第四十八話:境界
「……馬車はここまでか」
アンナがそう呟くのを聞いて、俺はふうっと深いため息をついた。馬車に揺られて、漫然と旅すること二日。ようやく地平線に緑色の影が見え始めて、さらに数時間後のことだ。
俺は変化のない馬車の旅にうんざりし始めていた。風景もほとんど変わらないし、アンナが御者をしているおかげで(最初はユージーンに代わりをさせようとしていたが、彼女は落ち着きがなさすぎて上手くいかなかった)、荷台のメンツは俺とヴィバリー、時々ユージーンでろくに会話がない。夜は夜で静かすぎて落ち着かないし、とにかく何か変化が欲しいところだった。今になって、騒がしいキスティニーの声が恋しくなったほどだ。
「荒野に森って、なんか場違いだな……」
馬車を降りた俺は、目の前の奇妙な光景に思わずつぶやく。足元に目をやると、たった数メートルくらいの距離のうちに乾いた砂地が徐々に水気を帯びていき、豊かな茶色の土に変わっていく不気味な境界線がはっきりと見えていた。
「去ったとはいえ、かつての魔術師の居城だもの。常識の通じる場所ではないわ」
ヴィバリーはこともなげに言い、土の上で何やらむずむずと落ち着かないユージーンに声をかける。
「ユージーン、水の匂いはする? 水場はありそう?」
「んー……する」
「そう。それじゃ、飲み水の補給はできそうね。トーゴ、食糧を三日分詰めておいて」
森への進軍に向けて準備に移るヴィバリーをよそに、ユージーンはまだ鼻をくんくんさせて口を斜めに歪めて不審な顔をしていた。それを見たアンナがけらけら笑う。
「なんだよその顔、変なもんでも食った?」
食事の担当はアンナなので、変なものを食わせたとしたら犯人はアンナなのだが。ユージーンははっきりと返事せず、むずがるように首を横に振り、妙な唸り声をあげた。
「んー……んー……なんか、やだ……」
ユージーンはどこか様子が変だった。彼女が変なことを言い出すのはたいてい敵か魔術師が近くにいる時だが、いつもはもっと涼しい顔で受け流していたはずだ。なのに今は、まるで森を恐れているようにさえ見える。
この先にいたという魔術師の痕跡を感じているのか。それとも、今そこにいる冬子の力を感じているのか。
「……怖いのなら、残ってもいいわよ。馬もここに繋いでおきたいし」
「えっ!?」
ヴィバリーの言葉にぎょっとする俺。これから未知の敵(俺の妹だが)の手の内を探りにいくというのに、貴重な戦力でもあり、勘も鋭いユージーンをここに残していくなんて、本気で言っているのか。
「何を驚いてるの。嫌がる子供を無理に連れて行くより、ずっと人道的な提案だと思うけど」
涼しい顔で言うと、ヴィバリーは目を細めて森を睨みつけた。「人道的」なんて言葉が彼女の口から出ると不気味だ。ヴィバリーも何か不穏なものを感じて、ユージーンを気遣っているのだろうか? 表情に出さないからよくわからないが……どうもヴィバリーの彼女に対する親心は遠回しでひねくれている。
俺たちのやりとりを、ユージーンはじっと神妙な顔で聞いていた。アンナはそんな彼女にそっと近寄ると、中腰になって、同じ高さで正面から向き合った。
「ユージーン、あんたが自分で決めな。残るか、来るか」
「……行く」
ユージーンはさほど悩まず、きっぱり言ってうなづいた。目線はチラチラと森を見て、まだ何か嫌な感じを抱いているようではあったが、そもそも「行きたくない」というほどの気持ちでもなかったようだ。
「んじゃ、馬を木につないどこう。一緒に行くか?」
「……ん」
アンナはユージーンの背中をポンと叩いて立ち上がり、二人で馬の方へ歩いて行った。微笑ましい姿だ。姉妹というには似ていないが、それに近いような関係なんだろう。
二人が離れたのを見てから、ヴィバリーは俺に向けて話しかけてきた。
「この前、森の中に城跡があると言ったでしょう。もう少し詳しく聞かせてあげましょうか。人もろくに踏み入れないこの荒野で、どうしてそんな話が伝わっているのか」
俺はファンタジー世界の背景設定にそれほど興味もなかったが、適当に肩をすくめるとヴィバリーは勝手に続きを話し始めた。
「100年ほど前、この森に護法騎士団の調査団が派遣されたのよ。連中は魔術師のことならなんでも知っておきたがるから。そして不用意に首を突っ込んで、無駄に命を落とす……でも、時には彼らのおかげで貴重な情報が手に入ることもある。魔術師ならざる私たちには、命と引き換えにしか知識を得られないというわけ」
ヴィバリーはふっと空を見上げて、遠い目をした。
「調査団は一人も帰らなかった。彼らの救出にと派遣されたいくつかの騎士団も、後を追って消えた。戻ったのは彼らの放った鳥一羽。鳥が持ち帰った手記から、かろうじてアウラの城跡のことがわかったけど……どうして彼らが戻らなかったのか、その手がかりはどこにもなかった」
ぞっとするようなことを言って、言葉を切るヴィバリー。眠りの森どころか、帰らずの森ってわけか。俺は目の前の不吉な森を見て、眉をひそめる。言われてみれば、いかにも生命の楽園みたいに鬱蒼と茂っているわりに、さっきから鳥の鳴き声ひとつ聞こえてはこない。
「でも、100年前の話なんだろ……?」
「そうよ。あなたの妹さんが現れるよりずっと前……つまり、この森に待ち受けている魔術師は一人じゃないかもしれないってこと。私はユージーンみたいな感覚はないから、記録と自分の経験から予測を立てるの。この森に入ったら……私たちのうちの誰かは帰ってこられないかもしれないわね」
皮肉な顔でもしているのかと思って横を見ると、ヴィバリーはじっと真面目な顔でアンナたちを見ていた。どうやら彼女は本気で、アンナとユージーンを失うかもしれないと恐れている。
俺は正直少し意外だった。別に、根っから冷たい奴だと思っていたわけじゃない。でも、人には絶対に見せたがらないと思っていた。アンナが死にかけたことをまだ引きずっているのだろうか。
「どうしてそういう嫌な話を、俺にだけするんだ?」
俺は言葉の通りに嫌な顔を作って言う。正直、あまり聞きたい話じゃなかった。危険を知らされたって、俺は何もできずに不安になることしかできない。不安になるのは嫌だ。
「……いじめたいから?」
「はぁ!?」
「冗談よ。気が重い話をしやすいの、あなたは」
そう言って、ようやくヴィバリーは笑った。冷たい人間同士、相談役にちょうどいいってことだろうか。それとも多少、気を許してくれたのか。いずれにせよ、俺は嫌な顔をするのをやめた。
「まあ……話ぐらいなら聞くけど。何も助言しなくていいなら」
「それで十分よ、今のところ」
ヴィバリーは笑うのをやめて、すうっと息を深く吸い込む。次の瞬間、彼女はまたいつもの冷たい仏頂面に戻っていた。
やがてアンナとユージーンが馬をつないで帰ってきた。何をしていたのか、ユージーンは馬のたてがみまみれだ。アンナは俺たちの話が聞こえていたのかいないのか、こっちへ来るなり安心させるようにヴィバリーの背中を軽くさすりつつ言う。
「さて……それじゃ、進軍と行くか」
ヴィバリーは一瞬眉根を上げたが、その手を払いのけはしなかった。