第七十五話 魔術狂会議 その1
「……本題に入ろうか」
ようやく主導権を取り戻したイクシビエドは、そう言って小さく咳払いした。
「理論上の存在である原初の一人を除いて、これまで因果の魔術師がこの世界に現れたことはなく、その存在さえ不確かだった。しかし、こうしてその存在と目的を知った今、我々はどうすべきか?」
居並んだ魔導師たちからの答えはない。
皆、興味なさげにしているか、面白そうにほくそ笑んでいる。
「知っての通り、この集まりは誰にも何も強制はしない。意見と情報を共有した上で、それぞれが己の裁定を下す。純粋なる魔術の徒に連帯はなく、また互いの望みに干渉もしない。利害が衝突しない限りはね」
それは俺に向けた説明だったのだろう。イクシビエドの視線は一瞬だけこちらを向いていた。
「しかし、この件については明らかに我々の間で利害の衝突が起きているようだ。君の弁明を聞こうか。トランカラーシ」
イクシビエドは感情のない顔を貼り付けたまま、別の意味で感情のない顔(?)のトランカラーシに促す。
「否定。トランカラーシには弁明の理由がない」
混乱を表しているのか、顔の中の図形を無秩序に動かすトランカラーシ。
イクシビエドは冷静さを崩さずに彼(または彼女)の顔を見やって、薄く微笑む。
「言葉を変えよう。君がフユコに従う理由を知りたい。それもまた彼女の魔術の作用なのか? 君の自由意志は彼女に奪われたということだろうか?」
「自由意志の存在は証明不可能である。論理的帰結として、何人もそれを奪うことはできない。あるいは、奪われたということを認識できない」
トランカラーシの無感情な声。まるで屁理屈の応酬だ。
イクシビエドはくっと少し皮肉な笑みを浮かべる。この非人間的な魔術狂たちの集まりの中では、無表情に見えたイクシビエドが人間臭く見えてくるのだから不思議だ。
「議論は別の機会にしよう。質問の意図は理解しているはずだよ」
「…………」
トランカラーシはしばし黙り込み、処理中のHDDみたいにカリカリと音を立てた。
「トランカラーシは世界の摂理を重んずる。星の運行を保つのと同様に、定められた法則を保つことが役目だと考えている」
「だが君は、法則を変えようとする者を支援している。あまつさえ彼女の気まぐれのために、星の運行まで歪めたではないか」
「衝突する二つの原理がある時、優先されるのはより古く、根源に位置するものである。壺中は因果の魔術によって生まれ、規定された。従って、因果の魔術こそが最優先の原理原則と位置付けられる」
ややこしい問答を続ける二人の魔導師。俺にはもうこいつらが何を言い合っているのかほとんどわからない。とにかく、トランカラーシは冬子側に付いてるこいつなりの理由があるらしい。そして、イクシビエドはその理由に反論している……んだと思う。
二人のやりとりを聞いて、やや離れた席でぐつぐつ音を立てていた泥女ネリマルノンが、はっきりと唇を形作って大きな笑い声を上げた。
「はは! 原理原則とは。天地の法を曲げてこその魔術師であろうが。いつにも増して、つまらぬ男よ……男だったか、貴様?」
「トランカラーシの性別には意味がない。以降、この質問者との対話を拒否する」
「己の肉体から逃げたように、わらわからも逃げるか。そんなものよな」
「…………」
宣言通り、トランカラーシはネリマルノンの挑発も無視した。
「トランカラーシ。君は『より古い』原則を優先すると言う。だが、彼女が因果術を行使しているのはたった今、そしてこれから先の未来に対してだ。矛盾してはいないかね?」
イクシビエドが、再びトランカラーシに問う。
すると二人に割って入るように、ポトキッテが手を小さく挙げた。
「時間を見る者として、一つ言わせてもらえるかしら」
「どうぞ、ポトキッテ」
「……正確に言うのならば、あの少女の出現と因果術の発生と、どちらが先かを定めることは私たちにはできないわ。因果を歪めるということは、我々が経てきた時間そのものさえ歪められるのかもしれないのだから」
「詳しく説明してくれるかね?」
「つまり、この壺中という存在そのものが、彼女の魔術によって逆算的に生成された可能性も否定できないということよ。時間はあなたたちが思うように、一定の早さで流れるとは限らない。引き伸ばし、押さえ込むことはいくらでも可能よ。我々の世界は、彼女の望みを満たすために数万年の時間を一瞬にして辿り、たった今生み出されたのかもしれない。その場合、彼女こそが原初の魔術師と同一存在だと見なすこともできるわね。もっとも、この仮説もまた証明不可能だけれど……」
話の規模がどんどんおかしくなってきた。この世界そのものを冬子が作ったって言ってるのか、この婆さんは?
何があり得て何があり得ないのか、俺にはまるでわからない。しかし、幸い俺の印象はイクシビエドとそう変わらなかったようだ。
「飛躍が過ぎるよ。不可知の領域を根拠なき想像で埋めてしまえるなら、この世界を居眠りする蛙の夢だということにもできてしまう。思考実験としては興味深いが」
「同感よ。けれど、因果を操るとはそういうことだわ」
「……ふむ」
イクシビエドは考え込むように視線を外し、手を口元に寄せた。
「疑問。因果術師フユコの意志に従わない理由は何か?」
トランカラーシの呈したまっすぐな疑問に、魔導師たちの視線が集まる。
「彼女が放逐しようとしているのは魔術師以外の人間である。我々の存在には一切影響がない。ならば、何故トランカラーシ以外の魔術師はそれを拒むのか?」
「拒んでいると、誰が言ったのかな」
声を上げたのは、しばらく静観していたアドバンチェリだった。
「彼女の幼い感傷は、私は案外気に入っているよ。しかし、そのために今ある命のありようまでも変えるとなると……判断を下すにはまだ情報が足りない。それゆえ、君にぺらぺらと喋らせているんだ。舌もないのによく喋ってくれる」
アドバンチェリがクスッと笑うと、トランカラーシは顔の図形を斜めに傾けた。からかわれたことが不服か、不機嫌か。多分そんな表情だろう。
「人間の放逐は君が実行するのだろう。具体的にはどうする? 君の好きな無の空間にでも送り込んで、窒息させてしまうか? 見ものだろうね、それは」
「フユコは死を望んでいない。よって、ある程度の安全性を確保しながら、二つの世界に配置する必要がある。論理的帰結として、トランカラーシは壺中のうち、隣接する異層に彼らを転移させることを想定している」
「いそう……?」
トランカラーシがまくしたてる聞き慣れない言葉の連続に、俺は思わず口をぽかんと開けて呟いた。
その様子を目ざとく察したイクシビエドが、俺に向けて説明する。
「我々が生きる壺中という世界は、閉じていると同時に無限に広がっていると解釈されている。言い換えれば、同じように閉じた無数の世界が重なり合っているのだ。我々はそれを『層』と呼んでいる。通常、空間術師だけがその層を行き来することができる」
説明したつもりなんだろうが、結局さっぱりわからない。似たような話を、キスティニーが最初に会った時していたような気はするが……。
「つまり……君の元いた世界ほど遠くはない、近場の別世界ということだ。君の妹とトランカラーシは、そこに人間たちを送り込もうとしている」
辛抱強く説明するイクシビエド。その噛み砕いた話で、ようやく俺も話がわかった。
「それじゃあ……別に普通の人間が滅ぶってわけじゃないんだな? 言葉通り、追い出されるだけで……」
「…………」
俺の問いに、イクシビエドは沈黙した。
ホッとしかけていた俺は、その態度に不安を抱く。
「……どうなんだ?」
イクシビエドは気重そうにため息をつきつつも、冷徹に答えた。
「層の異なる世界は、法則の全てが異なっている。ここと隣接する二世界は、便宜上『精霊界』および『妖精界』と称される。精霊界はより単純な、抽象的な概念によって構成される世界。上位である妖精界は逆に、さらに具象的で複雑な要素によって構成される世界だ」
言葉を切って、息を継ぐ。
「もし、この世界の生き物が、そのどちらかにでも移動すれば……彼らもまた世界に合わせて、ありようが変わってしまうだろう。人の形を失い、向こう側のものになるのだ」
「はっ……?」
思わず声が出る。何を言ってるのか……ぼんやりと理解はしているが、その意味するところが受け入れがたかった。
イクシビエドはその態度を不理解と受け取ったのか、よりわかりやすく残酷な推測を語った。
「そこにいるトランカラーシがよい例だよ。彼は一流の魔術師であるが故に自我を保つことには成功したが、同時に今までの肉体と多くの感情を失った。ただの人間ならば……それ以上の変化が起きることになる。予測は不可能だ」
――つまり、人間じゃなくなる。
脳裏に、冬子の顔が浮かんだ。静かに澄み切った決意の顔。
だから……だからあいつは、あんなにも決然としていたのだ。「人類を切り捨てる」と決めたから。
――俺のせいで?
「不可能ではない。トランカラーシはほぼ正確な予測を済ませている。形態は変われど、生命としては存続する確率が高い。フユコはそれを許容範囲と認識した」
トランカラーシが、冬子の擁護に回る。しかし他の魔導師の反応は冷やかだった。
「ほぼ正確だの、確率だのと、貴様にしてはずいぶんと曖昧な言葉を使うではないか。そうまでして小娘の言いなりとは、無様よな」
カッカッと哄笑するネリマルノン。
隣に座るアドバンチェリもまた、冷たく目を細めていた。
「……星の子。君の言うそれは、私からすれば『死』だよ」
トランカラーシに向けて、叱るように言う。
「命には形があるのだ。それは全ての個によって違う。魔術師が魔術と共に見出す真名と同じさ。たとえ肉体を切り刻み、あるいは魔術によって異形へ変じようとも、失われることのない生の本質。汚すこと、砕くことはできても、曲げることはできぬもの。それが命……少なくとも、言葉で表すのなら、そんな風になる」
アドバンチェリは椅子の上でひらりと脚を組み替え、手のひらの上に顎を置く。
「しかし、異層への横断は命をたしかに歪める。いずれの世界へ行くにせよ、人間たちは今ある生を失うだろう」
「トランカラーシは生きている」
図形が申し立てた異議に、少女は憂いのある微笑みを浮かべた。
「言わなかったけれどね。あちらから戻って以降、私の目には君も死んでいるのだ。……そこの少年のように」
視線がこちらに向くのを感じて、俺はうつむいて自分の両手の平を見た。
時々、忘れそうになる。自分が歩く死体だってことを。痛みがないのが当たり前になってしまって。傷つくことが、些細なことに思えてきて。でも……そうなんだ。万能の魔導師から見ても、俺は死んでいる。
そして、冬子は全ての人間を、俺と同じかそれ以下のものにする気でいる。