第六十九話:世界はあなたのもの その1
――全てがあいつの思い通りになる。
おぼろげに想像していたものと方向性はそうズレていたわけじゃない。ただ、キスティニーの口にした「答え」は俺の想像よりもはるかにスケールが大きいものだった。
「時間も、何もかもって……そんなの、まるで……」
まるで「神」だ。この世界にはない概念と知っていても、他に相応しい言葉が見つからない。
ローエングリンみたいなチートじみた騎士が都合よく冬子に心酔して、俺たちを殺しにきたのも。コララディの無限の夜に閉じ込められたのも。いや、もしかするともっと前から……全てがあいつの力で起きたことなんだとしたら。
皮肉なぐらいに相応しい話じゃないか。この異世界で冬子は神になって、あいつを殺した俺はその手の平の上で、血みどろの戦いをし続ける。あいつにしたことのフラッシュバックみたいに、誰かの背中を刺し続ける――終わらない罰のように。気分の悪い想像が、ただの想像ではなかったのだとしたら? ……首筋にじっとりと汗が湧く。
「出鱈目じゃないの? 本当にそんな万能だったら、あたしたちはなんでまだ生きてる。全てが意のままなら、わざわざエルフの騎士なんて送り込んでくる必要もなかったはずだろ。殺すと思った時には殺されてたはずだ」
そう言って水を差すアンナの様子は、冷静というよりは想像が追いついていないようにも見えた。しかし、言っていることは確かに正しい。結局のところローエングリンは負けて、俺たちはここへ辿り着いた。冬子は俺の顔など見たくもないだろうに。
「さあねーえ。彼女の魔術が実際どこまでのものなのか、わたしたちには観測しようもないから。まだ魔術の使い方がわかってないとか? 因果術を見出したのは彼女が初めてなんだし。確かなことは……この世界で起きる事象が、少しずつ、少しずつ、本来あるべき法則を外れて、彼女の望み通りに動いているってこと」
「つまり……彼女の魔術は万能でも、彼女自身はまだ万能じゃない」
しばらく黙って話を聞いていたヴィバリーがようやく口を開く。
「問題は、おそらく術の発動に彼女自身の認知は関係ないということね。ユージーンの弓の話を考えると、サヴラダルナのように見られなければ効かないというわけじゃない。彼女が『そう望んでいる』というだけで、我々は影響を受ける」
彼女の冷静な分析は、イクシビエドの判断を待つまでもなく、すでに冬子に相対する方法を考え始めているみたいに聞こえた。ぞっとするのと同時に、自分の中にも同じ感覚があることに気付く。
冬子はすでに俺たちを敵だと思っている。あいつに謝りたいと思う俺とは別に、もし、あいつがアンナたちを殺そうとするなら、止めるしかないと考えている俺がいる。もし説得できないのなら――何ができるのか、と。
「そうかしら? どうかしら? シシ、シ……」
「フン……お前がそこまで把握しているなら、イクシビエドもとうに承知の上か」
険しい表情で不快を露わにして、ヴィバリーがつぶやく。
「どういうことだ?」と、首を傾げるアンナ。
「調査の依頼なんて口実だったってこと。私たちは最初からフユコの反応を引き出すための触媒に過ぎなかったのよ。私たち……特に縁者であるトーゴが近づくことによって、フユコがどんな事象を起こすか。彼女の魔術を識るために、イクシビエドが必要としていたのはそれだけ」
――つまり俺たちの仕事は、もうとっくに終わっているってことなのか。確かにキスティニーがすでに結論に辿り着いているのなら、彼女より上手の魔導師が気付いていないはずはない。
ヴィバリーは利用されたことに苛立ちつつも、事実を受け入れてはいるようだった。きっと、最初から予想はしていたのだろう。あるいはこの世界に生きる者として、その思惑がなんであれ、世界を統べる魔導師に腹を立てても仕方ないと諦めているのかもしれない。
「それで、イクシビエドの指示は?」
「さあー? わたし、彼との取引は終わっちゃったんだよね。今は好奇心で見てるだけ。シシシ、自分で聞いてみればいいんじゃなーい?」
相変わらずはぐらかしてばかりのキスティニーにため息をつきつつ、ヴィバリーは俺たちの方に向き直る。
「……他に方法もないか。とにかくイクシビエドに報告して出方を見ましょう。運が良ければ……それで仕事も終わるかもしれない。アンナ、鳥を出して」
「はいよ」
アンナは荷物の入った鞄をがさごそとかき回して、中から黒く分厚い手紙のようなものを取り出した。てっきり伝書鳩か何かのことだと思い込んでいた俺は面食らって尋ねる。
「『鳥』って……それなのか?」
「そうよ。荷物に鳥籠なんか入っていなかったでしょう」
ヴィバリーはそっけなく言いながらその紙を受け取り、本のようにパカっと二つに開いた。すると紙はひとりでにくしゃくしゃと丸まりながら姿を変え――気づけば彼女の手のひらには一羽の黒いカラスが乗っていた。確かに、当たり前のように『鳥』がどうこう言ってるわりに、それらしい荷物がないのは気になっていたが――
「こういう道具を作るのが好きな魔術師もいるのよ。人間にも扱える、魔術の産物……高級品だからそう使う機会はないけれど。父が使わせたのよね?」
そう言って、アンナの方を見るヴィバリー。そういえばこの鳥は、アンナがオーランドから送って寄越したんだったか。一都市の市長ならば、確かに金に困ってはいなさそうだ。
「ああ、そうそう。娘のためには金を惜しまないってことかね。いい父親じゃん」
「……そうらしいわね」
アンナの言葉に生返事をしながら、ヴィバリーは紙の上にささっと炭を走らせて、一筆書き終える。
「これでいいわ。ほら、行って」
小さく折り畳んだ紙片が足首の筒に差し込まれると、その重みに反応するように、カラスはふるっと首を震わせて一声鳴く。そして、次の瞬間には羽音を残して空へと消えていた。
「あとは……待つのか? 返事を」
誰となしに問う俺。いや、この場で意思決定ができるのはヴィバリーだけだ。問いに答えられるのはヴィバリーだけだと、俺も知っていた。
「ええ。イクシビエドがいつどんな形でこちらに接触してくるかはわからないけど、城跡からは少し距離をとる方が賢明ね。また霧がいつ来るかも知れない。高台か、せめて霧の入ってこない場所……」
ヴィバリーはいつもの調子で、淡々と次にやるべきことを語る。
だがその時、彼女の前にすっと立ち上がる影があった。
「……ユージーン? どうしたの」
少し困惑したように問いかけるヴィバリー。ユージーンは今まで見たことがないくらいに真っ直ぐな目で俺たちを見て、はっきり言った。
「逃げよう」
言い切る声にはもう、怯えも混乱もなかった。ただ冷静な判断として、最善の選択肢を口にしているだけ。そう信じられるだけの、確固とした自信がその瞳にはあった。
「ここにいたらいけない。帰ろう、東に」
面食らったのはヴィバリーだけじゃない。俺もアンナも驚いていた。ユージーンがこんな風に自分から騎士団の方針に口を出す姿は初めてだった。フードゥーディの時のような遠回しの忠告とも違う、真摯な言葉。
容赦ない戦士としての姿を何度見てきても、俺の中でユージーンはあくまで子供だった……でも、もしかすると本当は一番大人なのかもしれない。任務だとか、自分の罪だとかで目が曇っている俺たちは、これだけ明白な危険を前にして、当たり前の選択肢に見ないふりをしていたのだ。
「決めるのは……私よ」
長い沈黙の後、ぽつりと言うヴィバリー。彼女が目に見えてたじろぐのも、これが初めてだった。自分が死ぬ時でさえ、どこか他人事みたいだったくせに。
ユージーンは目を逸らさず、微動だにせず、じっとヴィバリーを見つづけた。ヴィバリーはその目を最初から見ようとせずに、顔を背けるだけだった。