第九話:老夫婦
酒の席ということで、俺は根暗なりに、酔っ払いたちのどんちゃん騒ぎとか、アンナが脱ぐとか、そういうことを期待したりもしたんだが、実際には、酒場なんてものは意外に静かなものだった。
というか、アンナは本当にひたすら酒そのものが好きらしく、料理と酒を飲み込むばかりで、話もろくにしない。声を出すといえば、たまに「くぅーっ」とか「これだよなあ」とか酒のうまさを一人で楽しむばかり。酔えば酔うほど静かになっていった。
俺もまあ自分で話題をふるコミュ力もないので、仕方なく味のしない料理をつついたり、ユージーンと目を合わせたり逸らせたりして遊んだり(?)、不毛な時間を過ごしていた。さっさと宿に向かいたい。
――そんな時だった。近くの席から、不吉な話が聞こえてきたのは。
「……ああ、それじゃ……終わりだな……」
隣の席に座ったのは、陰気な老夫婦だった。他の席の客も大して陽気ではなかったが、その席はさらに陰鬱な空気を漂わせていた。陰気、というだけじゃなく……なんと言ったらいいか。そう、葬式の香り――
「仕方ない。別の家を探そう。もう、できることは何もない……」
「どうやって? もう、一銭もないのよ。この食事で、もう最後……」
「……私が、働くよ」
「その歳で、誰が雇ってくれるの?」
「そうやって、粗探しばかりしてどうなる?」
「……ごめんなさい。もう、疲れたわ……いっそ……」
「それも……仕方ないか……」
深いため息。もう、勘弁してくれ。聞いてるだけで死にたくなる。
何があったか知らないが、どこの世界でも底辺の人間は、同じようなことで苦しむものだ。衣食住とか、老老介護とか、もうそんな陰気臭い話を俺に聞かせるぐらいなら、いっそどっかでさっさと死んでくれないものか。
死んで――
(兄貴)
ふっと、昔の記憶が浮かんだ。
死体じゃなかったころの冬子。俺の妹だった頃の冬子。俺が殺した少女。
何でもない朝。中学に入る前の休みだったか。兄貴、と呼ばれて振り向いたら、冬子が制服を着て立っていた。俺はなんだかホッとしたのを覚えてる。冬子が生まれてすぐに父親がいなくなったから、少し、父親がわりみたいな気分だったんだ。冬子が成長して、大人っぽくなって、自分の面倒見られるようになって、ようやく、俺は自分自身のことができると思った。これからは自分のことだけでいい、と――
俺は顔をしかめて、ため息をついた。
バカは死んでも治らないというが、俺も結局、異世界に来て、一回死んだらしい後でも、向こうにいた頃と性格のクソさは何も変わってないらしい。自分の面倒も見られない弱い人間を見ると、消えて欲しくなる。俺自身も、弱っちいくせに。いや、自分が弱いからなのか――
爺さん婆さんに引きずられて、すっかり暗い気分になった俺は、そろそろ出ようとアンナに提案するつもりで、顔を上げた。
すると、アンナが――まるで当然のことのように、老夫婦に金貨を一枚放り投げ、彼らのすぐ隣にどかっと座っていた。
「ねえ、あんたら、死ぬんじゃないよ」
なんとなく、少し、気が楽になった。向こうで、俺が冬子を刺す前に、アンナみたいな奴がいたら……何か、変わってたんだろうか。
「何があったか知らないけどさ……とりあえずこの金貨を受け取って、宿でもとってさ。腕力で片付くことなら、この冬寂騎士団、青の騎士アンナが片付けてやるよ。あたし、お年寄りが泣いてるとこ、見てらんないんだよね……田舎のじーちゃんばーちゃん思い出して……どっちも死んじゃったけどさ……ばーちゃんのクッキーが絶品で……じーちゃんの息が臭くて……そう、つまり……なんだっけ?」
……酔っ払って絡んでるだけかもしれない。
老夫婦はぬぼっとした目でアンナを見上げて、それから、また顔を伏せた。
「魔術師が……」
爺さんがそう口にした途端、じっと壁を見つめていたユージーンが、ぴくり、と動いた。
「魔術師が、うちの家の近くで何か悪さをしてて……でも、姿を見せないし、私たちにゃ何も言えないもんで、そのままにしていたんだが……そのうち、家の周りを、変な生き物が走り回るようになって」
変な生き物、という言葉で、今度はアンナが、ぴくりと反応した。
「……魔獣か」
要するに、モンスター的なやつだろうか。急に酔いが醒めたように顔がシャキッとしたアンナは、テーブルに肘をつき、聞く体勢を整えた。