梅雨空
どきどき見始めたサスペンス映画に、どことなく中だるみを覚えておのずと飽きがきざしたのをつとめて打ち消し踏ん張るうち少し盛り返したと思うとぼんやり先が読めてまたつまらなくなり終わりはあくびを堪えながらやっとのことぷつんと色彩が暗転、エンドロールになって忽然真っ暗な背景にアルファベットの白い隊列が下から上へと行き去るのを見送りながら、一応の責めを果たしたごとく、一華はふっと一息ついてソファへ振り返ると、慧輔はここちよく仰向けになって片足を伸ばし、目をつむって耳にはワイヤレスのイヤホンが差し込まれている。
一華はうっとりそのさまを見つめて、邪魔しないようそっと立ち上がると共に慧輔は目を薄くひらいてこちらへ視線を向けたので、
「ごめん、起こしちゃった? 寝てていいよ」
言いながら軽く手を振ってそのままキッチンへ行き冷えたお茶を手に立ち戻ると、すでに慧輔はソファに脚を組んで梅雨空の窓外へ端整な顔をむけている。一華は一口飲むとグラスを差し出して、
「飲む?」慧輔は首を横に振るのでそれをテーブルに置きながら、
「いつから寝たの?」やわらかな調子をこめてたずねると、慧輔はイヤホンを大儀そうにはずしながらソファに転がっていたケースへ片づけ、
「えっとね、そうだな、ちょっと覚えてない。最初からあんまり」
「音楽聞いてたの」
「そうゆうこと。駄目だった?」
「ううん。いいよ、ねえ」
呼びかけてうつむいたなり黙した一華の様子に、慧輔は訳もなく居心地悪くなっておもむろに脚を組み替えると、一華はいつしかこちらを見つめてにっこり、
「慧輔浮気した?」
「疑ってんの?」
「そうだよ」
突飛な問いを不審に思いつつ、つとめて微笑をよそおうふうの一華の美麗な顔に慧輔はひとまず楽観して、その手を手繰り耳元へ口を寄せ、
「したよ」ささやきながら戯れに仲直りを図ろうと優しく抱き寄せると、
「一華というひとがありながら?」
そう耳元へ問い返す女のつぶやきに、男は紋切型の甘美さを覚えながら、同時にかすかな棘を見抜いて、それでも男女のあいだで取り交わされる戯言に過ぎないと即座に高を括り、
「そう、一華がいるのに」そう答えるや否や、ソファに突き返され、突然のことに戸惑いあきれる慧輔へ、
「意地悪」と言ったなり、そばへ近寄って男の膝に突っ伏すとしくしく泣き出した。
慧輔の様子から浮気したというのは大方冗談に過ぎず、かえってこちらの戯れに付き合ってくれた優しさとさえ分かっていながら、一華は忽然訳もなくむやみに悲しくなったのである。
今までも男はいたというものの毎度相手の方から惚れられて近寄って来るばかりで、慧輔のように一目でぽっと自分から惹かれに惹かれきった男は他にはいない。吸い寄せられた末には我にもあらず一つ勇気を出してみずから言い寄ろうかと度々妄想するそばから、如何せん男へ言い寄った経験のない一華にはその方途さえ皆目見当もつかず、そうして媚の売り方色目の使い方種々研究するそばから立ち所に目が覚めて、こんなのは自分には似合わないと恥ずかしさと意地を言い訳になげうって落ち着かない毎日を送るうち、何の恵みかある日突然、慧輔にアルバイト終わりに一杯誘われて、一華は嬉しくも唯々びっくり、迷う振りすら忘れてすぐには何とも言葉が出なかった。
連れられた夢のような個室の中、色目に頼ることなく自分の好意はだだ漏れに伝わって、慧輔も自分を気に入ってくれたのだと一華はたちまちのうちに自惚れて赤らんだ。それまでも出勤が重なる度毎にきまって挨拶を交わしはしたものの、慧輔は厨房、一華はホールスタッフなのでそれ以上のおしゃべりに耽る機会は偏に望んだにしろひとたびも訪れず、皆でつどった宴会もないまま遂に親しく話す機を逸してこのまま悔し泣きに泣くのかと夜な夜な枕に突っ伏していた折も折、その夜の慧輔の言葉をききながら一華はしみじみと感じ入り、今夜の幸せを祝って歓喜に酔いしれた。
これまで幾度か目が合う瞬間があったとはいえ、一華はその度毎にたちまち頭は朦朧胸高鳴り喜悦に心弾むまもなくその刹那のひとときは宛ら幻影のごとく早過ぎ去りお客から呼びが掛かって駆けつけ笑顔で接客するうちには男性客が常のごとく酔っ払い気が大きくなっているのをいい事にきまって投げかける同じ質問、愚にもつかない冗談でこちらの気を惹こうとするちょうどその時、一華の大きな瞳は目の当たりのおじさん連を見ながら愛しの人を夢見るよすがとし、慧輔に置き換えようとするそばからしくじってそろそろ立ち去りたいのをなお引き留める折しも、後ろから他のお客の声がしてこれを幸い天の助けとつと身を引いてやっとのこと助かった出来事をふと思い出しながら、改めて目の前の愛しき顔をみつめると、嬉しくも不思議、先程までの緊張は綺麗さっぱり溶け去って、すでに二人はひとつのような気がしてくる。
その思い出の夜を境に二人は逢瀬を重ねるほどもなく正式に付き合って、一華は以前に増して慧輔を気にかけるようになっていたある日、ふと店が暇になった折に目にした自分とは別の女子と微笑みながら喋る様子。二人が付き合っているのを知られるのはこっぱずかしいから周りには黙っていてと慧輔にお願いされて、皆に隠すのは世を忍ぶようで密やかな楽しみもあったし、その時まではとりわけ不満もないままにひと月と過ごしていたものの、あるまじき光景を目にするや否や、一華はたちまち怒り心頭騙されたと心づいて、その後出勤が重なるたび慧輔の様子になるべく監視の目を配っていると、一転、あれ以来怪しげな素振りひとつ見せず、それに伴い一華の波立つ胸奥も次第次第におだやかに静まって平静へと立ち返っていた折から、今日突然、嫉妬と疑念の波が再び勃興し始めたのである。
「大丈夫? 冗談冗談、しないよ浮気なんて」
慧輔はゆるやかに諭しつつ、相変わらずしくしく泣きやまない一華の髪を優しくとかしながら、浮気ってどこからだろうか。と、誰しもがもてあそぶ気楽な問いを改めて考えなおしてみると、一線を越えることは論外として、触れることも勿論御法度。二人きりの食事はありだろうか。無しかもしれないが約束してしまったものは仕方ない。可愛く従順な一華が一番であることに変わりはない。ただ時折、息抜きも必要というだけだ。
やわらかな髪をさすっていると一華が静かにあおむいて、まだ潤う瞳でこちらを見つめ、
「ほんとう? 約束して」と言いながら指切りをせがむので、慧輔はその手を引いて抱き寄せ、
「離さないから覚悟しな」駄々っ子をあやすようにささやいた。
読んでいただきありがとうございました。