第二十話:魔術師なるもの その1
「……兄貴」
浅い眠りの中で。
「兄貴?」
俺は、確かに冬子の声を聞いていた。
「…………」
瞼が重くて開かない。体が重くて動かない。
「……生きてるの?」
俺は返事ができなかった。心も体も疲れきっている。
何もかもが遠くにある。暗闇の中に、俺の意識だけがある。
このまま全てが、俺の手の届かない遠くにあればいい。俺はもう、目を覚ましたくない。目を覚ましたら、俺はまたろくでもないことをする。俺はもう、何もしたくない。俺の心は弱くて、邪悪で、何かを選ばせれば必ず間違ったことをする。
「…………生きてるね」
近くに、息遣いが聞こえた。冬子の息が。冬子が生きている。
よかった。俺は――お前が生きててよかった。
「兄貴」
ほんのわずかに。瞼が開いて。あいつの顔が。見えた。
「……死ね」
「……ッ! ハァ……ハァ……あ?」
荒い息をしながら飛び起きると、目の前にユージーンの顔があった。俺の顔を不思議そうにじっと覗き込んで、笑うでもなく、心配するでもなく、ただ観察していた。
「……どこだ、ここ?」
俺が聞くとユージーンは、困ったように眉根を寄せて、目をそらした。どう答えていいかわからない、ということだろうか。自分で考えるしかなさそうだ。
見回すと、周囲にあるのは暗闇ばかり。明かりのない、薄暗い部屋――部屋? いや、部屋じゃない。がたがたと、体に感じる振動。――動いてる。
「あーっ、起きた? 起きてる? 寝心地いかが? 夢見は最悪? シ、シ、シ……」
急に、むかつく目覚まし時計みたいなキンキン声が耳元で響く。
「うわっ!?」
反射的に体を逆方向に動かそうとして、俺はバランスを崩して倒れこんだ。痛みはないが、気分は悪い。だが、おかげでやっと状況が飲み込めた。カポカポとリズムのいい蹄鉄の音、がらがら回る車輪の音……ここは、馬車の中だ。
「騒がしいな、起きて早々……」
部屋の端にあったカーテン状の垂れ幕をひょいと上げて、アンナが顔を出した。
「……アンナ……お早う」
「日が変わるほど寝てないよ。まだ、夕方だ」
そう言うと、アンナは垂れ幕をざっと横に引いた。奥の覗き窓から夕日が差し込み、広々とした馬車の中を照らし出す。
積まれた荷物の隣には、クッションにカーペット……屋根も付いてるし、昨日乗った馬車より、数段豪華だ。乗り心地もまるで違う。馬車の中だと気づかなかったわけだ。
きょろきょろ見回していると、アンナの横でじっと座ってたヴィバリーが、何も言わずに俺の顔をちらりと一瞥するのが目に入った。
「……俺が気を失ってる間に、何があったんだ?」
俺の隣にプカプカ浮かんでいるキスティニーを顎で差しつつ、ヴィバリーに向かって尋ねる。
「特に大きな変化はないわよ。西へ仕事に行くって話は聞いてたでしょう。あなたが目を覚ますのを待っていられなかったから、そのまま出発したの」
ヴィバリーの答えはなんとなく、普段よりほんの少し不機嫌に聞こえた。気を失ってる間に、荷物みたいに馬車に積み込まれた俺の方が文句を言いたいところなんだが。
「うふふ、ヴィバリーちゃんはちょっと拗ねてるのよ。自分にわからない話がどんどん出てきたから……彼女、コントロール・フリークなのね。イクシビエドと一緒ねえ」
キスティニーが、まるで旧知の仲間みたいな口ぶりで説明する。それを聞いてさらにムッとしたヴィバリーは、聞こえよがしに舌打ちした。
「こちらの事情にまで立ち入ってこないでもらえるかしら。お互い、イクシビエドの命令で同行しているだけでしょう?」
その臆せぬ言いぶりに、キスティニーは嬉しそうに笑った。ヴィバリーも初対面の時はもっと距離を置いていた気がするが、立場の変化にともなって接し方を変えたようだ。実際、こいつと話す時は真面目に話してもろくなことはない。
「シシ、シュ、シュ……命令なんかじゃないわよう。あくまで対等な取引。魔術師には、上も下もない。わたしたちはそれぞれが、己という一国一城の主なのよ。まあ、騎士様にはわからないかなー……く、く……」
喋りながら、キスティニーは空中をコロコロ転がって、馬車の外へふっと消えた。相変わらず、フリーダムだ。
「……まあ、あの女の言う通り、情報を消化できていないところはあるわ」
ヴィバリーはため息をついて、俺の方へ向き直った。
「トーゴ。これから向かう先にいる魔術師……『フユコ』っていうのは……あなたの、何なの? 知っていることを、私に話して。これはお願いじゃなくて、命令よ」
キスティニーに変なことを言われた後だからか、強い口調の裏に、どことなく不安を感じた。といっても、パニくってるとかそういう不安じゃない。これから、剣を向ける相手の正体が掴めないことに対する、狩人としての慎重さだ。
「冬子は……俺の、妹だよ」
俺はなるべく感情を込めずに、静かにそれを口にした。今まで知らん顔していたアンナとユージーンが、ひょいと俺の方を見る。
「なるほど。それで、あなたは、彼女がこの世界にいるとわかってたの? 彼女が、魔術師であるということも? あなたの世界には、魔術師はいないと言っていた記憶があるけど」
畳み掛けるように質問を投げかけるヴィバリーに、俺は首を横に振る。
「……いや。俺は、何も知らない……そもそも、生きてるとも思ってなかった。あいつは、向こうでは、その……し、死んでたから」
最後の言葉を口にする瞬間、ほんの少し、唇が震えた。
「死んでた? ……何があったんだ」
アンナが、そう問いかけた。その声は、俺を疑うどころから、むしろ俺に同情しているみたいだった。罪悪感に苛まれつつ、俺は適当にごまかした。
「……じ、事故で。車が、ぶつかって……あいつが死んで。その瞬間、こっちの世界に飛ばされてきたんだ……多分」
それらしい説明。事故で死んで、異世界で転生。そう……あいつにとっては、そういうことなのかもしれない。異世界で、魔術師に生まれ変わった。そういえばガキの頃は、魔法使いになりたいってよく言っていた。あいつは夢を叶えた……ただ、死因が事故ではないというだけ。