第一話:ある殺人
残酷な描写、暴力描写、倫理的に不快な描写があります。ご注意ください。
今朝、妹を殺した。
深く息を吸って、吐いて。俺は冷静だった。
ナイフを突き立てた布団に、赤い染みが、だんだん広がっていった。
布団の下に、細長い体の大きさを感じた。俺が覚えてる、小さい子供の体とは別物だった。
涙は出なかった。嬉しくもなかった。突発的に、俺も死のうと思った。
ナイフを自分の首に当てて、血管に押し当てようとした瞬間、血管よりも先に、ぶつっと意識が途切れた。
順を追って話そう。俺は昭島透吾。あきしま、とうご、だ。
高校二年。性格は暗い。上の文章見りゃわかるだろうけど。友達はいない。それも、ここまで読みゃわかるだろう。でも、根暗のわりにはうまく世渡りをしてきた。味方はいないが、敵も作らず、成績はそこそこで、コミュ力はないが、意思疎通はできる。
俺は普通の人生を送りたかった。そこそこの年収で、できれば結婚して、できなくてもまあ過労死しない程度の労働で土日にゲームできれば幸せに過ごせたと思う。大した望みじゃない。大した努力もせずに、叶うはずだった。
俺にとってのただ一つの障害は、妹だった。
妹は引きこもりだ。小学校までは明るい普通のガキだったが、中学に入って不登校になった。それから、なんと言うか、話が通じなくなった。クラスメートどころか、俺ともうまく話せない。俺以上に無口になって、たまに口を開いても、何を言いたいのかわからない。
何があったわけでもない。いじめかと思って母親が学校に殴り込んだが、そもそもあいつはろくに学校へ行ってなかった。学校サボって、ずっと図書館にいたらしい。
それから、妹はうちのお荷物になった。お荷物だ、と誰かが言ったわけじゃない。俺だって、口に出しては言わない。でも、その通りだった。俺も母親も、持て余していた。
金の問題もある。うちは父親がいないんで、もともと家計は苦しい。なのに母親は、妹をなんとか治そうとして、いろんな医者に連れていった。そこでどんな診断が出たかは知らない。ただ、金がやたらとかかったのは確かだ。
将来の問題もあった。俺が普通に就職するとする。妹がずっと家にいるとする。母親がいずれ死ぬとする。俺は、こいつを死ぬまで養わなきゃならない。正直、重荷だ。
一つ、言っておくと、俺は妹が嫌いだったわけじゃないんだ。
小さい頃、冬子はいい妹だった。夢見がちで、本をたくさん読んでいた。空想の話を俺に聞かせてくれた。わりと仲は良かった。そんなに一緒に遊んでたってわけじゃないが、お互いタイプが違うんで、面白い友達だと思ってた。夢見がちなあいつと、リアリストの俺と。
あいつは、魔法使いになりたいなんて言っていた。俺は、正社員になりたかった。
助けたいと思ったこともある。どうすればいいか、何度も聞いた。冬子は「兄貴にはわからない」と、それしか言わなかった。つまり、拒絶された。
……うらやましかったのかもしれない。
冬子は確かに、昔から自分の世界に住んでるようなやつだった。時々、ボーッとしてあらぬ方を見ていた。俺はあいつに何が見えてるのか知りたかった。俺には何も見えなかったから。
冬子は実際、頭が「あっちの世界」に行っちまってたんだろう。それで、こっちの世界のことができなくなった。つまり、学校に行けなくなった。理解はできる。
同時に、ふざけるなと思う。俺みたいな根暗がこの世界で生きていくために、普通でいるために、どれだけ苦労してるか。俺はずっと戦ってるんだ。教師と、同年代の奴らと、社会と。なのにあいつは、戦うのをやめて、苦労するのをやめて、自分の世界に行ってしまった。それは、反則だろ?
一つの選択肢が浮かんだのは、母親が会社を辞めた時だ。
母親は明らかにやつれていた。どう見ても限界だった。俺はバイトを探し始めた。高校生ができることなんて限られてる。いっそ、高校やめるか。どっかのおっさんに体でも売るか? それとも、冬子を売るか。
冗談半分にそんなことを考えるうちに、背筋がすっと冷えた。
――そんなこと、しなくてもいいじゃないか。そもそも、あいつがいなければ。
自分の発想に吐き気がした。でも、同時に頭で算段を考え始めていた。まだ未成年だ。情状酌量の余地もある。母親の負担は減る。俺も楽になる。冬子も……楽になる。凶器は? 銃刀法違反にならない程度のナイフなら持ってる。覚悟はあるか?
覚悟は――なかった。
だから、冷蔵庫に入ってたチューハイを一本飲んだ。それでいい気分になって、自分のバカさに気づくならよし。それで覚悟が決まって、なんでもできるような気分になって、ヤケクソになったなら――その時は、やれ。
あとは、最初に言った通りだ。
俺は妹を殺した。布団の上から刺して殺した。
そして――俺の意識は途切れた。