第四十二話:赤の騎士、カナリヤ その2
この目で「竜」を見るのは、これで二度目だ。一度はフードゥーディのつくりものの竜。そして二度目は、人間の皮をかぶった竜の騎士――いや、どっちがカナリヤの本性なのかは知らないが。
「シュグルルル……」
カナリヤの喉から、低い唸り声が響く。通りの悪い排水管に風を通したような、気色の悪い音だ。恐竜は鳥の祖先というが、鳥の鳴き声にはほど遠い。
ローエングリンはこの得体の知れない敵を警戒してか、攻撃の手を止めて様子見をしているようだった。そりゃそうだ。どんな剣の達人でも、デカい剣を口にくわえた恐竜からどんな攻撃が繰り出されるのか、とっさに想像がつく奴はいまい。手足の鋭い爪に太い尻尾、全身見るからに凶器だ。
それにこの巨体では、ガートルードを相手にした時のように関節技で動きを封じるわけにもいかない。そもそも関節の構造も人間とはまるで違うのだ。
「……ふ」
小さく息を吐いて、ローエングリンがくんっと体をねじりながら身を伏せた。その体は地面に溶けて、霧となって天幕の中に薄く広がっていく。自分の足下まで霧が満ちてくるのを見て、俺は思わずとっさに立ち上がってシッシと足で霧をはたく。
だが、ローエングリンが俺やジェミノクイスを狙っていないのは明らかだった。無力に等しい俺たちなど、こいつが殺す気ならとっくに済ませている。狙いはあくまで戦力、つまりカナリヤだ。
カナリヤは再びだんっと跳び上がって、天幕を支える鉄の骨組みを片足でつかんだ。その姿を追うように、霧から実体化したローエングリンの剣が走る。アゴをひねって刃を振るい、剣を打ち払うカナリヤ。エルフにも劣らぬ筋力と瞬発力だ。
数度の打ち合いで、薄明かりの天幕の中に火花がぱっと散る。ローエングリンは空中で霧に溶け、剣を振ってはまた霧に溶けて、カナリヤを切りつけていく。カナリヤもその剣撃の全てを弾き返せているわけではないらしく、時として剣閃はカナリヤの鱗の継ぎ目を走り、赤いしぶきを散らせる。だが、竜の肉体はさすがに強靭で、切られても切られても一向に動じることなく反撃に転じていく。
「シギャァァァァッ!!」
天幕から逆さにぶら下がったまま、アゴを大きく開いて咆哮するカナリヤ。歯の間から滑り落ちていく剣を、足の爪を器用に使って空中で拾い上げ、風車のように振り回す。霧から実体化しかけたローエングリンは、とっさにそれを剣で受け止め、吹き飛ばされながら再び霧に溶ける。
――何だよコイツ、めちゃくちゃ強いぞ。無敵に見えたローエングリンがほとんど完封されている。
というか、この頭上をとった状況自体がカナリヤに有利なのかもしれない。ローエングリンは霧になってどこへでも移動できるが、攻撃の瞬間は生身になって剣を振る必要がある。つまり足で踏ん張れない空中では、いつものように鋭く重い攻撃ができないのだ。
斬りむすぶうちに、ローエングリンもそれを悟ったのだろう。彼女は攻める手を休め、霧に溶けたまま姿を消した。
逃げる気ではないはずだ。かといって、このままカナリヤが疲れて落ちてくるのを待つとも思えない。天幕の外では3人の騎士たちが、こっちに向かっている。外の霧の中ならともかく、篝火のど真ん中にいるこの状況で4対1になればローエングリンに勝ち目はない(と思いたい)。彼女は何としてでも、今ここでカナリヤを始末したいはず。
俺はすがるように、頭上のカナリヤをちらりと見上げた。正直に言うと、その変わり果てた姿を俺はまだ直視できなかった。この世界に来て色々と変なものは見てきたが、ユージーンの体みたいに「最初からそこにあった」わけじゃなく、まるで別種のものに変わってしまうってのは――何というか、生理的に受け入れがたい。
そんな、俺の内心の恐怖を見透かしたわけじゃなかろうが。カナリヤの縦に割れた瞳が、不意にぎゅんっと動いて俺を見た。
「逃げで」
カナリヤの発したくぐもった声の意味が、俺はとっさに理解できなかった。この有利な状況で発する言葉には思えなかったからだ。だが、続いて周囲から響いてきた音で、俺も状況の変化に気づいた。
カカコン、カカコン、とキツツキが木をえぐるような音。四方から時計回りに、徐々に大きくなりながら耳に響いてくる。見回すと、天幕を支える4本の鉄の支柱が、見えない何かに叩かれてどんどん折れ曲がりつつあった。
ローエングリンはカナリヤの優位を消すために、天幕そのものをなぎ倒すつもりなのだ。カナリヤは彼女の姿を追って頭上から剣を振るが、その瞬間すでにローエングリンは次の支柱に剣を打ち込んでいる。やはり、地上ではローエングリンの方が早い。
バキン! と音がして、支柱が一本へし折れた。細いとはいえ、金属製の支柱がだ。天幕の布が大きく揺らぎ、入り口の穴がふにゃりとたわんで潰れる。最初はちょっと優位に立つためにこんな手間をかけるのかと思ったが、あとほんの数秒で天幕は崩れるだろう。
とっさに、判断する暇もなかった。自分でするべきことを探すなどできるはずもなく。
俺は、与えられた選択肢を受け取って、実行した――すなわち、逃げた。