないシンシアにできることは何もない。
(クラリスを任せましたよ)
ルドルフに目で訴えかけると、その視線に気づいたのか、彼は何度も首を縦に振る。安堵がシンシアの視界を白く染めていき、人生の終わりを迎えるのだった。
●
「俺は君を愛するつもりはない」
シンシアが目を覚ますと、そこは修羅場だった。眉尻を吊り上げた端正な顔立ちの男が、苛立たしげな声をあげている。
(この顔、どこかで……)
記憶を探り、浮かんできたのは、クルメンツ公爵家の一人息子、レオパルドの顔だった。
ただし彼女の記憶の中にある彼は、もっと幼い少年だった。目の前の彼は背が高くなり、美しい黒髪黒目の顔付きは妖艶さを纏っている。青年に成長した彼の顔と記憶に乖離があったのだ。
「俺の話を聞いているのか、クラリス」
「クラリス?」
「まさか自分の名前を忘れたのか?」
鼻を鳴らして笑うレオパルドだが、シンシアにとってはそれどころではなかった。
(まさか……)
いつもより低い目線に違和感を覚えていた。周囲に視線を巡らせ、ここがクラリスの私室だと気づく。令嬢の部屋ならば、鏡の一つくらいはどこかにあるはずだ。
(見つけました!)
机の上に置かれていた手鏡を手に取る。そこに映し出されたのは、孫娘のクラリスの成長した姿だった。
「うぐっ……」
顔を確認した瞬間、頭痛が奔ると同時に、走馬燈のようにクラリスの記憶が頭に流れ込んでくる。
シンシアが亡くなったことや、引きこもりを脱して学園に通い始めたこと、そして修羅場の理由までもが脳裏に刻まれた。
痛みは伴ったが、現状を完全に把握する。ここはシンシアが亡くなってから五年後の世界で、彼女は孫娘のクラリスとして転生したのである。
(海千山千を乗り越えてきた私でなければパニックになっているところですね)
商会を率いてきたシンシアは、非合理な現実を受け入れるのも早い。すぅと息を吐き、目の前の男と向き合う。
「体調でも悪いのか?」
「いえ、もう頭痛は収まりました。話を戻しましょう。私を愛することはないとのことですが、私は一向に構いませんよ」
「本当か⁉」
「ええ、私もあなたを愛することはありませんから。お互い様です」
クラリスの記憶が頭の中に流れ込んできたことで、レオパルドとの関係性も知ることができた。二人は婚約者だったのだ。
愛し合っていない二人が婚約を結んだのには訳がある。シンシアが亡くなった後、彼女の経営していた商会は勢いをなくした。
今もまだ王国一の大商会であることに変わりはないが、上流貴族とのパイプが弱くなり、売上が低下してしまったのだ。
(ルドルフは経営センスこそ一流ですが、貴族との付き合いだけは不器用でしたからね)
そこでルドルフは貧乏貴族として有名なクルメンツ公爵家に目を付けたのだ。両家が縁談を結べば、公爵家の親戚となる。貴族の社交場でも一目置かれる存在となるのだ。
一方、クルメンツ公爵家にとっても利益がある。クラリスを嫁として迎えれば、商会から資金援助を受けることができる。貧乏な生活から抜け出せるのだ。
(孫娘のためにも、上手く立ち回る必要がありそうですね)
シンシアは転生を果たしたものの、いつ成仏して現世を去るか分からない。彼女が留まっていられる内に、クラリスにとって暮らしやすい世界を作っておきたかった。
「クラリスが聞き分けのある人物で助かったよ。これで俺は本当に愛する人と幸せになれるな」
「ん? どういうことですか?」
「だからお互いを愛することはないと了承したばかりだろ」
「はい。ですが、それとこれとは話は別。浮気は駄目ですよ」
「はぁ⁉」
予想外の答えだったのか、レオパルドは声を張り上げる。
「浮気をされては、私が夫を外で遊ばせていると悪評が流れますから。互いに愛することはありませんが、他に愛人を作ることも許しませんよ」
「俺を束縛するつもりか⁉」
「はい。夫婦になるのですから、当然でしょう」
さも当たり前だと言わんばかりのシンシアの言葉に、レオパルドは納得できないのか、下唇を噛み締めて不満顔だ。
「納得できないのなら婚約を破棄すればよろしいのでは?」
「いいのか?」
「貧しい貴族は他にもいますから。私は別の殿方と結ばれることにします。もちろん、その際は我が商会の支援金を回収させていただきます」
「我が家は困窮している。こんなもの、家族を人質に取られているに等しいではないか⁉」
「なら家督を弟に譲ればよろしいのでは? あなたが領主でなくなれば、私と結婚しなくてもよくなりますよ」
ただし、そうなっては公爵家の跡取りとしての暮らしはできなくなる。家督のない次男たちと同じく、街で働いたり、軍に所属したりすることで、身を立てなければならない。
「私の見立てでは、あなたは典型的な馬鹿息子ですから。家督を捨てれば、落ちるところまで落ちぶれるでしょうね」
「失敬な! 俺には次期領主として相応しい才覚がある!」
「もしそんなものがあるのなら、我が家の資金援助を求めて婚約しないのでは?」
「う、うるさい! 黙れ、黙れ!」
「…………」
「本当に黙るな!」
「注文の多い人ですね……とにかく、あなたが選べる選択は二つに一つ。路頭に迷う覚悟で婚約を破棄するか、私との良好な夫婦関係維持のために努力するかです。お好きな方を選んで構いませんよ。私は優しいですから、どちらでも受け入れます」
「……どこが優しいんだ」
「何か言いましたか?」
「別に何も……」
子供を諭すような会話をシンシアは楽しんでいた。夫になればコントロールするのも容易いだろう。婚約者として悪くない相手だ。
「ふふ、まぁ、色々と脅しましたが、あなたは浮気なんてしないと信じていますから。これからも末永くよろしくお願いしますね」
「あ、ああ」
レオパルドは引き攣った笑みを浮かべる。その表情の裏には複雑な感情が隠されていたのだった。
●
話し合いを終えたレオパルドが退室し、代わるようにシンシアの息子であり、クラリスの父でもあるルドルフが顔を出す。心配するような表情から彼の心情を察せられた。
「レオパルド公爵はどうだった?」
「周囲から甘やかされて育ったのでしょうね。プライドが高く、人格に難がありますね」
「そ、そうか……もしクラリスが結婚を望まないなら、私は……」
「いえ、この婚約はこのまま進めましょう」
「無理をしなくていいんだぞ?」
「本心から彼を望んでいますよ。なにせ自尊心の高い人物は操るのも容易ですから。商会の利益に繋げるのなら、彼より相応しい人物はそういません」
婚約破棄するにしても、レオパルドが有責でなければ旨味がない。現状ではシンシアから婚約破棄を突きつけるつもりはなかった。
「無口な娘だと思っていたが……亡くなったクラリスのお婆さんに似てきたな」
「それは褒めていますか?」
「もちろんだ。あの人は私よりも優秀だったからな」
シンシアの口元に苦笑いが浮かぶ。正体は本人そのものなのだが、ルドルフに明かすことはない。
望んでのことではないが、娘の身体を奪われたと知れば、きっとショックを受ける。いまはまだ秘密を貫きとおすつもりだった。
(それにいずれは私も成仏するでしょうから……)
この転生現象がどれくらいの期間続くのかは読めないが、いつか終わりが来るはずだ。だからこそ、現世に止まり続けている間に、少しでも孫娘やルドルフの役に立ちたいと願っていた。
「まぁ、理由はどうあれ、クラリスが気に入ったのなら何よりだ。これで商会のビジネスも上手くいくはずだ」
ルドルフの表情には疲れが浮かんでいる。才能だけなら一流の彼だが、経営者としてはまだまだ経験が足りない。シンシアを失い、彼が商会を継いでから五年の月日が流れたが、不慣れな経営の中で問題が山積みになっていたのだ。
「お父様がお疲れのようなら、私が仕事を代わりましょうか?」
「ははは、娘にも心配されるほど表情に現れていたか……だが気持ちだけで十分だ。なにせ商会所有の工場で起きたストライキが悩みの種だからな。クラリスにできることはなにもない」
「そうですか……」
シンシアが経営していた頃もよくストライキに頭を悩まされた。工場がストップすれば、その分、売上が下がる。だが労働者の要求をすべて受け入れては、経営が立ち行かなくなる。簡単には解決しない問題だ。
「失礼します、クラリス様の御友人がいらっしゃいました」
使用人の女性が扉越しに伝えてくれる。その友人には心当たりがあった。平民の娘で、名前はサラ。クラリスの唯一の友だった。
「あの娘か……労働組合の長の娘だし、何より平民の多様な価値観を知るのは悪いことではない。仲良くしてあげなさい」
「いいえ、できませんね。なにせサラは私をいじめていますから」
「なんだとっ!」
クラリスが塞ぎ込む一因となったのも、サラの存在が大きい。唯一の友人だからと関係性を断ち切れなかったが、シンシアにとって害のある友人は友ではない。容赦なく切り捨てることを決断する。
「その話は本当なのか……」
「私が嘘を吐くと?」
「いや、しかし……温厚そうな娘だったぞ」
「猫を被るのが得意なだけです。今後、経営者として生きていくなら人を見る目を養ってくださいね」
「あ、ああ」
娘の有無を言わさぬ言葉に頷くしかない。一方、クラリスは部屋の隅に水晶型の魔道具を設置し始める。
魔導具とは魔力で稼働する不思議なアイテムのことで、火を出したり、部屋を明るくしたり、機能ごとの効力を発揮することができる。設置された水晶型の魔道具は、映像を録画と配信する機能を備えていた。
「その魔導具で何をするつもりだ」
「いじめの動かぬ証拠を用意するんです。お父様は別室で待機していてください。面白い光景をお見せしますから」
シンシアの口元に張り付いた笑みは、温厚な少女のものではなく、老獪な商人としての顔になっているのだった。
●
使用人に案内されて、友人のサラがクラリスの私室に入室してくる。扉を使用人が閉じるまでは温厚な笑みを浮かべていた彼女だが、閉じられた瞬間、怒りで眉根を寄せる。
「随分と私を待たせたわね。まずは謝罪しなさい」
「謝罪ですか?」
「そうよ! いつものように土下座するの! あ、そうそう、絶対服従の宣言も忘れちゃ駄目だからね」
サラは平民の身分に劣等感を抱いていた。だからこそ貴族のクラリスに服従を宣言させ、自分が上の立場であると実感することに喜びを覚えていた。
「さぁ、早く土下座しなさい。友達がいないあんたの友人になってあげたんだから、私の奴隷になるのも当然の要求よね」
「………」
「あ、それと、お菓子とジュースも用意させなさい。毎月の友達料も忘れちゃ駄目よ」
シンシアは呆れて何も言えなかった。黙り込んでいると、サラの不機嫌な顔がますます酷くなっていく。
「言いたいことがあるなら何か言いなさいよ!」
「では遠慮なく。こんな非常識な子供に育てた親の顔を拝見してみたいですね。きっと良き反面教師になるはずですから」
「あ、あなた……ぐっ――このっ――ッ」
格下だと馬鹿にしていたクラリスの挑発に我慢できなかったのか、サラはビンタを放つ。パシンという張り手の音と共に、彼女の頬に真っ赤な跡が残された。
「クラリスの分際で私を馬鹿にして! ムカツク! ムカツク!」
サラがシンシアのお腹を何度も殴る。傷痕が多ければ多いほど、決定的な証拠となる。グッと我慢して、彼女が耐えていると、扉がノックされた。
「物音が聞こえたが何かあったのか?」
「い、いえ、クラリスと遊んでいただけです」
焦って、取り繕うとするが、シンシアの頬に刻まれた赤くなった跡だけは隠せない。
「ねぇ、あんた、転んだって嘘吐きなさい。間抜けなあんたなら、十分にありえる話だから、きっと信じてもらえるわ」
「ふふ、お断りします。それと、これはお返しです」
殴られて、そのまま許してやるほど、シンシアは甘くない。ワザと大きな音が鳴るように、パチンとビンタをサラの頬に炸裂させる。
その音がキッカケになり、ルドルフは扉を開ける。頬が赤く染まった二人の子供を見て、状況を察する。
「ここまですべて予定通りか……とはいえ、私の人の見る目のなさは反省すべきだな」
「ど、どういうことですか?」
「君がとんでもない子供だったということだよ、サラ」
見透かされていると悟ったサラは、状況証拠から有利な立場を作り出すために保身に走る。
「違うんです、先に手を出したのははクラリスなんです。それでカッとなって、叩き返してしまって……貴族のご令嬢を叩いたのは反省すべきですが、私だけが悪いわけではないです」
「ということだが、クラリスの言い分はあるか?」
「私からは何もありませんよ」
てっきり告発すると身構えていたサラは拍子抜けしてしまう。最後の最後で腰が引けたのだ。
勝ったと、笑みを浮かべるサラだが、そんな彼女に引導を渡すべく、シンシアは立ち上がって、部屋の端に置かれていた水晶型の魔道具を突きつける。
「じゃーん、私が弁明を口にしなくとも、この部屋の様子はすべて配信、録画されていたんです」
「――――ッ」
「ふふ、ではサラ。これからは大人を交えて、お話ししましょうか?」
いつもの大人しい令嬢とは違う。獲物を追い詰める獅子のような笑みに、サラは震え上がるのだった。
●
サラのいじめが証拠と共に露呈したことで、父親のグランが屋敷に呼び出された。髭面の大きな体つきの男は工場で働く職員のリーダーであり、労働組合の長も務めていた。
「ルドルフさん、娘がいじめをしていたと聞きましたが、本当なのですか?」
四人掛けのテーブルに、サラ親子とルドルフ、そしてシンシアが腰掛けている。娘の無実を信じているのか、いじめの話には懐疑的だ。
「まずは証拠の映像を見て欲しい」
水晶に保存されていた記録が壁に映し出される。そのあまりに横暴な映像に、グランの顔色が見る見る青ざめていく。
「す、すみませんでした!」
視聴を終えたグランが頭を下げる。謝罪に真っ先に反応したのはシンシアだった。
「私はとても傷ついてしまいました。あなたの娘のせいで人間不信に陥ったのですから、この罪は重いです」
「もちろん慰謝料を用意するつもりです」
「貴族相手に暴力を振るったのですよ。お金で解決できる問題ではありません。裁判に発展すれば、最悪の場合、懲役刑もありえます」
「――ッ……」
嘘ではない。過去の判例でも悪質ないじめで、被害者が重度の怪我を負った際、加害者に無期の懲役判決が下っている。
(今回のケースではビンタと侮辱ですから、罰金刑が精々だと思います。ですが、わざわざ教えてあげる義理もありませんからね)
交渉を有利に進めるためには主導権を握らなければならない。サラ親子は暗澹とした未来を想像し、俯いていた。
「あの、謝るから、許して欲しいの。クラリスが望むことなら何だってするから」
「あなたにできることなんて何もありません……ですが、父親のグラン様なら話は別かもしれませんが……」
「私ですか……なるほど……ストライキを止めさせれば、娘の罪の追求を止めて頂けると?」
「さて、何のことでしょう?」
もし肯定すれば、脅したと解釈される危険がある。あくまでグランが自発的に行動するように仕向ける必要がある。
「分かりました。ストライキを止めるべきだと判断したのは、すべて私の独断です。数日頂ければ、仲間たちを納得してみせます」
娘と会社の同僚、どちらを優先するか、グランの中で答えは出ていた。すぐにでも行動するべく、彼は席を立つ。そして帰り際、ルドルフに笑みを向ける。
「これほどに素晴らしい後継者がいるのなら、商会は将来も安泰ですね」
「ああ。私もそう思うよ」
クラリスに頼もしさを覚えながら、グランは去っていく。ルドルフの顔も悩みが消え、晴れやかなものへと変化していたのだった。
●
『レオパルド公爵視点』
クラリスとの顔合わせを終えたレオパルドは額に汗を浮かべながら自宅へと帰る。屋敷の扉を開けると、豪華な玄関が出迎えてくれるが、見渡す限りのすべての調度品が商会からの支援金で購入したものだ。
他人の力を借りないと生きていけない現状に歯痒い想いを感じながら、私室へと戻る。そこには栗色の髪の美女が彼の帰りを待っていた。
「レオパルド、遅いですわよ」
「待たせたな、シャリアンテ」
シャリアンテと呼ばれた少女は、レオパルドの浮気相手だった。胸元をはだけさせ、妖艶な雰囲気を放つ彼女は、男なら誰もが鼻を伸ばすほどに美しい。そんな彼女の隣に腰掛け、小さく溜息を吐く。
「疲れていますのね」
「色々あってな」
「それで、婚約者のクラリスはどうでしたの?」
「想定外の人間性だった……」
「いつも教室の端で読書している根暗ですもの。貴族社会ではあまりいないタイプですものね」
「確かに珍しい性格ではある。だがそれは温厚だからとか、根暗だとか、そんなちゃちなものではない。隙を見せれば、こちらが食われかねない。油断できない相手だ」
「ふ~ん」
シャリアンテはその内容に懐疑的だ。クラスメイトである彼女は、クラリスの存在も知っていたが、子犬のように弱々しい存在だと認識していたからだ。
「もしかして私との計画に及び腰になりましたの?」
「本音を言うと、少しだけ恐れている……」
計画とはクラリスと結婚し、資金援助を受けつつ、その裏ではシャリアンテと睦まじい毎日を過ごすというものだ。
要するに彼らは、クラリスを金蔓として利用するつもりだったのだ。
「え~、私、納得できませんわ」
「仕方ないだろう。もし浮気が露呈すれば、あの女は俺の次期領主の座を潰しに来る。領主になれない貴族は酷いモノだ。他の貴族の使用人になったり、軍で働いたりすることになる。だが俺に肉体労働が務まると思うか?」
「思いませんわね」
「俺のようなエリートは頭を使って生きていくべきなのだ。だからこそ領主の座は譲れない。特に浮気で勘当されたとなれば、最悪、貴族や軍に仕えることさえできず、平民と同じ職場で働く嵌めになる。惨めな毎日に俺はきっと耐えられない」
浮気癖のある男を雇い入れれば、トラブルの元になる。抜きんでた才覚があるなら話は別だが、レオパルドは容姿以外に秀でた能力もないため、それも難しい。
「俺が平民のようになってもいいのか?」
「絶対に嫌ですわ」
「俺も嫌だ。だからこそ領主の地位を死守しなければならないのだ」
レオパルドは立場を守るために及び腰になっている。そんな彼の態度がシャリアンテを突き動かした。
「なら私に任せておいてくださいまし。手を打つことにしますわ」
「何をする気だ」
「ふふ、秘密ですわ」
シャリアンテは鼻歌混じりに部屋を後にする。そのご機嫌な背中に声をかけるが、動き出した彼女が止まることはなかった。
●
(つまらない夜ですね)
シャンデリアが吊るされた大理石の広間で、シンシアは壁に背を預けていた。この場は上流貴族の交流の場。夜会会場である。
夜会に年頃の女性が参加する目的は、主に異性探しだ。既にレオパルドという婚約者のいるシンシアにとっては退屈なだけだが、ルドルフの付き添いで参加しないわけにはいかなかったのだ。
(お父様が帰るまで途中退場できないのが悩ましいですね)
シンシアにとって益のないイベントだが、同伴するルドルフからすれば別だ。同じように同伴している上流貴族の親族と交流を深めるチャンスであるからだ。
(早速、クルメンツ公爵家との繋がりを有効活用していますね)
王国の爵位は公爵、侯爵、伯爵までを上流と呼び、子爵、男爵を下流貴族と称する。
シンシアの生まれたダーナル子爵家は下流貴族であるため、本来なら、この夜会に参加する資格を持たない。
だがクルメンツ公爵家との縁者となったことで、参加資格を得るに至った。上流貴族だけでなく、王族まで参加する夜会は、ルドルフにとって待ち望んだチャンスだったのだ。
「そこのあなた、もしかしてクラリスさんじゃない?」
三人組の令嬢たちが声をかけてくる。派手な化粧とドレスのせいで、一目で分からなかったが、彼女たちは同じクラスの級友たちだった。
ただ級友といっても会話をしたことは一度もない。中央に立つ女性が、リゼという名であることだけは思い出せるが、残り二人は名前さえ知らない。揃えたように金髪をウェーブさせているので、三人は親類関係なのかもしれない。
「私に何か用ですか?」
「子爵家のあなたがどうして夜会にいるのよ」
「私がレオパルド様と婚約を結びましたから。公爵家の縁者として私も誘われたのです」
「ふ~ん、公爵といっても金で買った地位でしょう」
喧嘩腰な態度に、シンシアはムッとする。生意気な子供には躾が必要だ。鋭い視線を向けると、リゼは鼻を鳴らす。
「生意気な目付きね」
「生まれつき、このような顔ですので」
「ふん、ならあなたのようなブスはレオパルド様に相応しくないわ。婚約を破棄しなさい」
「嫌ですけど」
「なんでよ⁉」
断られると思っていなかったのか、リゼが強い反応を示す。叫びたいのはこちらだ。
「あのね、レオパルド様にはシャリアンテ様こそが相応しいの。美男は美女と結ばれるべきなの!」
「それは変ですね」
「なにがよ⁉」
「顔が美しい者同士で結ばれる定めなら、リゼ様はどうなのでしょう? あなたの顔は並。劣っても優れてもいません。ですがあなたの婚約者は美男で有名なハスワルド様ですよね。美男が美女と結ばれるべきなら、あなたは身を引くべきでは?」
「なっ……なっ――なんて失礼な! 私がブスだって言うの⁉」
「もしかしてコミュニケーションが苦手なのでしょうか? 私は並だと評したのですよ。それとも自分の顔を醜いと自覚されているが故に誤解したのでしょうか?」
「ぐっ……この――ッ」
リゼは怒りに任せて、ビンタを放つ。だが既にサラでビンタは経験済みだ。ワザと受け入れ、大袈裟に地面に倒れ込む。
(上流貴族が集まる夜会で暴力はタブーです。ここは被害者に徹するのが得策ですね)
夜会には大勢の人がいる。育ちの良い貴族の中には心優しい者も多いため、殴られて倒れた女性を無視できない。
シンシアの目論見は当たり、一人の青年が釣れる。
黄金を溶かしたような金髪と、澄んだ青い瞳、身長は見上げるほどに高いのに柔和な顔立ちの青年だ。見惚れるほどの美しさに、一瞬時が止まったかのように感じる。
「頬を殴られたようだけど無事かな?」
「はい……」
差し伸べられた手を取り、立ち上がる。近くで見れば見るほど、欠点のない完璧な顔立ちだった。
「アレン殿下、これは違うんです。その根暗女がレオパルド様をお金で買って生意気だから!」
アレンと呼ばれた青年は王族だった。王子の評価は貴族社会の評価に直結するため、リゼは震えながらも必死に弁明する。
(それにしても王族ですか……)
生前、シンシアは国王と仲が良かったため、息子がいることも知っていた。ただ病弱で、床に伏せていると聞かされていたため、会ったのはこれが初めてだった。
「なるほど、ということは、殴られた君がクラリスか」
「私の事を知っているのですか?」
「ダーナル子爵家の商会は王国の流通の柱だからね。そこの一人娘を王族の僕が知らないはずないさ」
爵位は子爵だが、経済力なら王国一だ。その重要性を若いながらも理解していたことに好感を抱く。
「さて話を戻そうか。ダーミナル子爵家とクルメンツ公爵家の縁談なら僕も知っている。でもこれは両家の問題だ。君たちに何か関係があるのかな?」
「そ、それは……」
「あるはずないよね。つまり君たちは罪のないクラリスに暴力を振るった加害者ということになる」
罪を犯せば、罰が下る。慰謝料か、それとも懲役刑か。どちらにしても前科持ちになれば、二度と夜会に参加できず、令嬢としての価値も暴落する。まともな縁談は望めなくなるだろう。
(貴族の令嬢は良縁を成立させて、家同士の関係性を強くすることが仕事のようなもの。事実上、その役目を果たせなくなるのは死刑宣告に等しいですからね)
これからリゼたちの運命は悲惨なものになる。運が良くて実家で謹慎、悪ければ家を追放される。貴族として生きてきた彼女らが平民と同じ立場となるのだ。
「ねぇ、あの娘たち……」
「王子の不評を買ったのかしら」
「馬鹿な人たちね」
クスクスと夜会に笑い声が満ちていく。彼女らは嘲笑の的になっていた。
「……ぐすっ……っ……」
破滅の未来が見えたのか、リゼたちはポロポロと涙を零し始める。ドレスをギュッと握りしめる彼女らにできることは、絶望に肩を揺らすことだけだった。
「アレン殿下、お願いがあります」
「何かな?」
「リゼ様たちの罪を許してあげられないでしょうか」
その一言にリゼたちは顔をあげる。まるで地獄で仏に会ったかのように、縋るような目をしていた。
「いいのかい? 彼女は君を殴ったんだよ」
「私が子爵家の一員でありながら公爵家と結ばれるのは事実。気に食わないのも理解できますから」
「しかし……いや、被害者の君がそう言うなら僕はなにも言えないね。優しいクラリスに感謝するといい」
リゼたちはドレスの袖で涙を拭うと、クラリスの手をギュッと掴む。
「ごめんなさい、私は愚かだったわ……」
「人は誰もが間違えるものです」
「ふふ、優しいのね。あなたのことを勘違いしていたわ。この恩は絶対に返すから」
(もちろんですとも。返してもらわないと困りますから)
手を震わせるリゼの言葉は本心だ。砂漠で水を与えられたら、一生をかけて感謝するように、破滅から救われた彼女はきっと今後もクラリスの味方であり続ける。
(私が成仏した後に周囲が敵ばかりでは孫娘に苦労させますからね。生涯の友を百人は作ってあげましょう)
感謝しながらリゼたちは、夜会の喧噪の中に消えていく。二人だけが残されたところで、アレンが笑う。
「面白い人だね、君は。僕の初恋の人にそっくりだ」
「それは光栄ですね。ただ私に似ていると思われることに、その人が不快感を覚えるかもしれませんよ」
「それなら心配いらないさ。なにせ、もうこの世にいないからね。惜しい命を失くしたよ」
「……事故にでもあったのですか?」
「いいや、老衰さ。大往生だったそうだよ」
(年上趣味にも限度があるでしょう!)
王族相手に不敬になるため口には出さないが、表情には表れていたらしい。アレンは笑みを浮かべて、話を続ける。
「その初恋の人はね、君の祖母のシンシアさんだ」
「そ、祖母のことが……」
暗に告白されたようなものだ。驚きで硬直してしまうが、すぐに冷静さを取り戻す。
「祖母と面識があったのですか?」
「ないよ。僕の片思いだからね。でもシンシアさんがいたから、今の僕があるんだ。その恩は孫娘の君に返したい。何か困ったことがあれば、いつでも力になるから相談して欲しい」
「それは心強いですね」
孫娘の味方になってくれる存在に心から感謝しながら、彼との歓談を楽しむ。存外、夜会を楽しむことができたのだった。
●
王国の貴族は学園に通うことが義務付けられている。ここで教養を学び、交流を深めることで、王国に貢献できる人材へと成長するのだ。
(私の席は窓際でしたね)
教室にはクラスメイトがまばらだ。扉を開けた瞬間に注目が集まるも、すぐに関心を失う当たり、お目当ての生徒ではなかったのだと察する。
(クラリスは友人がいなかったようですからね)
正確にはサラが友人だったが、あんなものは友達とは言えない。授業が始まるまで手持ち無沙汰な時間を過ごすのも躊躇われたため、机の中から本を取りだす。
(貴重な読書タイムを満喫するとしましょう)
選んだ書籍は女の子が王宮から追放されて成り上がる女性向けの小説だった。生前は自己啓発のための書籍ばかりに目を通していたため、大衆文学を読むのは新鮮だった。
(最近の若い娘の間ではこういう話が受けているのですね)
本の世界に没頭していき、周囲の声が聞こえなくなる。シンシアの特技の一つで、集中により雑音を掻き消すことができるのだ。
「……さん……クラリスさん……」
肩を揺らされて、本の世界から連れ戻される。声の主は三人組の令嬢たちで、夜会で出会ったリゼたちである。
「昨晩は私たちを助けてくれてありがとう。そのお礼を改めて伝えたくて」
「たいしたことはしていませんよ……それよりも顔の傷……」
「シャリアンテ様の派閥を抜けたの。これはその制裁ね」
「大丈夫なのですか?」
「数日もあれば治るわ。気にしないで」
令嬢たちの間で組まれた派閥は、代表となる生徒を中心にコミュニティを形成している。シャリアンテが率いる派閥に属しながら、クラリスと表立って仲良くはできないため、彼女らは脱退を決めたのだ。
「救われた恩は必ず返すから。困ったら、いつでも相談してね」
「ありがとうございます」
リゼたちは性根を入れ替えたかのように友好的だ。派閥を抜ける覚悟を持つほどに、クラリスの友人でありたいと願ってくれた彼女たちに感謝していると、人影が近づいてくる。
「あらあら、裏切り者たちが随分と仲良さげですね」
胸元をはだけさせ、妖艶な雰囲気を放つ令嬢だ。名前と顔が一致しないが、状況証拠から予想はついた。
「あなたがシャリアンテ様ですか」
「そういうあなたはクラリスね。レオパルドを金で買って恥ずかしくないの⁉」
「ええ、恥じる理由がありませんから……そもそも、あなたとレオパルド様はどういう関係なのですか?」
「それは……」
シャリアンテは言葉に詰まる。スクールカーストの頂点に君臨してきた彼女は、危機を察知する能力も高い。本当のことを話すのはマズイと、躊躇いを覚えたのだ。
「と、とにかく、もしレオパルドとの婚約を破棄しないなら、酷い目にあうわよ」
「ふふ、それは楽しみですね」
シャリアンテの激情をシンシアは笑って受け止める。いったいどんな手を打ってくるのかと、楽しみにするのだった。
●
講義が始まり、時間が過ぎていく。王国の歴史に関する講義は、シンシアにとって既知の情報も多いが、それでも知らない知識や五年の間に新発見された事実も多い。
学びなおしも悪くないと、真剣に耳を傾けていると、あっという間に時が過ぎ、休憩時間になっていた。
(廊下を歩いてリフレッシュでもしましょう)
シンシアは賑わう廊下を進みながら、他の教室を一瞥する。遠目からでも分かるほど整った顔つきの青年――アレンが友人と談笑している姿が視界に入った。
(王族も他の学生と一緒に学ぶのですね)
この学園の生徒は貴族が中心であり、将来、王国を支えていく者たちばかりだ。その貴族たちとの交流が、将来的に王国の統治にも役立つとの判断から通っているのだろう。
(それにしても広い学園ですね)
廊下の突き当りまで辿り着くと、足に疲れが溜まっていた。移動するだけで一苦労である。
(そろそろ戻りますか)
来た道を戻り、シンシアが教室に戻ると異変が起きていた。彼女の机の周辺に人が集まり、騒ぎ立てていたのだ。
「どうかしましたか?」
「クラリスさん、これ……」
シンシアの机には埋め尽くすほどの落書きがなされていた。『成金』や『金で婚約者を買った女』などの罵詈雑言が目立つ。捻りのない虐めだった。
「酷い事をする人もいますね」
「ごめんなさい、私たちが教室に残っていれば……」
「リゼ様たちは悪くありませんよ。席を外したのは私もですから」
犯人が誰かは分かっている。間違いなく、シャリアンテだ。彼女もそれを暗に理解させようとしていたのか、ニヤニヤと笑みを浮かべながら近づいてくる。
「随分と恨まれているのね~」
「私はあなたが犯人だと疑っています」
「無実の私を疑うなんて酷いわね。やっぱり成金は性格も悪いのかしら」
教室に嘲笑が広がっていく。だがシンシアは舐められたままの状況を許すタイプではない。反撃の狼煙を上げるように、口元に笑みを浮かべる。
「シャリアンテ様が無実だと信じましょう」
「ふん、分かればいいのよ」
「ですが罪には罰を与えなければなりません。この机は私個人の所有物ではなく、学園所有の公共物です。つまり故意に破損させれば、懲役刑もありうる重罪です」
「へ、へぇ~」
事態を重く捉えるシンシアの発言に、シャリアンテは戸惑いを示す。だがまだどこか余裕があった。
「でも目撃者もいないことだし、誰が犯人か分からないでしょう?」
「いえ、分かりますよ。筆跡鑑定をすればいいんです」
「はぁ⁉」
「私が憲兵を呼んできますので、証拠の保全をよろしくお願いします」
「ま、待ちなさい!」
廊下に飛び出そうとしたシンシアを呼び止める。その声は震えていた。
「そこまで大事にしなくてもいいじゃない」
「どうして、そんなに慌てるのですか? あなたが犯人ではないのでしょう?」
「そ、それはそうだけど……ひ、筆跡鑑定なんて無駄に終わる可能性が高いわ。もし利き手と反対の手で書かれていたら証明できないじゃない」
「ご安心を。いじめをするにしても、物的証拠を残すような馬鹿ですよ。筆跡鑑定に頭が回るようなら、最初からこんな真似しませんから」
「誰が馬鹿ですって!」
「なぜあなたが怒るのですか?」
「と、とにかく、許してあげて。きっと悪気はなかったはずだから」
「私、やられたらやり返さないと我慢できない性格なので……それに罪の意識があるなら、名乗り出て、私に謝罪するはずですよね」
「な、なら私が代理で謝るから!」
「犯人ではないのにですか?」
「そうよ!」
苦しい主張だ。誰もがシャリアンテが犯人だと気づいている状況で、彼女への追求を止めるほど、シンシアは甘くない。
「では土下座をお願いします」
「え?」
「嫌なら構いませんよ。犯人には牢屋での生活を満喫してもらうとしましょう」
「分かったわよ! 土下座すればいいんでしょ」
悔しさで身体を震わせながら、シャリアンテは膝を折って、頭を床に押し付ける。その惨めな光景に嘲笑が広がっていくのを自覚し、彼女の震えはさらに大きくなった。
「おい、なんの騒ぎだ⁉」
土下座するシャリアンテの傍に駆けつけたのはレオパルドだった。彼女を立たせると、鋭い視線をシンシアに向ける。
「説明しろ。なぜこんな酷い事をするんだ?」
「あなたは私の婚約者のはずですよ。なぜシャリアンテ様の味方を?」
「こ、これは……土下座している女の子がいたら、貴族たるもの義憤に駆られるだろ」
「正義は私にありますよ。その証拠に私の机をご覧ください」
「……っ――なるほど。事情は呑み込めた」
シンシアの恐ろしさを知るが故に、あの土下座がいじめの報復だと悟ったのだ。分が悪いと理解し、シャリアンテと共に教室を後にしようとする彼だが、そこにアレンが現れる。
「殿下……どうしてここに?」
「レオパルド、君の婚約者と昨晩友人になってね。その友人が騒ぎの中心になっていると聞いて、駆けつけたのさ。といっても、僕の力がなくとも、すでに円満解決したようだね」
「円満なのでしょうか……」
「謝罪で済んだのなら十分円満さ。僕から君たちに忠告できることはただ一つ。喧嘩を売るなら相手を見てからにしたほうが良い。でないと、火傷するからね」
棘のある忠告に、レオパルドはグッと歯を噛み締めながら、この場を去る。見せしめに近い結果を残したことで、もう虐めが起きることはないだろう。
(私が原因でクラリスがいじめられては堪りませんからね)
シンシアが土下座までさせたのは、抑止力を生み出すためだ。目的を果たしたことで、安堵の息を吐く。
「改めて伝えるよ。君は素晴らしいね」
アレンが拍手を送る。その瞳は憧れで満ちていた。
「私なんてつまらない人間ですよ」
「天才は皆そうやって謙遜する。今回の落としどころも素晴らしかった。もし本当に憲兵に突き出していたら、きっとクラスメイトたちから距離を置かれていただろう。だが謝罪だけで許したことで、君の居場所を確保しつつも、シャリアンテの求心力を奪い、派閥を瓦解させた。これからの君の学生生活は盤石になるだろうね」
「……買い被りすぎですよ」
「ふふ、ますます君に興味が湧いたよ。将来が楽しみだ」
柔和な笑みを浮かべるアレンは、まるで華が咲いたように輝いていた。彼がいれば、王国も安泰だと、シンシアも笑みを返すのだった。
●
『レオパルド視点』
数日後、レオパルドは頭を抱えていた。悩みの種はもちろんクラリスだ。
「クソッ、なぜ俺がこんな目に!」
私室の机に拳を叩きつけ、怒りを発散させようとするが、気が晴れるのは一瞬で、すぐに不安が頭を占める。
「あの女は怪物だ……」
人は強者に付き従う。土下座騒動の後、クラリスは学園で影響力を持つようになった。彼女に媚を売るため、情報提供する者も増えたと聞く。シャリアンテと一緒にいるだけで危険な状況になったのだ。
「失礼しますわ」
「シャリアンテ!」
目の下に隈を作ったシャリアンテが部屋に入ってくる。想定外の訪問だった。
「シャリアンテ、いま俺の屋敷を訪れるのはマズイ!」
どこにクラリスの目があるか分からないのだ。不用意に会うのは危険だった。
「大事な話がありますの」
その言葉を発する彼女に以前のような華はない。むしろ死者のような不気味さがある。本題よりも、むしろ彼女の体調が気がかりだった。
「なぁ、体調が悪いのではないか?」
「ふふ、悪いに決まっていますわ。あの女のせいで私の人生は滅茶苦茶ですもの」
「だから俺は忠告したんだ。あの女は危険だと」
「あそこまでとは聞いていませんでしたわ!」
張り上げた声には恐怖が混ざっている。改めてクラリスの脅威を実感し、レオパルドは固唾を呑んだ。
「あの女が私を土下座させたせいで、派閥の長の立場から追放されましたわ。今の私はカーストの底辺、廊下ですれ違う度に今まで歯牙にもかけなかった生徒にさえ笑われますのよ。耐えられるはずがありませんわ!」
「少しは落ち着け」
「いいえ、冷静になるのはまだ早いですわ。このまま放っておけば、いずれ私たちの関係が露呈するのも時間の問題。破滅はすぐそこですわ」
「それは俺も自覚している……」
あの怪物が本気で調査すれば、浮気の事実はすぐに明らかになる。そうなる前に手を打たなければならない。
「ねぇ、レオパルド。私、良い方法を思いつきましたわ」
「なんだ?」
「あの女の命を奪うんですの」
「――ッ……ま、待て、待て、殺したら婚約関係も終わり、援助が打ち切られる」
「ですが、浮気がバレたら、有責で婚約破棄になりますわ。一方、事故で死ねば、ダーナル子爵家の過失。交渉次第で援助を続けさせることもできるのでは?」
「うぐっ……」
人の命を殺める提案に、さすがのレオパルドも腰が引けた。しかし浮気が露呈すれば、公爵家から追放される危険もある。そうなれば身の破滅だ。
「俺が破滅することに比べれば、クラリスの命くらい安いものか……」
「ふふ、危険なあなたも素敵ですわね……では次の夜会に二人で襲撃しましょう」
「ああ」
公爵と子爵では命の重さが違うとでも言わんばかりに、レオパルドは歪な笑みを浮かべる。自らの利益のために、手を血で染める覚悟を決めるのだった。
●
夜会に参加したシンシアは、壁に背を預けながら、ワイングラスを手にしていた。
ルドルフは上流貴族との交流を深めるのに忙しく、傍には居ない。静寂の中で唯一人、葡萄酒の甘味と酸味を楽しんでいた。
「やぁ、また会ったね」
「アレン殿下……」
声をかけてきたアレンは手にワイングラスを携えている。一緒にお酒を楽しもうと近づいてきたのだ。
「その年で飲酒とは随分と大人だね」
「王国には飲酒の年齢制限はないはずですよ。そしてそれは殿下が証明されています」
「ふふ、そうだね」
アレンは葡萄酒を口に含む。王国は葡萄の産地でもあるため、その味の違いを知ることは貴族の嗜みとされていた。貴族の頂点に立つ王子だからこそ、誰よりも葡萄酒には精通していた。
「今年の葡萄酒は良品だね。高く売れそうだ」
「帝国なら倍の値段で買うでしょうね」
「あの国は美食のためなら金を惜しまないからね……それにしても、帝国についての知識も豊富だなんてさすがだね」
「私も子爵とはいえ貴族の令嬢ですから」
教養なら負けないと主張するように、葡萄酒に口をつける。生前、数々の葡萄酒を扱ってきたシンシアだが、歴代でも上位に位置する味だった。
「それにしても君のような素敵な人が一人だなんて意外だね」
「私には婚約者がいますから。それにシャリアンテ様の土下座騒動のせいで、私は恐怖の対象として認識されてしまいましたから」
「他の男たちは見る目がないね」
「……アレン殿下は私が恐ろしくないのですか?」
「ははは、僕は一度死んでいるからね。恐怖を感じなくなっているのさ」
死んだ人間は生き返らない。何かの比喩表現かと思い、アレンの言葉を待つ。
「僕はね、心臓病だったんだ。医者からは三年の命だと伝えられていたんだ。もう六年も前の話さ」
「なら病は克服したのですね」
「ああ。君の祖母のシンシアさんが商路を駆使して、遥か遠方にある小国から薬を運んできてくれたんだ。おかげで病は完治した。この命は彼女に救われたんだ」
(そういうこともありましたね……)
国王に頼まれて、息子の薬を探しだしたことがあった。その後、すぐにシンシアの体調が悪化したため、息子であるアレン本人と面会することはなかったが、知らず知らずのうちに彼の命を救っていたのだ。
「病室で天寿を全うするはずだった僕は命を救われた。でも恩を返すべき人は、この世を去っていた。だから、少しでも生前の彼女を知りたくて、著書をボロボロになるまで読み返したんだ。本を通しての交流しかなかったが、僕は彼女に恋をした。初恋だったよ」
「アレン殿下……」
「この世を去ったシンシアさんには夢があった。王国を裕福な国にして、病気や貧困で苦しむ人をなくしてみせるというね。その夢はいつしか僕の夢にもなっていた」
アレンの表情は将来の希望に満ちていた。その瞳がシンシアを見据える。
「君のように優秀なら夢を叶えることも不可能ではない。だから僕は君の強さに憧れを覚えたんだ」
「女性への褒め言葉ではないですね……ふふ、可愛いよりも嬉しいですが」
「君にもし婚約者がいなければ、僕が伴侶に立候補したいくらいだよ」
「ご冗談を」
「本気なんだけどね」
アレンの顔は耳まで赤くなっていた。それが酒のせいだと誤魔化すように、残った葡萄酒をワイングラスが空になるまで飲み干した。
「殿下、酔ってきましたし、夜風にでも当たりませんか?」
「僕も酔いが回っていたからね。助かるよ」
二人は内庭に顔を出す。美しい花が咲き乱れているが、暗闇ではっきりとは視認できない。ただ月灯りでぼんやりと浮かび上がる花々には風情があった。
「アレン殿下には付き添ってもらって感謝しなければなりませんね」
シンシアが足を止める。同時にアレンも異変に気付く。
「……どうやら君の傍に居たのは正解だったようだ」
アレンは腰に提げていた剣を鞘から抜くと、上段に構える。向けられた視線は茂みを見据えていた。
「そこの茂みに隠れている者。姿を現せ」
アレンの呼びかけに応じて、茂みから覆面を被った男女が現れる。男は剣を構え、女は背後で待機している。
「僕が戦うよ。クラリスは背中に隠れていて欲しい」
二人の剣士が切先を向け合う。だが覆面を被った男は及び腰になっていた。その態度からアレンは正体を察する。
「僕を傷つけたくないということかな? なら狙いはクラリスだね」
「…………」
「無言を貫くのは、声で正体が露呈するからかな……クラリス、君の知り合いで、命を狙う人物に心当たりはあるかな?」
「はい。きっとレオパルド様とシャリアンテ様でしょうね」
覆面を被った男は動揺したのか、手を震わせる。今こそがチャンスだと、シンシアは手を鳴らす。
「いまです!」
シンシアの合図で動きだしたのは、アレンではない。覆面を被った男の背後で待機していた女性が、仲間を裏切り、彼の腰に抱き着いたのだ。
動けなくなった男の剣を、アレンが払い落として、拘束する。地面に叩きつけ、覆面を脱がすと、想定通り、レオパルドの顔がそこにあった。
「やはり、あなたでしたか……」
「クソッ、なぜだ⁉ なぜシャリアンテが裏切った?」
「ふふ、知りたいですか?」
覆面を外したシャリアンテは申し訳なさそうに眉根を落としている。苦悩の滲んだ表情から、すべてがクラリスの掌の上だったと知る。
「僕も知りたいな。なぜこんな事が起きたのか教えてもらえるかな」
「動機は簡単です。私の命を奪って、婚約破棄をするつもりだったんです」
「……君はその計画を事前に知っていたのかな?」
「はい、だからこそアレン殿下には一緒に来ていただきました」
王族であるアレンが証言すれば、それは絶対の証拠となる。言い逃れもできなくなるため、彼をこの場に連れてきたのだ。
「どうやって俺たちの計画を知ったんだ?」
「私はレオパルド様の浮気を知っていましたから。そして浮気の罪は相手の女性にも適用されます。莫大な慰謝料を請求されたくなければと脅し、シャリアンテ様を味方に付けました」
「だ、だが、それだと順序がおかしい。俺はシャリアンテに提案されて、クラリスを殺そうと……まさか――ッ」
「ふふ、そうです。私が裏で手を引いて、シャリアンテ様に襲撃を提案させたんです。なにせ、浮気で有責にするより、殺人で有責にした方が、すんなりと婚約を破棄できますから」
「……っ――ッ」
「後は説明するまでもないですね。合図と共に、あなたを背後から拘束するようにシャリアンテ様に指示をしていました。この襲撃事件はすべて、あなたの人生を破滅させるために仕組まれていたのですよ」
レオパルドの喉が恐怖で震える。だが非業な現実をそのまま大人しく受け入れられるほど、彼は大人ではなかった。
「ひ、卑怯者……俺を罠に嵌めたな!」
「罠とは失礼ですね。私はあなたを信じていたのですよ……もしレオパルド様が良心の呵責を感じ、踏みとどまってくれていれば、こんな結末にはならなかったのですから。ですがそうはならなかった。あなたは私欲を優先し、私の命を奪おうとした。そんな人に私を責める資格はありませんよ」
「……っ……」
正論にレオパルドは泣き崩れる。可哀想なことをしたと思う反面、シンシアとしてもこれが最善手だった。
(私が成仏した後にクラリスの命を狙われるわけにはいきませんからね。リスクを早めに潰せてよかったと思いましょう)
孫娘に幸せな婚約をプレゼントできなかったのは残念だが、ダーナル子爵家は裕福だ。上流貴族との縁談は改めて探せばいい。
「無事解決かな」
「アレン殿下のおかげです」
「でもまさか僕を利用するとはね」
「レオパルド様が王族を傷つけるはずがないと確信していましたから。護衛として頼りにさせていただきました」
王族を殺せば、一家が連座で死刑になってもおかしくはない。そこまでの度胸がレオパルドにあるはずもないため、アレンが無事なことは保障されていた。
「でも利用したのは事実だ。だから僕を利用した対価を払ってもらう……僕と婚約して欲しい」
「……本気ですか?」
「本気だとも。信じられないかい?」
「先ほどまでの光景を見て、婚約を口にできる殿方がいるとは思いませんでしたから」
「ふふ、むしろ君の才覚を実感して惚れ直したよ。そして、僕は異性としても君を意識している。人生二度目の恋を成就させたいんだ。駄目かい?」
アレンは婚約者として文句なしで満点だ。孫娘に幸せな結婚をプレゼントできる機会を活かさない手はない。
「喜んで、受けさせていただきます」
「今後とも末永く、よろしくね」
二人は握手を交わして、婚約の契約を結ぶ。転生した大商人は、孫娘の幸せのためにこれからも活躍し続けるのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
ここまで執筆できたのは、いつも読んでくださる読者の皆様のおかげです
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また連載版の執筆も始めました。
ストーリーは短編版と異なるものにする予定なので、是非、読んでいただけると嬉しいです
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