第四十四話:湖上の霧
そして、二つの影が動きを止めた。
「ハァ……ハァ……」
荒い息が口から漏れる。キャンプファイアみたいに燃え上がる天幕の中で、カナリヤの巨体が揺らぐ。ついで、布に吹きかかる血。わかりきった、ローエングリンの勝利。逃げ出したいが、逃げられない。足はすくんでいるし、それに俺は見届けなくちゃならない。自分が手を出したことの結末を。自分が放った炎のゆくえを。
やがて、炎の中から銀色のきらめきが現れた。天幕の布を切り裂いて、空へと伸びる剣の切っ先。それを握る、血濡れた手。裸身が布の切れ目をくぐり、炎の熱気から冷たい夜へと逃れ出ようと蠢く。その鈍い動きを、エルフの鋭い目が見逃すはずはなかった。
キュンッと音がして、ユージーンの矢が飛翔する。熱のせいで霧に溶けて避けることはできない。同じ瞬間、ローエングリンの手は剣の柄ごと射抜かれていた。矢の勢いに引っ張られるように体勢を崩すローエングリン。それが、形勢逆転の鏑矢だった。
最強のエルフは地面を蹴って、火の中から空へと飛び出る。火を逃れて、冷たい地面に降りるつもりだったんだろう。火の熱から離れさえすれば、彼女は再び無敵になれる。
だが、その落下に狙いをつけて、暗闇から突風のように影が襲う。ヴィバリーの刺剣だ。ローエングリンはそれを剣で受け流すが、さらにその隙を縫って再びユージーンの矢が飛び、ずんと深くローエングリンの胴を貫く。
一連の瞬間的な戦いを、俺も全て肉眼で追えたわけじゃない。半分ぐらいは俺の想像だ。ただ、確かにわかってることが一つ。それは、ローエングリンが地面にたどりつくことはなかったということ。
「……借りは返したぞ」
背後から、ウィーゼルの刀が彼女の体を両断していた。冷たい地面に転がった彼女の下半身は、その瞬間から徐々に崩壊を始めて、やがて霧となって夜に溶けた。
残された半身は一瞬だけ刀身の上に残り、それから静かに地面へと滑り落ちた。
「……あ……」
横たわるローエングリンの姿が、俺の位置からもかすかに見えた。彼女は口をぱくぱくと動かして、何かを言おうとしているようだった。ウィーゼルにはその言葉が聞こえていたのかもしれない。
立ち尽くすウィーゼルと見つめ合う彼女の壊れた姿から、俺は目を離せなかった。切断面が霧と化しているせいかグロテスクさはなく、その半身は歪な美しささえ感じさせた。
ゆっくりとまばたきをしながら、ローエングリンはふーっと深く息を吐いた。その息遣いに何を感じ取ったのか、ウィーゼルは彼女のそばに跪き、抱きかかえるように手を伸ばした。
「騎士たる汝の位はこの死をもって王の元に戻る。もう自由だ……どこへなりと行っちまえよ」
伸ばしたウィーゼルの手にすれ違うように、ローエングリンは届かぬ空へと手を伸ばした。その指先がか細く震えて、それからふっと霧に溶けて消えた。
後には何も残らなかった。ただ血に湿った地面と、燃え上がる天幕があるだけ。
「……死んだの?」
ウィーゼルの背後に立って、ヴィバリーが冷たく問う。伴侶を手にかけた異国の騎士は、いつものように皮肉っぽい笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいや。だが、二度と霧から人には戻れない。だから、もう……どこへも行き着かないのさ」
――湖上をさまよう霧のように、か。
「さあ、早く火を消そうぜ。誰が……何が燃え残ったか見なくちゃな」
余韻に浸るでもなく、ウィーゼルはさっさと立ち上がって言った。その言葉に、俺も現実に引き戻される。自分のやったことの結果を確かめなければならない。
覚悟などできるはずもない。炎から目をそらして、救いを求めるように自分の団長、白の騎士ヴィバリーを見る。彼女もまた、俺を見ていた。
「お疲れ様、トーゴ」
そう小声でつぶやいてから、ヴィバリーは無音で唇を動かした。その唇は、こう言っていた。
(よくやったわ)
そして、彼女は薄く微笑んだ。