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魔術狂世界  作者: あば あばば
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番外編:霧の中を征く 前編

 女は森を歩いていた。

 深い霧に包まれて、後ろには誰もおらず、前にも誰もいない。ひとりきり、ただ歩いていく。足下には、土と死体があるばかり。

「……誰か……」

 口から漏れるつぶやきは、何の期待も含まれてはいなかった。ただ、溺れる者が水中で口をぱくぱく開くように、本能が求めるままに言葉を紡いでいるだけ。入ってくるのは水ばかり。入ってくるのは霧ばかり。

「…………」

 女は戦いを終えてここにいた。大きな、小さな戦争があった。市井の民草にとっては大きくも、国にとってはごみくずのように小さな戦い。愚かな、しかし避けられぬ戦い。

(避けられない? 本当に?)

 疑問は常にある。だが、一兵卒である彼女に答えはわからない。わからないふりをしていた。わかってしまったら、もう剣をとることはできない。無知であるからこそ、彼女は強く、心静かであれた。


 彼女は数人の仲間たちとともに、人間の街をひとつ滅ぼした。

 千年王国と呼ばれるこの国において、支配者たるエルフたちに叛逆した罪は重い。かの街では住人の全てが蜂起して、独立を求めて戦った。彼らは一戦たりとも勝利できぬまま、平野で敗れ、街で敗れ、逃れた森の中でまた、敗れ去った。

 相手をしたのは、彼女を含めわずか四人のエルフたちだ。叢雲(むらくも)騎士団と呼ばれる彼女たちは、この国の暗部を雲のように覆い隠すため、今までに何度もこんな命令をこなしてきた。反乱などなかったと。そんな街などなかったとするために。

 身体能力で優れるエルフたちは、数千人を相手に鮮やかな殺戮を繰り広げた。彼女もまた、何の感慨もなく人間たちの頭を切り離し、胴を割りつづけた。

(どうして、こんな無駄なことをする?)

 そう問いたく思うほど、戦いは圧倒的で、無為なものだった。彼らはろくな武器も持ってはいなかった。今までに起きた反乱がしばしばそうであったように、諸外国や魔導師(ウィザード)からの支援を受けているわけでもなかった。勝ち目は最初からなかったのだ。

 人間は、種族としての愚かな誇りのためにそんなことをするのだと言うものもいる。彼女の実感は、もっと原始的なものだった。彼らは、死なないために戦っている。イデオロギーよりも、肉体的な感覚として、今、エルフに飼われる自分たちは死んでいるのだという必死の感覚があるように思われた。

 そんな人間たちを、彼女は見下すでも同情するでもなく、ただ遠巻きに見ていた。ほんの少しの共感はあった。彼女もまた、今の自分に対する違和感と常に戦いながら生きてきたから。



 エルフは男と女、二つの性を併せ持つ。その性質のために、彼女の同族は皆、気性に女性的な部分と男性的な部分を併せ持つ者が多い。性志向においても、同族にくわえて人間の男と女、両方に性欲を抱くのが普通であるとされている。

 しかし彼女……ローエングリンの場合は、他の同族と比べて少し変わっていた。彼女は幼少期から、自分の体に違和を感じていた。

 齢三十を迎え、成人した朝に、彼女は自分の男性器を切除した。それはエルフとしてではなく、自分自身として生きるための儀式であった。「父」である老エルフはその行為に激怒したが、彼女は父を恐れなかった。彼女はあらゆる戦いにおいて一片も恐れを抱くことはなく、それは自分に対しても、家族に対しても同様であった。

 ただ一点、彼女は肉親への義理として、その体のことを秘密とすることを父に約束した。もとより、他人に知らしめるためにやったことではない。自分が何者であるか、自分だけが知っていればよかった。


 エルフたちは彼らが国内で「庇護」する人間たちの中から、気に入ったものを男女問わずいつでも娶り、何人でも配偶者として迎え入れることを許されている。相手の人間の意志は問題とされない。その代わり、エルフは家長として彼らを死ぬまで養わなければならない。

 エルフと人間の間で生まれる子供は多くが人間であり、エルフの子はまれだ。母体がどちらであってもその割合は変わらない。子供たちは、生まれた瞬間から種族によって区別される。たとえ自分の生んだ子であっても、人間の子供はエルフの家族にはなれない。人間の妻、あるいは夫につらなる「血縁者」として扱われ、ともに過ごすことはない。

 エルフとエルフが子を成すこともあるが、人間との関係に比べて割合は少ない。つまるところ、エルフ同士であればお互いの同意が必要だが、人間相手であれば片方だけで済むということだ。


 ローエングリンもまた、人間との間に生まれた「ハーフエルフ」であった。見た目にも能力にも、純血との間に大きな差異はない。だが、社会的立場には歴然とした差がある。十人の王子たちをはじめ、純血のエルフたちはほとんどが支配階級にあり、ハーフエルフたちは兵士や騎士など、泥と血をかぶる職につくことが多い。

 そうしてエルフたちはハーフを見下し、ハーフたちは人間を見下す。何百年も続けられてきたその構造の中で、誰をも見下す気持ちを持たないローエングリンは、いつも孤独だった。

「お前は優しすぎるよ」

 人間の母親は、かつて彼女にそう言った。別の家で育てられながらも、すばしこい子供だったローエングリンは父親の目をかいくぐって家を抜け出し、彼女に会いに行っていた。

「お父さんはお前を騎士にしたいみたいだけどね。きっと、お前は花や草なんかを育てる仕事が向いているよ」

 母親の言葉とは裏腹に、ローエングリンは幼い頃から戦士としての才能を見出された。成人して間もなく、王から直々に騎士として取り立てられた。彼女は千年王国の領内で何人もの魔術師を殺し、人間を殺した。彼女は生まれながらの、優秀な殺人者であった。


 人を殺すたびに、彼女は、自分の中で何かがずれてゆくのを感じた。

 エルフでなく、女であることを選んだ自分。だが、人殺しでなく庭師を選ぶことはできなかった。それは、許されることではなかった。父に逆らうことはできても、王に逆らうことはできなかった。それは恐れというよりも、闘争者としての冷たい本能だ。そうする強さも、覚悟も自分にはまだない。そこまでして、庭師になりたいわけでもない。

 わかっていたのはただ、自分が、自分でなくなっていくこと。自分であろうとする力が、徐々に萎えて消えていく。意思もなく、ただ振られるままに肉を切る、剣と同じものになっていく。心ない、ただの道具に。



 霧の中を歩きながら、ローエングリンは薄い笑みを浮かべていた。

「…………」

 数時間歩いて、彼女は悟っていた。ここには誰もいない。生きたものはいない。自分以外の全てが死に絶え、ただ真っ白な霧だけがある世界。それは、奇妙な解放感だった。

(私は……)

 ここにいる間、誰も彼女に命令をしない。他者のいない世界では、自分の名前さえおぼろになる。もはや誰も、名を呼ぶものはいないのだから。

(私は、誰でもない……)

 足音は霧に吸い込まれ、霧は肺に入って彼女と同化していく。皮膚全体に走る切り傷が、暑さも冷たさも感じなくしていく。自他の境界さえ曖昧な世界で、彼女は生と死の間をさまよっていた。


 叢雲騎士団に属する四人のエルフたちは、この森で完全な勝利を収めたはずだった。

 だが、反乱者の最後の一団を追って、ある洞窟に足を踏み入れた瞬間――彼女らは自分たちの過ちに気づいた。いや、気づくことができたのは、とっさに後ろへ退いたローエングリンだけ。他の三人は、自分たちが「はめられた」ことを知ることさえなく死んだ。

 エルフたちを切り刻んだのは、彼らの反射神経をもってしても捉え切れないほどの高速で動く、小さな羽虫のようなものだった。体を引き裂かれながらもどうにか叩き落として正体を見ると、それは虫ではなく、木と石でできた何らかの呪具であるらしかった。

 魔術師たちの中には、直接俗世には関わらないものの、こんな風に異質な力を持つ道具や物質・生物などを創り出して、人間に与えることを好む連中がいるのだ。騎士として多少なり魔術の知識を学んできたローエングリンは、その呪具にも見覚えがあった。復讐者の母(アイ・フォー・アイズ)、マへトリヒヤと呼ばれる魔女が作る、命と引き換えに発動させる復讐の呪いだ。

 洞窟の中には、ナイフで首を裂かれて死んだ子供たちがいた。手を下した母親たちも、自ら喉を突いて死んでいた。つまるところ人間たちは森に逃げ込んだ時点から、すでに勝つ気はなかったのだ。降伏という選択肢も捨て、ただエルフたちに最後の一矢を報いるために、自分たちの命をその呪具の生贄とした。

 その光景を見た時、ローエングリンは全身の力が抜けていくのを感じた。無為な戦いの中で、無慈悲に女子供を殺戮してきた彼女が、今さら哀れを感じるわけもない。だが、彼女が幼少の頃からうっすら感じていた、人間へのかすかな共感は、この瞬間に断ち切られた。

 彼女にはただ、わからなかったのだ。自分や子供の命と引き換えにしてまで、誰かを殺す理由が。結果を確かめることもできない。誰かの命が助かるわけでもない。ただ、残った命を減らすためだけの行為。

 それは闘争でさえない、何かもっと暗く、熱く、淀んだものだ。だが、むしろそれこそが戦争の本質であり、彼女のようにただ冷たく無感情でいられる存在こそが、異物なのかもしれなかった。


 ローエングリンは洞窟から出て、周囲に築かれたおびただしい数の死体を眺めた。エルフが死に、人間が死に、どちらにも溶け込めず、なぜ戦うのかさえはっきりと理由を持たないローエングリンだけが、こうして無為に生き延びている。

 やがて、周囲に霧が立ち込めた。死体を覆い隠していく霧に、彼女は安堵を感じた。そして行くあてもなく、ふらりと森へ歩き出した。このまま王都へ帰るか、あるいはどこかで休息をとるか。そのどちらも、嫌悪を催した。

 こうして行き場もなくさまようことこそが、自分の居場所なのかもしれないと感じた。永遠に誰にも与せず、どこにも属せず、ただ湖上にたゆたう霧のように、全てに対して無力であり、全てに対して無関係な存在であれたらば。

(そうしたら、私は誰も殺さずにいられる)

 そう、頭の中で言葉にして。彼女は初めて、自分が人殺しをしたくないのだと気がついた。

 だが彼女の心とは無関係に、彼女の頭と体は人殺しのものだった。強靭な指も、冷静な判断力も、そして言われれば言われるままにしてしまう意志の弱さも。自分が自分である限り、彼女は血と戦場から逃れられない。

 霧の中を逃げるように歩きながらも、彼女の手は血に染む銀色の剣を握り、かつて母親から贈られた上下の鎧も、決して脱ぎ捨てようとはしなかった。それらの戦道具はすでに体の一部のようにひたりと肌に張り付いていた。

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