第四十三話:獣のように
俺はすでに天幕の端近くまで下がっていた。だから外に出るには、後ろを向いて天幕をめくり上げて、転がり出るだけでよかった。
――屈み込む一瞬、視界の端にジェミノクイスの横顔が見えた。すぐ背後で繰り広げられる人外同士の争いには一切目もくれず、じっと思い人の死体に手を掲げて、ぶつぶつ何かをつぶやいている。きっと「我が愛しの君」とかなんとか言っているんだろう。
彼女たちを守らなきゃいけないなんて意識は飛んでいた。ここに残っていたら、俺は死ぬ。死にたくない。薄汚く、泥臭い生存本能に突き動かされていた。そして何よりもカナリヤの言葉が、俺の背中を押していた。もう「逃げて」いいのだと。俺の役目は果たしたんだと。実際には何も果たしていないとしても……
天幕の外は、嘘のように静かだった。布一枚隔てただけで、激しく打ち合う二人の剣戟の音ははるか遠くに思えた。
俺は荒い息をしながら、仲間の姿を探した。ヴィバリーとユージーン。二人を見て、安心したかった。だが、篝火のそば以外はまだ深い霧に覆われていた。ユージーンにはこっちが見えてるかもしれないが、俺からは無理だ。
ゴキンゴキンと背後で連続して重い音がした。もう二つ、支柱が折れたのだ。カナリヤがヤバい。いや、この瞬間にももう死んでるかもしれない。俺には判断しようもない。何しろ、完全に一人きりになってしまった。指示をする奴も、意見を聞ける奴もいない。夜の中、霧の中に俺一人だ。
天幕から離れたかったが、霧に逃げ込むのは怖かった。ローエングリンがカナリヤを殺して外に出てきたら、霧の中は一番危険な場所だ。俺は天幕の外側に、つまり篝火のそばに立ちすくんだ。火の暖かさだけが、今は頼り甲斐があった。
(どうする……)
久しぶりに、自分自身に話しかける俺。答えなんか出てくるわけがない。このままじっとして、他の奴らがローエングリンに勝つのを待つしかないんだ。
(もし、誰も勝てなかったら?)
ごくり、と唾を飲む。そんなこと、俺に聞くんじゃねえ。
(もし、みんな殺されたら?)
答えはよく知ってるはずだ。一緒に死ぬしかない。死ぬしか、ないんだ。
そう自分に向かって答えた瞬間。すぐ横で、ヒュウッと風が吹いた。天幕の布がひらめき、続いてパカッと何かが弾けるような音。視線をそちらに向けると――篝火が、横に倒れていた。地面に散らばった薪木はまだくすぶっていたが、炎はすでに微かなちらつき程度になっていた。
「あ……?」
予想外の出来事に、硬直したまま間抜けな声をあげる俺。
篝火が一つ、消えた。半分崩れた天幕の中で、素早く動く影が二つ。カナリヤはまだ生きているらしいが、天幕がほぼ崩れた今、彼女はもうローエングリンを抑えられていない。でなければ、篝火が消えるはずはない。
そのうち、二つ目の篝火が音を立てて吹き飛んだ。厳然たる最悪の事実が、俺にもはっきり理解できた。ローエングリンが、俺たちの最後の強みである篝火を消そうとしている。カナリヤと戦う合間をぬって、中から篝火を蹴り倒しているのだ。火が全て消えれば、もう勝ち目はない。俺だけじゃなく、この場にいる全員の100%の死が確実になる。
そう考えた途端、アンナを殺されかけた瞬間の嫌な気分がよみがえった。もし、これから血を流して倒れるのがユージーンなら? ヴィバリーなら? 今ここに、都合のいいワープ屋の魔術師はいない。
ことここに至って、俺はようやく本気で自分の脳がフル回転するのを感じた。この化け物を殺すために、俺にできることはないのか。あるはずがないとわかっていても、それでも答えを求めて頭に血を送る。
(死にたくない、死にたくない……! ちくしょう、死ぬな……!)
力がなくても、逃げられないならあがくしかないのだ。動物みたいに、血をすすり泥を這ってでも。
――動物、という言葉を思い浮かべた時。ふと、前に聞いたヴィバリーの言葉が脳裏をよぎった。
『……人を超えたものに食らいつくには、こちらも人を超えなければならない。個人としての心と魂を捨て、騎士団という一つの獣の血肉に――』
篝火が立て続けに二つ消し飛ぶ音。全部でいくつの篝火があったか、覚えてなんかいない。深呼吸する。追い詰められた獣のように。言葉でなく、感覚で考える。理性も倫理も捨てて、仲間を生かし、獲物を殺す方法を。
(あいつを殺すんだ。殺せ。殺せ!)
自分に暗示をかけるように言い聞かせながら、俺は頭にひらめいた答えを反射的に実行した。
「……くたばりやがれ、化け物め」
自分が何をしているか、考えている暇もなく――俺は拠り所にしていた目の前の篝火に向かって、体重を乗せた蹴りを放った。篝火は勢いよく、天幕に向かって倒れこんだ。火が天幕に燃え移る瞬間、すれ違うように一つ隣の篝火が消えた。俺は、ギリギリで間に合ったのだ。
炎は見る間に燃え広がった。もしかすると、月光騎士団は最初からこういう結果も勘定に入れて、燃えやすい布を使ったのかもしれない。
そうやって他人事みたいに思いながら。俺は少しずつ、自分のしでかしたことの恐ろしさを考えた。ジェミノクイス。カナリヤ。ガートルードも。俺がたった今、火をかけて見殺しにしようとしている人間のことを。
違う。「見殺しに」じゃない――俺は、敵を殺して自分が生き延びるために、彼女たちを焼き殺そうとしているのだ。誰に言われたわけでもなく、俺自身の判断で。
「最悪だ、ちくしょう……」
燃え上がる天幕の中で、なおも剣を切り結ぶカナリヤとローエングリンの影を見ながら、俺は呟いた。何よりも最悪なのは、自分がそれでも最善の判断をしたのだと思えてしまっていることだった。