第四十五話:焦げた背中
ユージーンが天幕の布を引っ張って上下に何度も振ると、火は案外あっさりと消えた。そんな力もないほどに、最後のローエングリンは弱っていたのだろう。目の前で戦っている姿を見ていた時には、ホラー映画であっさり殺される端役の気分だったので、まるで気づかなかったが。
……結論から言うと、新たな死人は出なかった。カナリヤはローエングリンにかなり手酷く刺されまくっていたが、竜の姿のせいか致命傷はなく、火傷も予想より軽度だったらしい。ただ、いくらか跡が残るだろうとのことだった。……顔に。ジェミノクイスは――天幕が火に呑まれていく間ずっと、ガートルードの体に覆いかぶさってかばっていたのだという。彼女の状態については、「死んではいない」ということ以上は怖くて聞けなかった。
俺は二人と顔を合わせられなかった。どれだけの火傷だったか、確かめることもできなかった。後始末をする他の連中を残して、一人で冬寂騎士団の馬車に戻り、うずくまって眠ろうとした。でも、無理だった。
(俺が、代わりに火の中にいるべきだったんじゃないのか)
どうせすぐ治るし、痛みも感じないのに。俺は無傷で、彼女たちは後に残る怪我を負った。
あの時、あの瞬間に、俺が代わりになれたわけでもなかったし。篝火を倒さなければ、ローエングリンは俺たちを殺していたかもしれないのだから、実際、必要なことではあったのだが。
(……やるべきことをやったんだ。あの時とは違う。冬子の時とは……)
生きていると知った後でさえ。ふとした拍子に、何度でもまぶたの裏に蘇る。転がった血まみれの布団。反射的に、体がこわばって震えはじめる。
(俺はためらわなかった。フードゥーディの時もそうだ。俺は人殺しになったんだ。痛みもない、心もない人殺しに。戻れないんだ。この世界からも出られない。ずっと、このまま、誰かを殺して、何度でも、何度でも……)
「もし」
背後で声がした。馬車の外からだった。
「トーゴ殿……起きておられますか」
ジェミノクイスの声だった。歩き回れるほど元気だったのか。
俺は息をひそめて、寝たふりをしようとした。だが彼女はお構いなしに、馬車の壁板越しに俺に向かって話しかけてきた。
「我が君に代わってお礼を申し上げに参りました。ウィーゼル殿よりあなたが天幕に火をかけたと聞きました。あなたは誓いの通り、私を守り、ガートルード様のお命を守ったのです。まさに誇り高き騎士の振る舞いでございましょう。あの方がお目覚めの際には、きっとあなたの武勇もお伝えします。さすれば、いつか故国を訪れた際には、人に冷たいエルフたちも必ずやあなたを国賓として歓待いたしましょう」
その芝居掛かった独りよがりな話し方は、いつも通りのジェミノクイスに思えた。少し、ほっとした。俺は、誰かの命を助けたのかもしれない。こいつが言うほどの武勇ではなくとも。泥臭い、卑怯なやり方だったとしても。
「……きっと、おいでくださいませ。そして、ガートルード様のお美しい姿を、再びその目に映してくださいませ。私はそのためにこそ生き、生かされているのですから」
そう言うと、ジェミノクイスは言葉を切った。かさ、かさと軽い足音が遠ざかっていった。
俺はせめて何か一言、「悪かった」とでもべきだろうかと考えた。……余計なことを考えたものだ。ジェミノクイスの声が元気そうだったから、油断しちまってたんだろう。
俺は起き出して、そっと馬車の外に出た。すると思ったより近くに、歩き去るジェミノクイスの背中が見えた。
その背中は、一面焼けただれていた。彼女はほとんど裸に近かった。服は丸焦げて、かさかさの腰巻きみたいなものがまとわりついているだけだった。艶かしく垂れていた髪の毛は見る影もなく、頭は半分ほど禿げあがって、地肌が見えていた。その地肌もまた、黒く焦げていた。
「あ…………」
俺は何も言えず、薄く白み始めた空の下で、呆然と立ちつくした。
暖炉に放り込まれた人形のようなぼろぼろのその姿は、映画で見た焼死体そのものだった。彼女がこちらを振り向いたら、何が見えたかわからない。振り向かないでくれと願った。彼女は振り向かず、自分の主人の――ガートルードの死体のところに帰っていった。