カヘルンカ
カへルンカ :
M県に伝わるあやかしの一種。
白い顔に、表情の読み取れないうつろな目と、耳元まで裂けた大きな口を持つ、人の姿をしている。
黄昏時を好んで現れ、道行く人に「行クンカ?帰ルンカ?」と問うてくる。
答えずにその前を通り過ぎても、進む先に何度でも現れる。
その目を見て「帰る」と答えると、道に迷い、目的地に着くことができなくなる。
逆に、目を見ずに「行く」と答えれば、何事も無いという。
しばしば、知り合いの姿をして現れると言われる。
そのためM県では、黄昏時には、人に会っても目を合わせるなとの古老の教えがある。
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「最終退社デス。」
「最後ニモウ一度、戸締リヲ確認シテ下サイ。」
機械音の無機質な案内を聞きながら、彼は事務所の扉に施錠し、会社を後にした。
彼の名は、出村忠則。
去年部長に昇進し、この会社の一部門を任されている。
外は暗く、少し離れた繁華街からは、ややぼんやりした喧騒が伝わってくる。
飲み屋が閉まるにはまだ時間があるが、飲みに行くには微妙な時間。
出村の家は、その繁華街を抜けたはずれの、会社から歩いて二十分程の距離にあった。
家路を急ぐ。
妻と一人娘の待つ家へと。
このところ残業が続いていた。
売上は芳しくない。
特に出村の部署は。
上からは責められ、下は言うことを聞かない。
ストレスで、最近は酒の量も増えてきている。
繁華街の誘惑を振り切るように帰りを急ぐ。
飲み屋へ入れば長居をしてしまい、明日の仕事に差し支えると分かっているから。
だが、澱んだストレスで荒んだ心は、アルコールの癒しを求めて出村を苛む。
結局コンビニへ立ち寄ると、度数の高い発砲性の酒を2本買った。
外へ出てすぐ缶を開け、ぐびぐびと流し込む。
「ちくしょう、何で俺ばかり。」
荒い息と共に、日々の不満が漏れ出る。
課長だった頃は、まだ良かった。
気に食わない上司を、さらにその上の上司に媚びて味方に付け、追い落とした。
陰口を叩き、仲間外れにするだけで良かった。
上司が会社を去り、晴れて部長となった。
今度は、足元を固めた。
年が近く、ライバルになりそうだった部下を上司権限で追い詰めた。
同じようにその部下も会社を去った。
二人とも、退職の際には、どこか表情の無い目をしていたのが印象的だった。
そう、まるで死んだ魚の目のような。
上司の覚えはめでたい。
部下達は皆若く、自分を慕ってくれる。
出村は束の間、自分の天下を喜んだ。
だが、ほころびはすぐに現れた。
上司の顔色を伺うことに長けた性格は、失敗を恐れるが故に冒険ができない。
売り上げは緩やかに下がり始めた。
出村が退職に追い込んだ二人は、出村とは違い、仕事を楽しむ性格だった。
そのため、大きな失敗もするが、それ以上に大きな成功を収め、結果的に売り上げを微増で維持していたのだ。
今や部下達は、出村と同じ事なかれ主義の小物ばかり。
いくら声を上げても、売り上げは下がり続けた。
「どいつもこいつもっ!」
力任せに空き缶を投げ捨て、出村は再び帰路についた。
繁華街の外れには、いかがわしいホテルがいくつかある。
飲み屋街の喧騒も遠くなり、きらびやかな光もくすんでくる。
ちょうどそう、まさに黄昏時のように。
肩を寄せ合う恋人達が歩いている。
あるいは、許されざる忍ぶ恋か。
近道とはいえ、ここでは一人歩きの出村の方が異質な存在だ。
ふと、目の前を歩く二人が気になった。
男の後ろ姿が、かつて追い落とした上司に似ていたのだ。
...そして隣にいるのは、出村の妻だった。
「おいっ!」
思わず肩を掴むと、元上司はゆっくりと振り向いた。
あの時と同じ、死んだ魚の目をしていた。
と、その口角がつり上がり、口が耳まで裂けた。
...ニタァ....
「ドコヘユク?...イエニ...カヘルンカ?」
「う、うわぁぁぁっっ!!!」
出村は思わず駆け出していた。
何だ?
何なんだ、あれは?
人じゃない!
あの目、あの顔!
俺は夢でも見ているのか?
角を曲がると、一件のラブホテルから出てきた二人にぶつかって、無様に尻餅をついた。
二人を見上げる。
「うわぁぁぁっっ!!!」
そこにいたのは、ライバルになりそうで追い払った部下だった。
死んだ魚の目をしていた。
隣にいるのは...出村の娘だった。
何故だ?
二人は家にいる筈だ。
何故ここにいる?
きっと他人の空似だ。
そうだ。
早く帰らないと!
...ニタァ....
「ドコヘユク?...イエニ...カヘルンカ?」
思わず叫んでいた。
「帰るっ!俺は家に帰るんだっ!」
出村は走った。
走って、走って、なかなか家には着かなかった。
道行く人々が出村を見る。
皆、虚ろな目をしていた。
なのに、口は大きく裂けて笑っているのだ。
...ニタァ....
...ニタァ....
..ドコヘユク?...
..ドコヘユク?...
...イクンカ?...
...カヘルンカ?...
出村は叫びながら、よろよろと走り続けた。
いつしか、会社に戻ってきていた。
鍵を開けて、事務所へ転がり込む。
「オカエリナサイ、オカエリナサイ...」
電子音が鳴り響く。
大きな音が鳴り響く。
ふと出村は窓を見た。
出村の顔が写っていた。
死んだ魚の目をして、口が裂けた出村の顔が...
翌朝、事務所で首をつった出村の死体が発見された。
警察は自殺と断定。
いつしか忘れ去られる出来事の一つとして処理された。