番外編:星の向こうに何がある?
女は長い階段を登っていた。
木靴の足音が果てしなく響く。こつ、こつ。足を上げて。こつ、こつ。反響は遥か先まで続く虚空に吸われて消えていく。何度となく、こつ、こつ、登り続ける。
その一定のリズムに自分を慣らしていく。繰り返し、繰り返しだ。痛みを感じないように。夢をみつづけるために。自分が自分であるために自分を殺す必要がある。
心を丁寧に狂わせなくてはならない。こつ、こつ。それは自分への拷問であり、解脱への儀式であった。こつ、こつ。粗い石である自分の心を、純粋な宝石に仕上げなくてはならない。こつ、こつ。この足音は石工ののみの音なのだ。砕け。削れ。あらゆる不純物を追い出すために。
「そのくらいでいいのではないかね」
いつしか女の隣に、男が立っていた。一段、また一段と階段を上がっても、視界の中の全く同じ位置に彼はいた。瞳の表面に入り込んだごみのように。
「君は私に会いに来たのだろう。私の知識を求めて」
女はその言葉を無視して、はぁはぁと息をしながら登り続けた。こつ、こつ。異様な頑健さと頑固さで、彼女は登り続けた。
彼女の顔は皺だらけだった。見た目通りの年齢なのか、それとも過酷な旅路で不摂生を重ねた結果なのか。道化のような作り物の笑顔は、もう何十年もそこに貼り付いているのだろう。笑う以外の表情を捨ててきたかのように、奇妙に頑なな笑顔だった。
「このまま登り続ければ君はここで死ぬ。私はそれを惜しいと思う。あと何段で死ぬかを教えれば止まってくれるかね?」
それから数十段上がって、ようやく彼女は無視するのを諦めたらしい。足は止めないながらも速度を落とし、呼吸を整えながら、ゆっくり口を開いた。
「もし、貴方が、本物のイクシビエド卿であれば」
息継ぎをして。
「わたしの目的もとっくにわかっているはず。だから、そんなことは言わないのよ。イクシビエド卿ならすぐさま答えを教えてくださるもの。そうでしょう? そうだよね、うふふ」
女の言葉は半ば自分との対話であるようだった。相手が目当ての人物だと信じないだけでなく、相手の実在さえまだ心からは信じていないのだろう。それだけ自分を疑っている。自分の目と耳がいかに嘘をつくか、ずっと思い知らされて生きてきたのだろう。
「君の求める答えは、私には与えられない」
女の足が初めて止まった。
それから乾いた唇を噛んで、首を横に振りチュッチュッと舌打ちをした。
「おまえはわたしを惑わす幻覚なんだ。おまえは嘘つきだね。イクシビエド卿はなんでもお知りなのよ。愚かな幻! 消えてしまってよ」
くっくっと笑いながら、女はまた段を登り始めた。
「君はなぜ魔術師になりたい?」
「それこそ、イクシビエド卿が絶対お聞きにならないことじゃない。あの方はみんな知ってるもの」
「『彼』は人の心までは分からない。この世に知り得ぬものがいかに多いか、君は長い探求の旅の中で理解しているはずだ。なぜ、それでもなお、この塔を登ろうと思った? 私はそれをずっと考えている。この答えは、君だけが知っている」
女はしばらく黙っていた。虚ろな瞳で自分の足下をただじっと眺めながら、こつ、こつと段を登り続けた。その顔は笑顔のままだった。
「……うーん。いいよ、幻。おまえがイクシビエド卿だということにしてみよう。それで、わたしもそのつもりで話してみようよ。うふふ、楽しいかも」
女の態度が軟化したのを見て、幻と呼ばれた男は安堵した表情を浮かべた。実際のところ彼にそれほどの感情はなかったが、彼女のためにそうした。
「なぜ魔術師になりたいかって? わたしは逆に問いたいんだよね。どうしてみんな、魔術師になりたがらない?」
女は淡々とした風に見せたがっていたが、その声には必死さがどうしても滲んでいた。
「この世において本当に生きるということができるのは、魔術師だけ。わたしたちは遠くで星を、月を眺めているだけの虫けら。人間なのは彼らだけ。わたしたちは人間のにせものなんだ。人間にあこがれて、人間のふりをしている木偶人形だ」
女の声がだんだん熱を帯び、言葉が速くなる様子を、男は黙って聞いていた。
「わたしは本当になりたい。ほんものになりたいの。嘘じゃない世界を知りたい。これは違う、わたしが見ているものは違う。おまえと一緒、全部幻だ」
頭を掻きむしるように両手を耳のそばまで振り上げて、結局虚空を掻くだけで腕を下ろす。今まで何度もそうしてきたように。
「どれだけ知識を集めて、世界中旅したって、わたしは世界の本質を見られない。わたし以上にそれを求めてるひとはいないのに。おかしいよね? おかしいよ……」
「表層をどれだけなぞっても本質にはたどり着くことはない。果実の皮を矯めつ眇めつしてもその味がわからぬように」
男の言葉に、女ははっと視線を向けた。自分の理解者を見つけた喜びと、それがお前であってはならないのにという恨みの混じった情念の目つき。
「そう思うの?」
「君が以前、呟いていた言葉を繰り返しただけだ。私の考えとは違う」
その答えに女は失望し、また安堵する。やがて心に問いが浮かび、それを口にする。
「じゃあ……おまえはどう思うの」
「本質は観測者が作るのだ。私は君が表層と呼ぶものにこそ本質を見る。世界の全てはあるがままに、完成された無限の存在であると考える」
「はは! おまえは、愚かだね。賢くなんかない。何も知らない」
「そうだ。だから、私は知りたいのだ」
男の話を咀嚼するために、女は目を細めて、しばらく黙ったまま階段を登り続けた。
やがて女の目に、奇妙な熱がこもり始めた。とうにわかっていた事実をようやく心が認め、受け入れ、それが意味することを考え始める。予期していた失望はすでに終わった。これから、彼との会話によって何が得られるのだろうか? 彼はなぜ、ここにいるのか?
「わたしが、どうしたって魔術師になれないんだとしたら」
女は独り言のようにぶつぶつ口にする。声を張る必要はないのだ。彼にはどうせ聞こえている。この爪を噛む音も。いらだつ心臓の音も。
「わたしは、どうしてここにいるんだろうね」
「君は答えのない問いに答えを求めている。それでも答えを必要とするならば、君は自ら答えを定めなくてはならない。君がただ真理を求め、理解しようとするのならば、魔術師であるかどうかという条件は、意味をなさない」
「どうして?」
「なぜなら、魔術師となった今も私は何も理解してはいないからだ」
「……そうか。だから、おまえは知りたいのね」
噛み合うようで噛み合わない問答の中で、彼女は余計に自分と彼との違いを感じさせられていた。彼が世界の真理を語る時、彼女はその言葉を理解しつつも、結局はこのみじめな自己からの逃避を夢見ているに過ぎない。そして、それを自覚せずにいられるほど愚かでなかったことが、彼女の不幸だった。
「イクシビエド。わたしはおまえになりたかった。おまえみたいに……」
彼女はあっさりと虚勢を捨て、男が自分の探していた相手であることを認めた。自分が疲れ果てていることを、ようやく自分自身に認めた。魂の底の底から、もう精力を使い果たしたのだと。この塔を登り続けることが、ただの意地なのだと。そして再び足を止め、今度は倒れ込むように、階段の途上で膝を折った。
「わたし、もう思いつくことは全部やったよ。ありったけの書物を読んだ。魔術師たちにも片っ端から訊いた。でも、魔術のなんたるかは一切の言葉の中には存在しないんだ。なぜならそれこそ、言語化できない物事の本質を捉える業、それこそが魔術なんだもの」
首をゆらゆらと回しながら、空虚な顔でそう語る。
「変なことも沢山したよ、苦行だとか、修行だとか。でもさ、人間の達しうる真理だの悟りだのって、結局みんな嘘かまやかしなんだ。薬で幻覚を見て、アウラの声を聞いたとか言ってる連中を知ってる? 知ってるよね。笑っちゃうじゃない、そんなの……それでもわたしは全部やったよ。ああ、それから、それから……」
女の笑みがふと、わざとらしく邪悪に歪んだ。
「ねえ、覚えてる? わたし、魔術なしで魔術を作ろうとした。何年前だった? ふたつの街に噂を流してね、みんなで殺し合うようにしたんだ。おっと、嘘なんかつかないわ。わたしは聞いた秘密を伝えただけ。でも、それはとても重い秘密……たったのひとつの秘密の言葉。それを暴いただけで、みんながおかしな想像を膨らませ始めた」
言葉を切り、にわかに興奮して唇を舐める。この物語が彼女の唯一の功績であるかのように。
「そうして疑心暗鬼になって、夫は妻を疑い、子は親を疑い、だんだん敵同士になっていった。結局四十人くらい死んだよ。本当の本当の真実は、もう誰も知らない。わたしだって知らない。わたしは噂を人から人に伝えただけだもん……つまり、これはね、情報によってもうひとつの現実を生み出したんだよ。彼らにとっては疑念の中で見た姿こそが真実だった。アウラの言葉にもある。現実とは、人の心がみる幻像のひとつに過ぎないと」
「二十二年前。興味深い実験だった」
「ふふ、そんなこと言って。毛ほども喜んじゃいないんだ。おまえは何だっていいんだもの。死ぬのも生きるのも同じこと。幻も真も違いはない。どうすればそう思える? いや、無理だろう。無理だった。無理なんだ、わたしには」
活気づいていた女は、また急に萎れたようになった。
「わかってるの。わたしのやったのはただの屁理屈。模倣にさえなっちゃいない。それがわたしの限界。だから、これでおしまい。道化芝居はおしまい! ひ、ひ、ひ……」
笑い声は空虚だった。それは彼女の夢の名残だった。魔術師ならそんな風になりたかったという夢。偽物の世界を嘲笑い、自由に世界を跳び、人心の秘密を暴き、無限の深淵に手を伸ばす、美しい道化。
「……ねえ。おまえはわたしを、そうやっていじめに来たの? それとも自分の塔の階段に、狂った婆の死体を転がしたくなかっただけ?」
「私はこの世の全てを愛している。その中には君も含まれる」
「わたしにその資格はないよ。わたしは……もう、面白いこと、なにもできないもん。何も叶えられない……」
「望みを叶えるかどうかではなく、君が歩む道の果てを見たいのだ。君が道化芝居と呼ぶものの結末を。それはここでのたれ死ぬことではないはずだ」
男は彼女が頑なな行軍を止めたことで、一定の目的を果たしたと判断したのか、すでに人間らしさを演じることをやめていた。親切な表情は消え、得体のしれない、笑顔とも不満ともとれるような漠然とした表情が表れ、その視線は女ではなく遠い星の向こうを見ていた。目線など、彼にとって意味をなさぬもの。
「なら、わたしはどこへ行くの……?」
「まずは立ち給え」
男がそう言うと、まじないの言葉もなく、女の老いた体がみるみる力を取り戻していった。若返るほどではないが、登ってきた段を降りて故郷へ向かうには十分な活力。男には彼女を瞬時にそこへ送り届ける力があったが、彼女がそれを望まないこともわかっていた。
「温かい飲み物は要るかね? それとも、長い睡眠か。どちらも提供できる。そういったこと全てが済んだら、また君の望むところへ旅立つといい」
「……何もいらないよ。ねえ、イクシビエド。わたしはあと何年生きられるの。それくらいは答えがあるんでしょ。おまえならさ」
男は数秒黙った。しかし、答えを伝えることに躊躇はなかった。
「おそらく一年ほどだろう。君の臓腑は外見以上に老いている。その時間でもできることは無数にある。ここにうずくまっているよりも」
「それっきりなのに、おまえはまだ生きろっていうの? もう一年、わたしにみじめな努力を続けろと? どうせ死んでしまうのに? どうせ魔術師になんかなれないのに?」
「そうだ」
「おまえを楽しませるために?」
男は答えなかった。答えはいくつか同時に存在したが、そのどれも女の気に入るものではなかっただろうから。
「は、は、は、ははは!」
ここへきて女は、生まれて初めてと思うくらい久しぶりに、心の底から可笑しくなった。子どもの頃に星を見上げてから、ずっと抱えていた執着。一度として立ち止まることなく、星に向かって歩いてきた。星に手なんか届かないとわかっていたのに。
「馬鹿だ、馬鹿だ! 魔術師なんて……手前勝手な糞野郎どもだ」
星なんて、ただ空に浮かぶだけの石ころだと知っていたのに。
「何が違う? わたしとおまえと。おまえの知識欲なんて、俗な男の欲望と何も変わりゃしない。恋しいものが手に入らないから、そいつの髪の匂いとか尻の穴の形まで知りたがるんだろう。所有欲、独占欲だよ。高尚なものであるもんか」
女は男の足下に唾を吐きかけた。男は何も言わなかった。
「おまえは自分が何よりも空虚な穴だと知っている。おまえには何もない。だから何でも欲しがって、でも満たされることはない。なぜならものの本質は所有することができないからだ。賢しらぶった言葉でごまかしたって、おまえはただの凡庸な病人なのよ」
瞳には涙が浮かんでいた。彼女が貶めようとする星がまさに彼女の涙に映るのを、男は美しいと思った。
彼らは似た者同士だった。しかし、片方は無限遠の望みへと歩き続ける力があり、片方はその力がない。その不公平を、男は静かに比べ、彼女の苦しみ妬み、そして深い諦念をじっと心のなかでみつめた。
もはや彼にできることは何もない。彼女自身が助けを拒絶したのだから。それでもなお、彼女を助けたいと感じる意志は何物なのか? あるいは彼女の人生を始まりから見続ける中で、とても古い、原始的な、男としての情愛が再び湧きでもしたのか? 問いの答えはない。彼が常に持つ無限の問いと同じように。
彼は答えを求めず、ただ、その謎めきを愛した。それこそが、人として誰かを愛する機能を失う代わりに、彼が手にした魔術なのだから。
「私に与えられるものは、これで全て与えた。君の望むままにし給え」
「ええ、ええ。そうするわ。そう、わたしは全部わたしのもの。おまえになんかあげないよ!」
そう言うと、彼女は塔の壁に空いた小さな光取りの穴に駆け寄った。
「物知らずのおまえに教えてあげる。この世の壁を超えるのに、魔術なんかいらないの。誰でも向こう側へ行ける。おまえが絶対に知れない世界をわたしは見てあげる。幻でない世界を見てあげる。この目で、この心で! おまえが手に入らないものを、わたしは手に入れてやる!」
男は何か言おうと口を開きかけ、また閉じた。目を閉じてなお全てを見通す大魔術師の塔に、なぜ光取りなどが必要だったのか? 彼もまた時折、彼女と同じように遠い星を見上げていたのか?
いずれにせよ、女は高い高い塔から身を投げ、夜の闇へと飛び込んだ。視界が巡り、星が見えた。「あ」、と喉から意味をなさない声が出た。
イクシビエドは遠くで彼女の骨が砕ける音を聞いた。常に魔術を編み続ける脳のなかで、彼女の老いた臓腑が潰れていく様子を、命が失われるまでの一瞬一瞬の変化の全てをじっと見ていた。彼女の存在を忘れぬように。もとより一度見たものを忘れる機能など彼にはないのだが。
不思議なことに、彼女の死体は塔の下にはなかった。心臓が弾けるのと同時に、彼が知覚しうる世界のどこからも消え失せていた。何が起きたかを理解した時、イクシビエドは数百年ぶりに心から笑顔を浮かべた。
「わからないことばかりだ」
そう呟くと、彼は再び関係のない思索にふけりながら、塔を自らの足で登っていった。
(おわり)




