第三十話:湖上の霧、ローエングリン その3
それから、1時間ほど過ぎただろうか。さっきの作戦会議の通り、俺たち冬寂騎士団の三人は天幕の奥でぼんやりと座り込み、慌ただしく動く月光騎士団を眺めていた。
「……その時、ガートルード様は剣を一閃! 不逞の者たちの首を九つまとめて切り落としたのです。ああ、あの剣さばき。身のこなし。月光に溶ける銀の髪。美しい瞳。美しいお鼻立ち。美しい唇。美しい腰のくびれ。美しい足首。美しい手のひら、美しい血管……そのお身体もお心も、全てが完全にして欠くものなし。まるで妖精世界の物語から抜け出したような、麗しの英雄そのもの……」
同じく待機を命じられたジェミノクイスは、俺たちの隣で延々と「月光の君・ガートルード様のご活躍」物語を聞かせていた。誰も頼んでいないどころか、聞いているそぶりさえ見せてもいないのだが。
「……はぁ」
最初は俺も、この世界を知るのに役立つかと思って耳を傾けていたものの、あまりにもジェミノクイスの主観が強過ぎて参考にならないことに気づき、まともに相槌を打つのをやめてしまった。
「ガートルード様が……ガートルード様の……ガートルード様で……ああ……」
彼女の話を要約すると、「ガートルードは強い」「ガートルードは美しい」「ガートルード最高」ということだった。エルフ千年王国の様子どころか、彼女とガートルードの馴れ初めさえわからない。どうやら、彼女はガートルードのファン?追っかけ?に近い存在だということはかろうじてわかったが――魔術師は話が通じない、というのを改めて実感させられる俺だった。
一方、外では着々と準備を進める月光騎士団の三人がせわしなく歩き回っていた。なんとなく、仕事をサボってるようで不安になる俺。
「……俺たち、本当に見てるだけでいいのか?」
小声でささやく俺に、ヴィバリーは考えありげにうなづいた。
「今はそれでいいわ。彼らが何をするか、よく見ていなさい。噂に聞く限り、月光騎士団は千年王国でも五指に入る騎士団よ。彼らが派遣されてきたということは、敵はサヴラダルナ級か……あるいは魔導師にまで匹敵する相手だということ。ちょっとした見ものよ。あなたも一応騎士なんだから、勉強しておきなさい」
「そんな大物なのか……」
霧になれるなんて、地味な能力のような気がするが……実際、アンナはそれでやられたわけだから、確かに恐ろしい能力なのだろう。
と、話している俺たちに、後ろから突然ジェミノクイスが割り込んできた。
「五指だなんて! まあまあ、外にはそんなふうに伝わっているの? ガートルード様の月光騎士団は、千年王国の至宝、並ぶものなく君臨する最強の騎士団なのですよ。広大なる壺中においてさえ、無敵にして絶対なる頂点……」
またわけのわからないことを言い出した。
「……なんだよ、コチュウって」
ジェミノクイスの造語かと思ったが、ヴィバリーがその意味を知っていた。
「この『世界』そのものを指す言葉よ。私にはよく理解できないけど、魔術師たちはよく使うわね。空間術師たちが調べたところによると、この世界は巨大な壺の形をしているとか……」
ヴィバリーは興味なさげに言ったが――俺には何か、胸がざわつく話だった。
壺の中の世界。ここは本当に、俺の知ってる地球じゃないんだ。それどころか、同じ宇宙でもない。口じゃ「異世界」なんて気軽に言えるが、改めて自分がどうなったか考えると気色が悪い。極端な話、俺が吸ってるのは酸素じゃないかもしれない。俺の体だって、もう細胞とか分子とかじゃないのかもしれない。足元がぐらつくような、漠然とした不安感――
微妙な表情をしている俺に気づいてか、ヴィバリーはふっと笑い飛ばすように息を吐いた。
「まあ、地べたを這いずる私たちには関係ない話よ」
確かに、その通りかもしれない。空の向こうがどうなってるにせよ、俺の目に見える世界は大して変わらない。太陽が昇って降りて、風が吹いてて、人間は毎日あくせく仕事して、飯を食って生きている。
「……そうだな」
少し気が楽になって、ぼんやりと天幕の外を眺める。ふと、隣のユージーンを見ると、彼女もなにやらじっと外を見ていた。
「ユージーン、あなたも彼らの戦いを見ておいて。アンナがいない以上、頼れるのは……ユージーン?」
ヴィバリーが話しかけても、反応が薄い。もしかして何か、感じ取っているのか。ヴィバリーと二人でじっと様子を見ていると、そのうちビクンと体を揺らして、こちらを横目でちらりと見ながら、言った。
「……水の匂い」
水――霧の匂いか。思わず、体に緊張が走る。天幕の外でも、3人の騎士があくせく動くのをやめていた。布の向こうの影を見るに、それぞれが天幕を囲むように立っているようだ。
来る。
ごくりと息を飲み、天幕の出入り口から外を見つめる。その方向には、ガートルードがこちらに背を向けて立っていた。得物の大曲剣をかついで、不敵に仁王立ちだ。
徐々に、外の視界が白く染まり始めた。深い霧。アンナの時と同じだ。しかし、これが全部敵の体が変化したものだと思うと、ぞっとする。
「敵の腹の中にいるようなものね」
ヴィバリーが、俺の心を読んだようにつぶやく。その間にもどんどんと霧は濃くなり、天幕から数メートル離れた先はもはや見通せない。焚かれた篝火はどうやら確かに効いているようで、天幕の内側には全く霧が入ってきていないのは気持ち的にありがたい。
「ユージーン、お前なら霧の先まで見えたりするのか?」
ユージーンは敵の接近にピリピリしているようだったが、徐々に慣れてはきたのか、さっきよりは落ち着いた様子で答える。
「……見えない。でも、何が起きてるかは……音とか、気配でわかる」
気配か……バトル漫画やなんかだと、登場人物が当然のように人の気配を察知してたりするが、戦いに慣れると本当にわかってきたりするんだろうか。今のところ、俺は背後に立たれても全然気づかないレベルだが。
「一人。歩いてくる」
ユージーンが、ぼそっと言った。
「……歩いて?」
ヴィバリーが怪訝な声を出す。確かに、すでに霧の状態で俺たちを囲んでいるのに、あえて人の姿をとって歩いてくるのは変に思える。だが、そのうち俺たちの目にも、その騎士の姿が見えてきた。ガートルードの正面から、少しずつ近づいてくる、一つの影。
それは白い霧の中に立つ、一人の騎士の姿だった。ミイラか何かのように、細く長い手足。頭からつま先まで、全身をくすんだ青色の武具で包み、顔も隠し、肌どころか布の一片も見えない。露出狂まがいのガートルードと同じ国から来たとは思えない。
霧の騎士は、音もなく、言葉もなく、幽鬼のように、ゆらり、ゆらりと歩いてくる。右の手には、俺とアンナを刺した銀の剣。その剣を見た瞬間、胸がざわつくのを感じた。自分が刺されたからか、アンナが刺されたからか。どちらにせよ、いい思い出はない。
その姿を正面から見据え、篝火の囲いから一歩外へと踏み出して、ガートルードは口を開いた。
「ローエングリン! 我が旧き友よ。私の顔を見ているか? この抑えられぬ笑みを」
霧の中の騎士は微かな反応も示さず、ただ同じ歩調で近づく。
「この歓喜、貴様にはわかるまいな。稚児の頃から、争いを愉しまぬ質だった……私がどれだけ望んでも、貴様は応えなかった。それが今、こうして大義名分を得て、全力の貴様と殺り合える」
昔の仲間の説得でもするのかと思いきや、バトル漫画のライバルキャラみたいなことを言い出すガートルード。半ば愛の告白みたいにも聞こえるが、きっと純粋に戦いだけの話なのだろう。
「貴様も永年のつまらぬ人生の果てに、ようやく何か愉しみを見つけたそうじゃないか。国も伴侶も捨てて、こんな野ッ原に何を求めて参った?」
ローエングリンは、ガートルードの数歩手前でようやくぴたりと歩みを止めた。
「…………」
ガートルードが口を閉じ、静まり返った霧の中に、仮面の騎士の不気味な息遣いだけが響いた。シューッ、シューッと規則正しく、深い息。
「……語りすぎたか。まあ、いい。私は欲しいものを獲るだけだ。存分に愉しませろ。私の『青』」
ふっと失笑したかと思うと、ガートルードは自分の身を放り出すように、くるりと体を回転させながら敵の眼前へと倒れ込んだ。次の瞬間、俺に見えたのは――噴火のように勢いよく弾け飛ぶ土だった。