第三十九話:夜霧にひそむ その2
俺はしばらく、暗闇に満ちる霧をはらはらしながら眺めた。俺の位置から見える騎士の姿は、ウィーゼルとヴィバリーの背中だけ。カナリヤとユージーンは左右に分かれていったので、俺からは死角に入っているはずだ。そもそも身を隠してるだろうから、視界にいても気づかなかったかもしれないが。
長い間、音も動きもなかった。申し訳程度に握った剣の柄が、じっとり汗ばんでいた。それとも、湿気だったのかもしれない。霧が立ち込めているせいか、空気がじめってたのは確かだ。
「……おそばに……私の月……その指……血管の、ひと筋……ここに、青く……ここに、赤く……」
後ろから、ぶつぶつと喋るジェミノクイスの声が聞こえた。
最初に会った時から常にイカれた感じだったが、ガートルードが死んでからはさらにひどい。目はかっと見開かれ、唇は震えている。血のように赤い髪がガートルードの体を包む布の上に垂れて、ホラー映画の一場面みたいにおどろおどろしい空気を醸し出している。
「トーゴ殿、でしたね?」
剣を構えつつちらちら様子を見ていると、突然、ジェミノクイスがこちらをじろりと見返した。思わずびくっとする俺。今の立場的には一応俺が彼女を守る側のはずだが、その目つきを見てると今にもこっちが殺されるような気分になる。
「ああ……うん、まあ……」
目をそらしつつうなづくと、ジェミノクイスは意外にもしっかりした仕草で、俺に向かって丁寧に頭を下げた。
「私とガートルード様をお守りいただけるとのお申し出、感謝いたします。偏愛術師とも称されるこの私ジェミノクイス、その御心に敬服いたしました。あなたの気高く尊きご決断は、きっと一編の詩となって語り継がれましょう」
「いや……それはないだろ……」
冷静に否定する俺。おだてるにしても現実味がなさすぎる。「トーゴは剣を握ってぼんやり立っていた」の一行で終わるような詩を誰が語り継ぐというのか。それとも俺の派手な死に様をねちっこく歌い上げるのか?
あきれた顔の俺を見て、ジェミノクイスはうっすらと微笑んだ。
「……私を守ってくださるということは。ひいてはガートルード様を守ること。この方のいない世界は、暗く寂しくなりましょう。この方のいない夜は……歌のない、笑いのない、熱のない夜……」
再び自分の世界に入り込んで、ぼうっとつぶやくジェミノクイス。その瞳は、ガートルードの死体をじっと見つめていた。熱く、優しく、愛おしげに。
――この女は狂ってる。狂ってるけど、確かにガートルードを、彼女なりのやり方で愛しているらしい。布に包まれた肉塊でしかなくなっても、彼女にだけは、美しかったガートルードの姿が、全身まるごと再現できるほど鮮明に見えているわけなのだし。俺は、そんな風にまで誰かを好きになったことなんてない。
「だから……あなたが私を守るということは、私の世界のすべてを守ることなのです。この暗い世界の、小さな光……空の月……私の……夢を」
ジェミノクイスはそこでふっと言葉を切って、もう一度、俺を見た。
「よろしくお願いいたします。私は、術に戻りますゆえ」
それきり、ジェミノクイスはまたガートルードと二人の世界に戻っていって、俺に話しかけることはなかった。