第二十八話:湖上の霧、ローエングリン その1
ふらつきながら馬車の近くへ戻ると、青ざめた顔のヴィバリーが俺を待ち構えていた。ヴィバリーは左腕に血のにじむ包帯を巻いていた。傷は小さいようだが、こっちでも戦いがあったらしい。
「アンナは?」
覚悟した顔で問うヴィバリー。俺は余計な心配させないように、早口で答えた。
「敵に腹を刺されたけど、キスティニーに運ばせて、今は治療を受けてるはずだ」
ヴィバリーはその情報をどう受け止めるか考えあぐねているような表情で、ふっと息を吐いた。
「……無事ならいいわ。でも、そう……あなたも流言師を使ったのね」
ヴィバリーは問うような視線を俺に向け、それから目を逸らした。……昨日の夜、ヴィバリーもキスティニーの力を借りたはずだ。彼女も、あいつに何か秘密を話したのだろうか。まあ、今はそれどころじゃないか……。
「一体、何がどうなってるんだ?」
月光騎士団の連中とも一応和解したのだし、今俺たちが攻撃を受ける理由はないはずだ。それとも、この世界にはそこら中に辻斬りが趣味の連中がいるのか?
「湖上の霧、ローエングリン……エルフどもが追ってる『裏切り者』が、私たちのことも敵と見なしたらしい」
ヴィバリーは虚空を睨みつけて言った。そのいかにも騎士らしい名前には、俺も覚えがあった。さっき、ガートルードが口にしていた名前だ。
「つまり、とばっちりってことか?」
「……それはまだ言い切れない」
苛立つ俺を、ヴィバリーは何か思うところがある風に制した。
「いずれにせよ、こいつは私たちを生かして逃すつもりはないらしい。霧を見たら、警戒して。奴は体を霧に変化させる。霧に包まれたら、逃れる術はない。私も手傷を負わされた」
つまり――敵は霧に紛れてきたんじゃなく、「霧そのもの」だったということか。アンナほどの豪傑があれほど無警戒に背中をとられたのもうなづける。
「……さっき、俺も刺されたよ」
血まみれの腹をさすりながら言うと、ヴィバリーは興味深げにじろじろと俺の腹を見た。
「相変わらず、治りが早いのね。アンナが倒れたと言うなら、あなたもきっと的確に急所を刺されたはず……一度、どこまでなら再生できるのか試してみたいものだわ」
物騒なことを、冗談か本気かわからない口調で言うのはやめてほしい。痛みがないってことは、寝てる間に腕一本切り落とされても俺は気付きようがないのだ。
話しているうちに、すぐ近くにユージーンが立っていた。見たところ、無傷らしい。無事だろうとは思っていたが、それでもやはりホッとする。
「……アンナ、大丈夫?」
だが、ユージーンの顔は青ざめていた。時々忘れそうになる。こいつが、まだほんの子供だってことを。
「大丈夫。心配すんなよ。アンナは無事だよ」
子供を落ち着かせようなんて、大人みたいなことを喋ってる自分に少し驚く。俺の方こそ、余裕のなさが売りみたいなガキなのにな。でも、ユージーンはその言葉で安心したらしかった。どうやら、俺も少しは信用されているらしい。
「わかった」
ユージーンは気持ちを切り替えるように深呼吸して、いつもの弓をぎゅっと握りしめて走り去っていった。
俺は――いざという時、自分は何もできない奴だと思ってた。いや、今も思ってる。俺はユージーンの1000分の1も戦えない。でも、少なくとも、怯える子供をちょっと安心させてやれるだけの分別があるって知るのは、なかなか悪くない気分だった。
「……仲良しね」
ビクッとして振り向くと、なんとなく恨めしそうな顔のヴィバリーが立っていた。
「あ、それで……これからどうするんだ?」
なんとなく話題をそらす俺。ヴィバリーはため息をついて、俺が来た方とは反対側に目をやった。
「本意ではないけど、月光騎士団と合流する。アンナを失った以上、私たちだけで仕留めるのは困難だし……そもそもあれは彼女たちの獲物。せいぜい自分たちで狩ってもらいましょう。あなたも、それでいいわね?」
ヴィバリーは急に、誰もいない場所に向かって呼びかけた。と思ったが――よく見ると、そこには人間がいた。昨日今日と、ガートルードたちの後ろに黙って控えてた緑髪の少女だ。気配が薄くて気づかなかった。
彼女は相変わらずフードを目深に被り、冷たい表情で俺たちを見ていた。
「いいわ」
短くそう言って、彼女は顔を背けた。
「では、先導して。行くわよ、ユージーン! トーゴも一応、兜と剣を持って」
「……待って」
ヴィバリーの呼びかけに従って走り出そうとした俺を、フードの少女が呼び止めた。
「軽い食糧も持って。持久戦になる」
「ふうん? トーゴ、そうして」
と、俺に促すヴィバリー。つまり、俺の役目はやっぱり荷物持ちってことか……まあ、戦わなくていいならそれでいいんだが。
荷物を取りに馬車に戻ろうとした時、馬車のそばに何かが転がっているのに気づいた。それは、無口で存在感のなかった御者の死体だった。自分も一歩間違えばそうなっていたと思うと、胸にいやな感覚が広がる。
生きてるうちはそこにいるのもほとんど忘れていたのに、死体になった途端に異様な存在感が出るというのも皮肉なことだ。――こんな冷めたことを思うのも、死体を見るのに慣れてきたせいだろうか。それとも、まだ気が高ぶっているのか。
数分後、荷物を抱えて集合した俺と二人は、フードの少女の先導でガートルードたちの天幕に向かって歩き出した。距離は遠くないはずだが、ローエングリンの再接近を警戒するとのことでゆっくり進むことになった。
「そういえば、名前……なんだっけ?」
歩きながら、俺はさりげなくフードの少女に尋ねた。ほぼ初対面、かつ一度殺されかけた女子に対して、我ながら大胆なムーブだ。女性陣に囲まれるうちに、俺も免疫ができたのかもしれない。見たところ同年代のようだったので、少し気安さがあったせいもあるだろう。
「…………」
……だが、彼女の反応は無だった。視線さえ向けない。完全なシカトだ。別にいいさ。今さら、女子に無視されたぐらいで胸が痛んだりはしない。痛みを感じないのが、俺の唯一の能力だし……
などと一人でしょげていると、先を歩くヴィバリーが助け舟?を出してくれた。
「彼女は、カナリヤよ。月光騎士団の赤騎士。ガートルードに言われて、私たちを呼びに来たんですって」
カナリヤ……言われてみれば、昨日もそんな名前で呼ばれていた気がする。
「こっちの世界でも、鳥の名前なのか? カナリヤ……」
ぼそっと聞いた瞬間、前を歩くヴィバリーとカナリヤから同時にきつい視線が飛んで来た。
「……俺、何かまずいこと言ったか?」
小声で、後ろを歩くユージーンに尋ねる。彼女――彼――いや、面倒だから彼女でいい。彼女は――きょとんとした顔で俺を見返して、肩をすくめた。どうでもいい、というサインだ。それとも、ただ知らない、というサインか。全然わからん。
困惑していると、ヴィバリーが歩く速度を落として俺の隣に並んで来て、小声で囁いた。
「あなたの『出身地』の話は……なるべく他人の前でしないでもらいたいわ」
「そういうの、先に言ってくれよ……」
文句を言う俺に、ヴィバリーは肩をすくめた。この意味はわかる。「知ったことか」だ。
「……お二人さん。聞こえてるよ」
背を向けたまま、カナリヤが言った。耳ざとい。
「盗み聞きは感心しないわね」
「あなたたちの声が大きいからよ」
反抗的な少女の態度に、ヴィバリーは眉をひそめつつも何も言わなかった。
少し歩いたところで、不意にカナリヤがこちらをちらりと振り向いて、フードの下からじろりと俺を睨みつけた。その瞳は、不思議なオレンジ色をしていた。エルフたちの琥珀の瞳と似ているが、もっと奇妙な――複雑なヒビのような模様が入っている。奇妙だが……魅力的な色だった。
「カナリヤはどこの大陸でも鳥の名前。私は、この名前は好き。でも、エルフどもが私に獣の名前を付けたことは好きじゃない。だから、鳥の話はしないで」
ぼうっとする俺に向かって、カナリヤは淡々と言って、またフイと前を向いた。……無口な子かと思ったが、意外にそうでもないらしい。
ガートルードたちの天幕の周囲には、いくつものかがり火が囲むように焚かれていた。そして、その中心には――例によって、偉そうにふんぞり返るガートルードの姿があった。
「さて……揃ったな。では、血の宴を始めようか」
ノリノリのガートルードに対し、俺とヴィバリーは苦い顔をし、カナリヤは無言で見下し、ウィーゼルは聞こえよがしに舌打ちして地面にぺっと唾を吐いた。
……俺は先行きに一抹の不安を感じずにはいられなかった。