番外編:霧の中を征く 後編
ローエングリンは歩きながら、体を通り過ぎてゆく霧を感じた。
霧の冷たさは救いだった。それは彼女と同じものだった。死にゆく者たちに、憎むでも見下すでもなく、ただ冷たく寄り添うもの。人でもエルフでもなく、彼女はただはかない自然現象にしかシンパシィと愛情を感じられなかったのだった。
手当もせぬまま何時間も歩くうち、身体中の傷は熱を持ち、徐々に膿み始めていた。死が近づけば近づくほどに、彼女の心は満ち足りていた。重い足取りはやがて軽く、体は踊り出すようだった。
(死んだら、この霧に溶けよう)
――そうしたら、私にもやっと属するものができる。
はたから見れば悲しいその発想が、ローエングリンには生まれて初めての、明るく希望あることに思えた。熱に浮かされた心で、彼女はそのまっすぐな望みに身を委ねた。
この体を捨てて。この心を捨てて。早く、そこへ行きたい。
それは自暴自棄な破滅願望とは違うものだった。彼女の振るう剣のように、鋭く、強く、研ぎ澄まされてつらぬく願いだった。
だんだんと、足の感覚が失せていった。歩いているという気持ちがなくなり、ただ地上を滑っているようになった。そのうち、冷たさも感じなくなった。霧の温度が、体の温度と等しくなったのだ。
最後に、彼女は自分を失った。騎士であることも、エルフであることも忘れた。自分と世界との境界は曖昧になり、彼女は――「彼女」という存在は薄れて消えていた。
(…………)
長い静寂があった。
それとも、わずかな一瞬だったのか。かつてローエングリンだったものは、考えることを捨てていた。彼女の望みは、霧そのものに溶けることだった。そして、彼女は無意識のうちにそれを叶えたのだ。
霧は何も望まない。霧は何も考えない。ローエングリンはもういない。
失われていく自我の中には、冷たい幸福感が満ちていた。そうして望みのまま身を委ねていれば、彼女はこのまま本物の霧になって消えていけたのだろう。
「誰か……」
声が聞こえた。かすかに残ったローエングリンの意識は、霧の中でぼんやりとそれを聞いた。それは、子供の声だった。森に満ちる霧を伝わる、か細い、哀れな声。
「誰か……」
霧に溶けたまま、誘われるようにローエングリンはその子供に近寄った。
何も思わず、何も願わぬ霧。だが、森をさまよう子供の声は、霧の中に溶けつつあった彼女の心をかりっと引っかいて、現世にとどめた。
「誰か……いないの……ママ?」
その子供は森の中を、裸足で歩いていた。人間の少年――手ぶらで、衣服は泥だらけだが仕立ては悪くない。浮浪児ではなかろう。
いや、そもそもこんな場所に迷いこむ浮浪児などいるはずがないのだ。子供が何者か、ローエングリンは知っていた。彼はたった一人の生き残りなのだ。反乱を起こした街の残りかす。エルフだった頃の彼女が、殺すはずだった子供。あるいは親に殺されるはずだったところを、逃げおおせた子供なのか。
「誰か……」
そう口にしながら、少年は誰にも何も期待してはいないようだった。瞳はすでに死んでいた。母親を呼びながらも、母親がもうこの世界にいないことに気づかぬほど幼くはなかった。
今にも霧に溶けそうなほどに、透明で無為な命。一瞬前のローエングリンと同じ。
「…………」
やがて少年の声は途切れ、足取りは重く、固くなっていった。
その姿を見るうちに、消えかけていたローエングリンの自我は徐々に形を取り戻していた。何も感じないはずの心は、うっすらと何かを感じていた。暖かくもなく、冷たくもないもの。
「……だれ、か」
絞り出すような声が、最後に一つ聞かれた。少年はついに力尽き、ふらりとよろめく。
その瞬間――彼を包んでいた霧がふっと人の形をとっていた。
「誰もいないよ」
どこからともなく現れた裸のエルフは、しゃがれた声でそう言った。
少年はまだ夢を見ているようにふらついていたが、やがて目の前の影が本物のエルフだとわかると、徐々に目を見開いて、怯えた呻き声を出しはじめた。
「う……あ……え、エル……フ」
湿った土の上に尻餅をつき、後じさっていく少年。
一方のローエングリンはまだ、自分がしばらく霧に溶けていたこと、つまり魔術を見出したのだということを飲み込もうとして、じっと自分の手のひらを見ていた。
(……何も変わらない? いや、変わったのか……)
それは奇妙な感覚だった。魔術を得て、霧と同化した瞬間に感じた多幸感は、実体化した瞬間に消え失せていた。まるで全て一瞬の夢だったかのように。だが、ただのまやかしだと思うには、霧の冷たい感覚がまだ生々しく残っていた。
「来るな! 来るなぁ……っ」
ぼんやりと悩むローエングリンをよそに、少年は恐慌状態に陥って、近くの木に背をぴったりと付けて、腕をがむしゃらに振り始めた。その必死な様子は、哀れで滑稽で、それでいてまだ、生あるものの熱を感じさせた。生きようとする力を。
「……まだ元気じゃないか。いたちみたいにはしゃいで」
からかうように言うと、ローエングリンは少年に近づいて、その顔を見た。少年の目は、ローエングリンを力強く見返した。
霧の中をさまよっている時には、自分と似ていると感じた瞳。だが、今はもう違っていた。その目は生きていて、目の前のエルフを強く憎んでいた。
「……お前らが……みんな、殺した……」
少年の言葉を、ローエングリンはじっと受け止めた。否定も反論もない。少年のいう「みんな」がどれであったにせよ、おそらくは彼女と仲間が殺したうちに含まれていたのだろう。
「……そうだよ。私がみんな殺した。お前の家族も。お前の友達も。お前の親も。誰も彼も殺してしまった……ここには誰もいない」
彼女がそう言うと、少年はうう、と唸って頭を抱え込んだ。誰もいない世界は、ローエングリンにとって福音だった。彼にとっては、そうではないようだった。全てを失った子供は、憎しみにすがろうとしていた。他の人間たちがしたのと同じように。
その姿を見てもなお、彼女の胸に罪悪感はなかった。ただ、何か責任のようなものを感じてはいた。この霧の中を生き延びた者同士として、彼をここに見捨てていく気にはなれなかった。その思いは楔のように、彼女を幻想的な霧の世界から、地に足のついた現実へと引き戻した。
「一緒に征こう。ここに留まれば、お前はいずれ死ぬ」
ローエングリンの言葉を、少年ははねつけた。
「いやだ……っ! お前が死ねっ! お前が……! うぅう……」
「なら、お前が私を殺しにおいで。……そのために、お前は生きてゆけばいい」
抵抗する子供の体を押さえつけて、ローエングリンは無理矢理に彼を抱え上げた。少年はしばらくもがき、叫んでいたが、やがてぐったりとして、彼女にしがみついて泣いた。体に外傷はなく、ただ心身ともに衰弱しているようだった。
数日後、深い霧を通り抜けて、ローエングリンは国許へ帰還した。拾った少年は身元を隠されて、孤児院へ預けられた。反乱分子の血縁と知れれば、この国で生きていくことはできないからだ。
彼女はその後も騎士として己の生に踏みとどまったが、見出した魔術を失うことはなかった。彼女はいつでも、霧になって逃げることができる。消えていなくなることができる。その事実だけで、彼女はこの閉塞した国で生き続けるに十分な安息を得られた。
だが時折、ローエングリンはエルフの王城から遠くを眺める。ここは自分の場所ではないと。いつか、あの霧の中に還るのだと信じながら。