気がつけば、風が吹いていた
今日、仕事を辞めた。
最後の日に着ていたのは、1年前に入社式で着たリクルートスーツ。
あの日と同じように桜の花びらが舞っている。
高校時代に駅伝選手として関東大会に出場したわたしは、それを足がかりに駅伝の有力大学に進学し、仙台で行われた全日本大学女子駅伝対校選手権大会に出場した。もちろんわたしの力というよりも、仲間達の力が大きかったのだが。
それでも、わたしの走りを見てくれた実業団チームから誘いの声がかかった。
わたしは全日本実業団対抗女子駅伝大会で3区10.9キロを任され、チームは結成して初めての7位と大健闘した。
だが、そこまでだった。
会社の業績は傾き、陸上部は解散となった。その話を聞いて他のチームから誘われたのは、アンカーを任されたエースだけ。
それ以外の選手は、引退して事務員として会社に残るか、他のチームを探して退職するかの決断を迫られた。
わたしは、引退は決められないものの、この会社で事務員をするつもりはなかったので、早々に退職を決めた。
3月31日、わたしは職場でお世話になった上司や同僚、陸上部の仲間に別れを告げた。
寮はすでに引き払い、私物も新しいアパートに持ち帰っている。会社で退職辞令をもらい、20階建ての社屋を見上げ、頭を下げて別れを告げる。
たった1年だったけど、多くのことを学んだ。社会人として、仕事の厳しさ、人のつながりのありがたさ、信頼することの危うさ、警戒することの大切さを教わった。
走ることしか知らないわたしを懇切丁寧に指導してくれた。間違えても、失敗しても、カバーする万全の対策を練ってくれた。
このまま、陸上を辞めて職場に身を置きたいと甘い誘惑に誘われた。それに抗うことは、親切にしてくれた人達を裏切るようで、罪悪感に押しつぶされそうだった。
陸上以外でも、会社の戦力になっている、そんな気にさせてくれる居心地のいい場所だったんだ。
そんな陽だまりに、わたしは背を向ける人生を選んだ。
新しいチームは決まっていない。退職すれば収入の道を失う。短距離で実績を残せなかったわたしに残されたのは、マラソンだけ。しかし、わたしは42.195キロを走ったことがない。
だけど。
どんなに居心地がよくても、ここはわたしのいるべき場所じゃない。もしも、普通に就職活動をしていたとしたら、この会社を選んでいたとは思えないから。
勤務したのが1年間なので、退職金はないということだったが、駅伝で成果を上げたことによる功労金として100万円が支給されると聞かされた。
預金と失業手当とあわせたら、半年は走ることに専念できるだろう。
わたしは、同僚の顔を改めて思い出し、もう一度高層ビルに頭を下げて踵を返した。
賽は投げられた。
道は一つしかない。
翌日、区営の陸上競技場で練習をしたわたしは、最後のランを兼ねてアパートまで遊歩道を走っていた。
「そいつを捕まえてくれーっ!」
後ろから大声がして、私の脇腹を押しのけ、男が追い抜いていった。
こんにゃろっ!
走っているのを追い越されたのは、高校1年のとき以来だ。
一瞬、危ないやつから逃げてるのかとも思ったが、逃げるために人を押しのけるようなやつはろくなもんじゃない。それに、あいつ、ぶつかって謝りもしなかった。
わたしは、人の流れに配慮のかけらもなく逃げ去ろうとする男に不快感を持った。
体勢を立て直し、人混みを避けてダッシュする。
わたしの前には男しかいない。ギアをあげて男の背中に迫る。
男の手に女性物のハンドバッグが握られている。
ひったくりだっ!
しかも、このヤロウ、ずっと先から歩いてくるラクロスのクラブを肩にした女の子の集団に向かっている。
彼女達は男に気づいていないのか、ぺちゃくちゃ喋りながら前を見ようともしていない。
あの子達にぶつかる前に追いついて捕まえなければ。
さらにギアをあげ、腕を大きく振る。
ぐんぐん男の背中が大きくなっていく。
あと数メートル。
──逃さないっ!
わたしの中の獰猛な何かが牙を剥いた。
女の子達もようやく異常事態に気づいてかたまり始めた。その、集団の数歩手間、わたしはとうとう男を追いつめた。
容赦する必要なんてない。男が着ているブルゾンの襟をつかむ。
そのまま後ろに尻もちをついた男の腕を持ち、勢いのまま男を反転させて、うつ伏せに倒す。背中に乗って男の反撃を封じる。
体重差で跳ね返される恐れはあるが、この男を追いかけていた男もすぐに追いつくだろう。それまでの数分間、このまま抑え込む自信ならある。
ラクロスの集団は、「なに。あれ?」とか「怖いんだけど」とか、「痴話げんか?」など自分の身に降り掛かったかもしれない悲劇に思い至らないまま立ち去っていく。
男が「助けてぇ」とうめくのを、背中に渾身のエルボーを叩き込んで黙らせる。
やがて。
「はぁ、はぁ、どうも、ありが、っとう、ござっ、いますっ!」
駆けてきた男がゼイゼイと息を吐きながら男を抑え込む。
もういいだろうと、わたしは背中から降りて、改めて抑え込まれた男を見た。
背中に乗った男は、スマホを取り出して。
「もしもし、警察ですか? ひったくりを今捕まえました。場所は……江戸川区西葛西の……どこだ? ここは……遊歩道です。近くに野球場が見えます。俺ですか? 通りすがりの者ですよ。名前? ……山武太一といいます。……はい、このまま待っていますので、お願いします」
──山武太一?
聞き覚えのある名前だ。
まさかね。ぶーたが東京にいるわけないよね?
それでもと、スマホをしまった男の顔をじっと見る。
「えーっと? どこかでお会いしましたっけ? あっ、僕は安田法律事務所で働いてるんですが、もしかして、クライアントのかたですか?」
顔も大人びてあの頃の面影はほとんど残ってないし、声も違う。
でも、あの、間抜けそうな目つき、ひったくり犯を押さえつけているのにおどおどした態度。……そして、右目下の涙ボクロが、わたしの考えを見透かしてゴール前にボールを蹴り出してくれたあの男の子を思い出させる。
間違いない。ぶーた、だ。
小学5年で転校していった男の子。同い年だから今は23歳になっているはずだけど。
「……苦労したんだねえ」
思わず目頭を押さえた。あんなに可愛かった男の子が、こんなになっちゃって……時間が過ぎるって、残酷だね。
わたしはしみじみとぶーたの顔を見る。
うっわーっ。ないわぁ!
男は顔じゃないけど。うーん、これは、残念っ!
これは、もう、名乗らないほうがいいよね。昔の可愛かったころを知っている人間に、いまのこの顔なんか見られたくないよね。知らないふりをしてあげるのが優しさというものだよね。
わたしは、「お疲れさまでした。じゃ、わたしはこれで」と立ち去ることにする。
わたしの心の中の山武太一は、可愛い男の子のままだ。美しい思い出にそっとフタをしてしまおう。ぶーただけに。くくっ。
あの男の子の成れの果てには、会わなかったことにする。……元気そうでよかった。もう会うこともないだろうけど、元気でいてね。……生きてさえいたら、いいことがあるから。そんな顔でもいいって思ってくれる女の子がこの世界のどこかにきっといるから。たぶん。もしかしたら。
……ぶーた、男は顔じゃない。お金だ。お金持ちになって、結婚相手を見つけるんだ。諦めたら、そこで試合終了だからね。アデュー。
だけど。
「……大原? 大原いずみだよなっ! 俺のこと覚えてないか? 山武太一、ほら、小学校のとき同級生だった」
「……えっ? 人違いです。……いや、ちゃいまんねん。うち、そないな人やあらしまへんどす。ほな、ごめんやす」
「おい、でたらめな関西弁でごまかそうとしても無駄だ。去年の11月のクイーンズ駅伝で走ってただろ? 俺はテレビで見て知ってるんだぞ。……なんで、嘘をつく?」
「やれやれ、人がせっかく親切で見なかったふりをしてあげようとしたのに。……ぶーた、人の厚意を無にするところは相変わらずだね」
「その言いぐさ。やっぱり大原だったんだな。なんでとぼけようとした? 俺だってことに気づいてたんだろ?」
「……昔の知り合いだからといってお金は貸さないよ。今わたしは無職だからね。あっ、だからといって、就職の斡旋をしてほしいわけじゃないから。水商売はわたしには向いてないし、ヘルスやソープで働くつもりはないからねっ!」
「君が俺のことをどういう目で見ているか、よーくわかったよ。でも、無職ってことは、会社を辞めたんだな? なら、いいアルバイトを紹介するよ」
「別にいいんだけど」
「そう言うなよ。俺の勤務先、安田法律事務所だ。名刺を渡しておくよ」
「ぶーた、弁護士になったの?」
「いや、弁護士事務所の事務員だ」
「あんたに人を雇える権限なんてあるの?」
「俺は紹介するだけだよ。その気になったら電話で面接の予約をして履歴書を持ってきてくれ。……っていうか、今すぐ一緒に来てくれ。人手が足りなくて困ってるんだ。頼む。お願いします。このとおりです」
そう言ってわたしを拝むけど、あんた、今、人の背中に乗ってるんだよ。そんなところで正座するような人がいる職場なんて、ブラックに決まってるじゃないっ!
自由と正義を大切にする職場に転職することをお勧めするよ。あと人権も。
そう言って断ったはずなのに。
わたしは、そのまま虎ノ門にある安田法律事務所に連れてこられ、就職の面接を受けている。
おかしいな? アルバイトじゃなかったの? あと、履歴書を持ってきてないんだけど。
それに、練習を終えたところだったから、身につけているのは上下スポーツウェアにランニングシューズ。キャップのひさしの上にサングラスを引っ掛けてる。
そのうえ、最悪なことに、シャワーを浴びていないから汗臭いはず。
だけど。
面接のはずなのに、わたしがいるのは応接室。テーブルの上にはコーヒーとケーキが並び、さっき面接担当だと言ったはずの田中弁護士の手には、なぜか色紙とサインペン。
キラキラとした目でわたしを見ている。
「あのぅ、山武さんに連れてこられたので履歴書はないんですけど……」
「そんなのいりませんよ。大原さんの経歴なら、インターネットに載っていますから。……ああっ、大原さんが必要なら、プリントアウトしましょうか?」
わたしが欲しいわけないじゃん。
「じゃあ、ぼくから自己紹介しますね」
……へっ?
こうして、わたしは、なし崩し的に安田法律事務所の事務員に採用され、田中弁護士の下で働くことになった。
……あと、田中弁護士の下心を心配したけど、お子さんを大切にする恐妻家で、その心配は無用だった。
後に、山武太一にそのことを言ったら、笑ってやつはこう答えた。
「そんなわけないだろ? ボスが好きなタイプは小早川怜子。AV女優のっ! わっははは」
……あの巨乳さんか。
わたしの渾身のパンチが山武太一の腹にめり込んだ。
─ おわり ─