第四十話:夜霧にひそむ その3
霧に視線を戻すと――遠くで、コォンと音がした。
それは戦いの音にしては地味な、くぐもった音だった。思わず聞き流しそうになったほどだ。だが、白の騎士二人の反応でその深刻さがわかった。ヴィバリーとウィーゼルはそれぞれの武器をちゃりんと鍔鳴りさせて身構え、緊張した面持ちで霧を睨む。
音は一度。武器で打ち合った音なのか、鎧を打った音なのか。いずれせよ、戦いが一瞬起きて……静かになった。こっちが勝ったんなら、黙ってる理由はない。つまり、ローエングリンが勝ったと考えるのが自然だ。
俺はごくりと唾を飲み込む。音がしたのは、右か? 左か? 右にはカナリヤがいる。左にはユージーンがいる。どちらかが死んだのかもしれない。現実感がなくて、まだ悲しみも恐怖もない。ただ、はっきりと不快感が胸に広がる。死の匂い――最近、そんなものがわかるようになってきた気がする。鼻じゃなく、胸から広がる苦い感覚。
「……カナリヤ」
短く、ウィーゼルが口にした。音がしたのは右だったのだ。俺は背中がぶるっと震えた。
――死んだのか。ついさっきまで話してた女の子が。まだ、あの子のことを何も知らないまま。ほとんど音もなく、こんなにあっさりと。俺もすでに二人、人間を殺してきたわけではあるが。殺される側に立つのは、当たり前だがまるで違う感覚だった。俺は頼りない両手で剣の柄を握りしめて、抱きかかえるように胸の前に寄せた。顔の近くで刃の冷たさを感じると、少しは冷静になれそうだったから。
この事態はつまり、奇襲が失敗したということだ。だが、白の二人はまだ動かない。それとも、動けないのか? 俺は寝てたせいで、あいつらがどういう策を立ててたのかろくに聞いていない。
「行ってくる」
ふと、こちらを振り返ってヴィバリーが言った。次の瞬間、白の騎士は二人ともその場から消え失せていた。霧の中に入ったのだ。
俺はすり足で少し前に出て、天幕の外をうかがった。
暗闇の中、霧が風に揺れていた。いや、この風はただの風じゃない。振り切られる剣の起こす風だ。ぶつかり合う金属の音、小さい火花、それからぴしゃっと水音。つまり、血の音だ。
誰が誰を切ってるのか、俺には何も見えないし届かない。無力ってだけじゃなく、何が起きてるかも理解できないってのは、今までの戦いよりもよほど嫌な気分にさせられた。見えないところで、ヴィバリーやユージーンが死んでるかもしれないなんてのは。
斬り合いは天幕からずっと右のほうで起きていたが、そのうち急に、間近でがさっと音がした。思わず剣を振り上げて、身構える俺。
だが、霧から飛び出してきたのはローエングリンではなかった。もしあいつだったら、この瞬間とっくに死んでただろう。
「……か、カナリヤ!?」
死人でも見たような声を上げる俺に、身をかがめた緑髪の少女はちらりと視線を送って人差し指を立てる。
「……静かに。得物、取りにきただけ」
そう言って、カナリヤは小走りにテントの中に駆け込んだ。向かう先は、ガートルードの枕元。
「借りるね、ジェム。持ち主によろしく」
無反応のジェミノクイスにぼそりとそう告げてから、カナリヤは床に置かれたガートルードの無骨な曲剣を持ち上げた。彼女は明らかに体に不釣り合いなその長大な剣を、重そうに引きずって天幕の外へと向かう。
「使うのか、それ……?」
思わず尋ねる俺に、カナリヤは腰に下げていた金属の物体を床に放り投げ、アゴで示した。
「そ。ま、仕方なく」
カナリヤが放り投げたのは、彼女が使っていた回転ノコギリチャクラムヨーヨー手裏剣――の成れの果てだった。ほぼ真っ二つに叩き割られ、ひしゃげて歪んだその無残な姿は、見るだけで顔を背けたくなるような圧倒的な暴力を感じさせた。これが人間だったらと思うと……急所を刺されるだけで済んだ俺やアンナはまだラッキーだったのかもしれない。
「それじゃ」
短く言って、天幕を出ていくカナリヤ。一瞬、呼び止めたい衝動に駆られる俺。霧の中に消えて、このまま戻ってこないのではないか。そう思ったら、急に恐ろしくなったのだ。
だが――声は出なかった。出せなかった。
カナリヤの背中の向こうには、霧から一歩進み出て、篝火の間にゆらりと立つ騎士がいた。