第七十七話 魔術狂会議 その3
「君は時々、私の語彙にない言葉を使うね。どこで覚えてきたのやら」
イクシビエドが何を言っているのか、理解するのに少しかかった。
そういえばこいつらの世界に「神」はいない……つまり「信仰」もない、のだろう。多分。近い概念はあるのかもしれないが。アウラはその言葉を、冬子からでも聞いたのだろうか。
「……それで、君はどう決断を下す? アウラ。君も彼女に少なからず手を貸していたようだが」
「わたくしは」
アウラはそこで言葉を切り、椅子の背に大きくもたれかかった。倒れそうになった椅子が、奇妙な角度で止まる。
「あなたが世界の具象を愛するように、人の心の抽象を愛するのです。その無限なる万華鏡から生まれる、あらゆる望み、衝動、夢、そしてそれらの表出である行動たちを。わたくしはただ賛美し、愛撫し、記憶に留めゆくもの。それがこのアウラという魔術師の存在意義。なればこそ」
またもわざとらしく言葉を切り、どこからか取り出したシルクハットを指の上でくるくると回し、顔の正面で止めるアウラ。
「わたくしはあなたがた、彼ら、あらゆる彼我に望まれるだけ手を貸しましょう。お好きに使ってくださいな」
「中立ということか。想像した通りの答えを、ありがとう。私も君を当てにしている」
イクシビエドは驚きもなくうなづいた。
「まあ、先生に頼られるとは、なんて光栄かしら。ふふ、どちらにどう転ぶにせよ……たとえばこの世の終幕となっても、なかなかの笑い話になろうというもの。ウーバリー卿も同じでありましょう?」
その問いかけに、これまで発言するどころか岩のように固く動かなかったウーバリーが初めて、ゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳はやはり誰にも向けられず、自分の世界に入りきっている。しかし彼はその向こうの世界から、重く深い声でこちらに声を響かせた。
「……あらゆる事物は、二相の対立を内包する。繰り返される、その対立運動、すなわち闘争によって……存在という現象が、立ち顕れる」
戦士然とした巨体の口から出てきた、予想外にインテリ風の言葉。意味はさっぱりわからないが、詩を読むようなリズムある声に俺は面食らった。
「この対立もまた、闘争によっていずれ自然の解決を見るであろう。……俺はその炎を愉しませてもらう」
それだけ言って、ウーバリーは再び目と口を閉じた。その唇はかすかに微笑んでいるようだった。
「つまるところ、ぬしらは傍観か。賢しらぶって、また逃げをこくというわけ」
そう嘲笑いながらも、ネリマルノンの声はどこか静かだった。その声と同じように、彼女はいつしか泥の体を一つに固めて、椅子の上に小さな人間の形を作っていた。
それは豊かな金髪にすっぽり体を隠した、幼い少女の姿。言動に似合わないその無垢な顔には、固く不機嫌な表情を浮かべていた。
「あの娘を殺そうぞ、イクシビエド。必要ならば妾の子供たちを貸してやる。何万、何億の獣が死ねば因果の綱をも噛みちぎれるものか、試してみようではないか」
「……ちぎれると思うかね?」
試すようなイクシビエドの問いに、ネリマルノンは吐き捨てるように笑う。
「ハ! その算段があるから妾たちを集めたのであろうが」
「正しい。しかし、それはまた後に話そう。彼らの意志を聞かねば」
イクシビエドはふいと彼女から視線を外し、残る面々に目を向けた。
立場が明確でないのはあと二人。命の魔導師アドバンチェリ、時の魔導師ポトキッテ。
「そうね、私は……恥ずかしながら、今の二人と同じよ。見守らせてもらうわ」
ためらいがちにそう言ったのは、老婆ポトキッテだった。
「何を恥じる?」と、イクシビエド。
「自分なりの理由があって傍観する二人と違って、私はただ決めかねているだけだから」
老婆は俯いて、自分の両掌を見つめた。
「時間の流れというものは、千変万化しながらも、止めようもなく、始点から終点へと流れてゆくもの。私はそのありようを美しく思う。思うからこそ、魔導師と呼ばれ、未熟の身でこうしてあなたたちといることを許された」
ポトキッテはその手のひらの中に花畑でもあるかのように、夢みる瞳ではにかんだ。時間について語る時、彼女の目には何か遠く美しいものが見えているのだろう。アウラが彼女を『少女』と呼んだ理由が、なんとなくわかったような気がした。
「……けれど同時に、私は流れの終わりを見るのが恐ろしい。あの女の子は今ある世界を、澱みなく流れてきた時間を堰き止めてしまうかもしれない。あるいは、彼女がここへ現れることによって開いた穴が、時間の大流をも呑み込んでしまうのかもしれない。それが、壺中という世界の運命なのだと……」
遠く不可知の世界に想い馳せているのか、ポトキッテは言葉と裏腹にまだ夢みるような目をしていた。
「我が師バルーは世界の始まりを見たけれど、終わりまでは見えなかった。私自身は常に回顧する者、そして今ある流れを見守る者。時の果てがいつなのかは誰にもわからない。その完全なる終末に対して、私は心の準備ができていないというのが正直なところね」
失笑して、ポトキッテは暗い瞳を上げる。
「生きていたい。死にたくない。ここにありたい。いなくなりたくない。私はそんな人間じみた心をまだ捨てられずにいる。これから来る世界は、きっとそんな心のない世界なのでしょう。きっと静かで、なだらかな世界。でも、それが私の求める静寂なのか、私にはまだわからない……」
「ありがとう、ポトキッテ。君のその迷いこそ、我々七人のせめぎ合う思考の縮図でもあるのだろう」
イクシビエドの労いらしき言葉に、老婆は会釈した。
最後の一人、アドバンチェリは椅子の上で膝を立て、退屈そうに自分の着物の裾をいじっていた。
俺とイクシビエドの視線が注がれているのに気づくと、彼女はフイと顔を上げて肩をすくめた。
「失敬。私の意志など、聞くまでもないものと思っていた」
「自明のことであれ、はっきりと言葉にしなければ曖昧さが残ることもある」
「私はそこまで言葉というものを信頼しないけれどね。まあ、よいよ。客人のためにもそうしよう」
ふーっと息を吐いて、アドバンチェリは語り出す。
「生と死の偏りは、不均衡を生む。不均衡には揺り戻しがあるもの。大勢の命がこの壺中から消え失せれば、残った命の全ても同じではいられない。我々のうちに、人間のようなものが現れるだろう」
「それはつまり、新たな均衡が生まれるということになる?」と、イクシビエド。
「そう、ただ、数の減った、より小さな命の坩堝になるというだけ。それを面白いと思うなら、やるがいい。私はつまらない。つまらないことに与するつもりはないよ」
アドバンチェリは言葉通りにつまらなそうな顔をして、一言付け加えた。
「……それに私は、自分の生かしたものが死ぬのは好きじゃないんだ。自分で死なすのでなければね」