第三十六話:幻影城主 その2
灰色の石。灰色の絨毯。幻影の城は、どこもかしこもくすんだ色をしていた。
まるで、遠い昔に捨て去られた廃墟のように。捨て去られた、忘れられた夢。俺の目がこんな風に見せているのだとしたら、俺の内面はこんなに荒廃しているんだろうか。コララディも、俺には「何もない」なんて言ってたが。
城の中には人影もなかった。あるいは、俺には見えないだけなのかもしれない。柱の陰に、垂れ幕の後ろに、曲がり角の向こうに、なんとなく、ふっと人の気配を感じるのだが。近づいて行くと、何もない。俺は怖さよりも、寂しさを感じ始めていた。
玉座に至るまでの道は、わかりやすい一本道だった。ゲームでよく見る城と同じ。城門の先は、大きな広間があって。あとはまっすぐ大きい扉を通っていけば、自然と玉座にたどり着く。
最後の大きな扉の前には、二体の錆びた甲冑が、護衛のように置かれていた。近づけば動き出すかと思ったが、やはりただの飾りだった。手に握られた長い斧槍は、片方は折れて、片方はひしゃげていた。
悲しい、暗い風景ばかりのこの城に、どんな城主が待ち構えているのか。覚悟をしつつ扉に近づくと、奥からひそひそと声がした。
「…………私は、ただ……御身の安全を、と」
その声を聞いて、俺はひたりと足を止めた。聞き覚えのある声。いや、忘れるはずもない。その特徴的なハスキーボイス。
「……そう。ここはしょせん、夢……肉体が傷付くことはない」
湖上の霧、ローエングリンだ。刺された傷の記憶のせいか、腹がむずむずする。
どうして、あいつがここにいる? あいつも、夢を見てるってことか? 俺たちを霧で囲んでずっと見張ってるのかと思ったら、ちゃっかり睡眠取ってやがったのか。
「しかし、夢なればこそ……心は容易く傷つくもの」
相変わらずの持って回った言い方で。ローエングリンは、誰かと話しているようだった。だが、相手の声はぼそぼそと小さくてよく聞こえない。
俺は扉に手をかけて、音を立てないようにそっと押し開けた。ほんの数センチ。覗き込むには小さいが、声をはっきり聞くには十分な隙間。
「……ここでは、私は貴女を守れない。そばに立っていることしかできない。あなたが傷つくところを、見たくはないのです」
その言葉を聞いた時点で。本当は予想して然るべきだったのだ。
いや、もっとずっと前からか。夢を見るのも珍しい俺が、このタイミングで、こんな夢を見ていること自体が、最初から不自然だった。でも俺は、その声を聞く瞬間まで、全く思いもよらなかったのだ――今、この先にいる「幻影城の主」が、誰なのか。
「もう遅いよ、ローエングリン。兄貴、もうそこにいるから」
全身の毛が逆立った。俺は反射的に背を向けて、扉を離れようとした。ここにいちゃいけない。はやく逃げろ。逃げるしかない。他に、俺にはどうしようもない。
「……また、逃げるの? やっぱり、どうしようもないね。兄貴は……」
嘲笑。思わず、足が止まる。俺が、逃げた? いつ? ……いつも?
次の瞬間、俺の体は見えない腕に体をつかまれて、ぐいっと部屋の中に放り込まれた。扉がバタンと大きな音を立てて閉じ、玉座の間に閉じ込められていた。そう、この夢では、俺以外の人間は物事を思い通りに動かせる。逃げることなど、できはしないのだ。
「お、おれ……おれが……おれは……」
しどろもどろに、言葉を探しながら、俺はじっと石床を見た。顔を上げるのが怖かった。顔を上げずにいたかった。だが、カツカツと鉄の足音が近づき、ローエングリンの無遠慮な手が俺のアゴを引っ張り起こした。
冬子は、玉座に座っていた。
「……久しぶり、兄貴」
変わらぬ声で。変わらぬ、セーラー服を着て。ぼさぼさの黒い髪。眠そうな目。昔と同じ姿――いや。
嘘だ。こんな堂々とした冬子なんか、俺は見たことはない。怯えて、閉じこもっていた頃とも違う。子どもの頃の無邪気な目とも違う。まっすぐで、攻撃的な瞳。何を考えているのかわからないのは、同じかもしれない。でも、それは閉じているからじゃない。イクシビエドと同じ、深遠で、理解不能な瞳だ。
こいつは、何だ? こいつは、誰だ?
パニックになりながらも、気絶することもできない俺に、冬子は笑いかけた。
「幽霊に会うのは怖いよね。でも、大丈夫……幽霊じゃないよ。私は私。昭島、冬子。兄貴に殺されちゃった女の子」
俺はローエングリンに顔をがっちり固定され、目を逸らすこともできないまま、冬子の言葉に向き合った。
心の奥底で、もしかして死んだ時に記憶が消えているかもなんて、甘いことを想像して――いや、願っていたが。やはり、そんな都合のいいことはなかった。冬子は、あの時の、俺が背中を刺した冬子だった。
「痛かったなー。あれ、肺まで届いてたのかな? いきなり、息できなくなっちゃって。どろどろしたのが出てきてさ。嫌な感じだったな、あれは。うん……」
玉座に腰掛けたまま、座面の上であぐらをかいて。ぼんやりした声で、生々しいことを話す。その浮世離れした態度は、確かに俺が妹として見てきた冬子の面影があった。だがやはり、同じではない。
「兄貴はさ、誰かに刺されたことある? あ、ローエングリンが刺してくれたんだっけ。ありがと、グリン。ふふっ」
そんな風に、親しげに誰かを呼んで。笑いかけさえする。実の母親相手にも、ろくに笑わなくなっていたのに。今、表情は生き生きして、目も輝いている。
「あ、ローエングリンのこと、紹介した方がいい? 私の騎士様なんだ。カッコいいでしょ。あとすっごい強いの。まだ、生で会ったことないんだけどね……」
にこにこと笑って、無邪気に話す冬子。だが、ローエングリンがそれを遮る。
「フユコ様。この男に、余計な情報をお与えになりませんよう」
「別に、大丈夫だよ。この世界で、兄貴にできることなんて何もないんだから」
その言葉の通り、俺はただ呆然と、何も言えず、何もできずに冬子と向き合っていた。