泣けるような話を描きたかった
「出来そこないには、空は飛べないんだ」
そう言って、あなたはわらった。
抜けるような青空に背を向けて、少年はふりかえる。
「高すぎて、青すぎて、ちっぽけな僕は見上げる事しか出来ない」
病院の屋上を、風が通り過ぎていった。
少年は両手をいっぱいに広げた。服が風にあおられて、はためく。
「羨むことしか出来ないなら、どうして空をあおいでしまったんだろうね。空を知らなければ、自分が飛べないことに気付かなかったのに」
「……それは、皮肉?」
車いすに乗った少女は、少し考えてから聞き返す。
少女は目が見えなかった。
「いやいや、そんなことないよ!ちょっとカッコよくて感傷的な言葉を並べてみただけ!」
少年は顔と両手をぶんぶんと振りながら、即座に否定する。
「……すっごく台無し」
「そうかなあ?まあいいや、よーし、決めた。今日は、昔テストで紙飛行機をつくって飛ばしたら、後日学校に落とし物として届けられちゃった話、だ」
「題名が長い上にオチが分かってしまったんだけど」
「いーんだよ、こういうのは。エンターテイメントなんだから。喜劇なんだから。大事なのはオチじゃなくて勢い」
「それでいいの?」
「全然OK。笑わせたら勝ち。そういう勝負だからね」
「そうなんだ。……ねえ、いつも話してくれるけど、なんでそんなにネタがあるの?」
「お、良い事を聞いてくれた。実はね、半分ぐらいはフィクションなんだ」
「え?」
「フィクションかノンフィクションかなんて、どうでも良いんだよ。だって」
屋上のドアが開いた。看護師の制服を着た女性が、声を張り上げる。
「そろそろ時間ですよー!」
二人が屋上を使うのは毎週のことなので、対応も慣れたものだ。
少女は毎週土曜日に通院している。少年は長く入院している。
「……時間みたいだね。さ、押すよ?」
少年は少女の車いすを押しながら、歩き始めた。
二人が合えるのは、週に一度だけ。
少女は、少年の言葉の続きに少しの未練をもった。
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少年は、たくさんたくさん少女に話した。
バカげた失敗を、滑稽な成功を、喜劇だと自分で笑いながら、話した。
少女は少年の話が大好きだった。
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「昔話をしてもいいかな?
喜劇であふれた僕の人生における、たった一つの悲劇の話」
少年は、そう切り出した。
その日は雨が降っていて、屋上は使えなかった。少女は少年の病室を訪れていた。
「いいよ、話して」
「喜劇以外を話すのは主義に反するんだけど、ちょっとだけ付き合ってほしい。
僕は昔、宇宙飛行士になりたかった。きっかけは何だったか……たしか、テレビで宇宙の映像を見たんだと思う。
空の上の、もっともっと上の空は、青くなくて、とても透明で、そのさらに上には、朝のこない夜空がある。
どうしようもなく憧れてね。本気で目指してたんだ。宇宙行くぞー!って。
ただ、まあ、十六歳で病気が見つかって、夢は絶たれちゃったわけなんだけど」
とても、とても軽い調子で話す。
「先天性のものでね。治らないし、余命一年って言われて。
えー!そんなあ!ガーン!って落ち込んでいたとき、とある本を読んだ。
これはその中の一文」
少年があまりに明るく話すため、少女はどう反応していいのか分からなかった。
「『悲劇も喜劇も本質は全く同じだ。問題は、紡ぎ手がどちらを望むかである』」
少年は窓の方を見やって言った。
雨粒が窓ガラスをたたいて、滲んでは流れ落ちていった。
「僕は、喜劇にしたいと思ったんだよ。……笑う?」
「絶対笑わない」
少女は即答した。
「ありがとう」
少年はそう言ってはにかんだ。
次は少女の番だった。
「私は、小説家になりたいの」
「いい夢だね」
「ありがとう。でもね、目が見えないのに小説が書けると思う?」
「書けないことはないと思うよ」
「うん。不可能ではない。でも、簡単でもない。
文章は読めないし、文字を書くのは難しいし、登場人物が何を見て、どう感じるか、なんて完全に想像だから。
生まれついての盲目のせいで、空の色すら知らないの。だから、この夢は、ずっと隠して来た」
「……どうして、小説家になりたいと?」
少女は、すこしだけ考えてから、応える。
「どこへでも行けるから、かな。外で遊んだ事なんて数えられるほどしかない。
それでも私はアメリカへ行ったことがある。南極へ行ったことがある。
私、平安時代に行ったこともあるのよ?」
「それは、素敵だね」
「あなたは言った。出来そこないには、空は飛べない。
出来そこないってどういう意味なの?」
少年はまた窓の方を見やった。雨はまだ降り続けていた。
鈍い灰色が、空一面に広がっていて、いつも見る風景が、どこかもの寂しげな雰囲気をまとって見えた。
「覚えてたんだ、それ。……そのままの意味だよ。宇宙飛行士になりたかった。空を飛びたかった。
でも飛べない。僕は不完全に生まれて来たから。だから出来そこないってこと」
少年はことさら明るく応えた。
その態度に、言葉に、少女は強い怒りを感じた。
気付けば少女は、感情のままに口走っていた。
「なにそれ。じゃあなに?目の見えない私は、空を知る資格もないほどの出来そこない?……ふざけないで」
少年は酷く驚いた。少女が怒りに震える姿を見るのは初めてだった。
「出来そこないなんかじゃない!あなたは!私たちは!空を飛べないかもしれないけど!それは劣っているからじゃない!」
少年は自分の言葉が、少女をひどく傷付けたことを知った。
けれど、放ってしまった言葉は決して帰っては来ないし、取り消せない。
だから少年は、自分の起源を話すことにした。
「『誰もが自分の役をこなさなきゃならない舞台なのさ。僕のは悲しい役だよ』。
知ってる?」
とうとつな質問に、少女は虚を突かれて黙りこくった。
「……ウィリアム・シェイクスピア」
「正解。僕はこの言葉が割と嫌いでね。
たとえ世界が舞台だとしても、これから来る未来に、台本に救いがなかったとしてもだよ。悲しい役だ、なんて絶対に認めたら駄目だと思う。
だって本当に、本当の悲劇になってしまうから」
少年はもう、明るくはふるまわなかった。真剣に、真剣に、言葉を紡いだ。
「……悲劇か喜劇かを決めるのは、紡ぎ手だから?」
「そう。そして僕は悲劇が大っ嫌いなんだ。なんだか、運命に負けたような気がするから。
悲劇を喜劇にするためなら、僕は滑稽なピエロになってもいい。
出来そこないっていうのはそのままの意味で、別に卑下してるわけじゃない。
つもり、なんだけど、はい」
少年は、先ほど怒らせてしまったことが後ろめたいのか、少し上目遣いに少女を見た。
「そう……別に怒ってないよ?取り乱してごめんなさい」
少女はぺこりと頭を下げた。
「え!なんで謝るの?」
「なんでって、怒鳴っちゃったから」
「謝らなくていいのに。むしろ変なこと言ってごめん」
「ええ?……じゃあ、おあいこってことで、どう?」
「うん、それでいこう。
あ、そうそう、どうして急に昔話をしたくなったのかっていうとね。
……そろそろタイムリミットだからなんだ。もっと大きな病院に移ることになってさー」
少年は調子を取り戻したのか、明るく話し始めた。
逆に、少女は一瞬、言葉を理解できなかった。
「……え?い、いつ?」
「今週の金曜日。君と合うのは今日が最後になる」
少女はしばらく茫然としてから、絞り出すように声を出した。
「そんなことって」
少年は申し訳なさそうに、苦笑した。
「急にごめんね」
「急すぎるよ……」
「ごめん」
「うん……」
少しの間、窓をたたく雨の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……あ!そうだ、プレゼントがあるんだ。はいコレ」
突然ぽんっと手をたたいた少年が、ベットの横の引き出しから小さな包みを取り出した。
「プレゼント?」
考える時間を得たおかげか、少女は、平常心をかなり取り戻していた。
「何が入っているかは、開けてからのお楽しみってことで」
少年は、いたずらっぽく笑って、手渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして。……君に会えてよかったよ」
少年は、そんな言葉をさらっと口にした。
「えっ?」
少女の頬に、カッと赤みがさした。
「もう一度、宇宙飛行士を目指すのもいいかもしれないって思えた」
「……それはよかった」
少女は熱を持った顔を冷ますように、両手でパタパタとあおぎながら言った。
そんな少女をニヤニヤしながら、見ていた少年は、その瞬間ハッと何かに気付いて硬直した。
「あ、あのさ。やっぱり、さっきのプレゼント、無かったことにしていい?」
「どうして?」
「いやあ、ちょっと、想定外に気付いたと言うか、あの、具体的に言うなら開けないで」
「えー?返してとは言わないの?」
「どうせ返してくれないくせに」
「正解」
少女は、ふふふっと楽しそうに笑った。
「たのむよー、お願い。未開封で、お墓まで持って行って!この通り!」
「んー、いいよ。未開封のまま封印しとく。お墓まで持っていくかは分からないけど」
「ありがとう」
「その代わり、また会ってね」
少女は、うすく微笑んで言った。強い気持ちのこもった言葉だった。
「うん。約束する」
感謝と強い意志のこもった返事だった。
「約束だよ?……がんばってね」
「うん。まったく君は心配性だなあ。あははははっ。
僕の人生は喜劇だから、こんなところでは終わらないよ!
宇宙飛行士になって、爆笑トークで世界を笑いの渦に巻き込むまでは!」
「ふふっ、いい夢だね」
「テレビの前でスタンバイしておいてね?本当にすぐだよ」
「わかった。楽しみにしてる」
「サインいる?」
「えー?気が早すぎない?……ねえ、一つだけ聞いてもいい?」
「いいよ。何?」
「あの日、何て言おうとしたの?」
「あの日?」
「喜劇はフィクションでもノンフィクションでもいい、だって。ここで途切れた話の続き」
「ああ、あれか」
少年は、すっと微笑んで言った。
「フィクションかノンフィクションかなんて、どうでも良いんだよ。だって。
だって、誰もが笑えるような、ほんの少しでも楽しめるような、
優しい空であればいいんだから」
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少年は医師の宣告通り、十七歳で息を引き取った。
水曜日のことだった。結局、大きな病院に移る必要はなかった。
少女は、カウンターでその話を聞かされた。車いすを押していた母親は、いつものように少女を彼のいた病室まで運んだ。
母親は、落ち着いたら電話で呼んでね、そういって病室を出て言った。
「プレゼント、開けてみようか」
誰もいない病室で、つつみを開いていく。
「約束したのに」
中から出てきたのは、つつ状の機械だった。おおきなボタンがついていた。押す。
〈テステスー、録音できてるかな?できてるっぽい?OKOK。ここからは遺言的なアレです。〉
少年の声が響いた。もういないはずの、懐かしい声が。
プレゼントはボイスレコーダーだった。
〈最後の言葉がさ。
最後の一文が、最後に考えたことが、さ。
悲しい、だったら悲劇だと思うんだ。
楽しい、だったら喜劇だと思うんだ。
そこへたどり着くまでが、どんなに苦難や喜びに満ちていてもね。
さて、ここで問題です!僕の人生は、悲劇でしょうか?喜劇でしょうか?
シンキングタイム、スタート!〉
「喜劇、でしょう?あなたが、そう言ったのに」
〈……では、答えに移りましょう。
答えは!デッデデーン!
しばらくお預けです。
まだ君には教えてあげない。次あったときに教えてあげる。
そうだね。数十年後ってところかな。うん。〉
「……無責任」
〈そのときは!君の答えも教えてもらおう!二人で答え合わせでもしようか。
楽しみに、気長に待つよ。ついでに君の家族も紹介してほしいなー。なんて言ったら怒りそうだ。〉
笑い声が響く。
「ねえ。……これは悲劇だよ。こんな喜劇、悲しすぎるよ」
少女の手の甲に、雨が降った。暖かい雨だった。
「だってあなたは、まだ夢を叶えてない。
その姿を滑稽だと、喜劇だと笑うなんて、できないよ。出来るはずがない。
だからやっぱり、これは悲劇だよ」
〈最後に一つだけ。
僕は、悲劇なんて大っ嫌いだ!……それじゃあ、しばらく、さようなら。またね!〉
そう言い残して、ボイスレコーダーは沈黙した。
「知ってる。知ってるよ。私は、誰よりも君の紡ぐ喜劇を知っている」
「私にたくさんのことを伝えてくれて、本当に楽しかった。ずっとありがとう。
あなたの紡いでくれた喜劇は、私の心の中で青空になって残った。
私でも飛べる、優しい空を描いてくれたから。
あなたのおかげで、私は夢を目指せるんだ」
少女は、小説家を目指した。
少女は、女性になって、たくさん小説を書いて、お婆ちゃんになって、息を引き取った。
彼女は最後まで、空を見た事が無かった。
彼女の作品は、そのほぼすべてが、ハッピーエンドであった。
それらはエンターテイメント、稀代の喜劇として高い評価を受けた。
しかし、彼女のデビュー作だけは、悲しい結末を迎える、悲劇だった。
彼女はそれを書き上げた後、こう言い残したらしい。
「涙がこぼれるような物語をつくりたかった。
出来そこないのあなたが飛べる、そんな空を描きたかった」
「美しい悲劇にしたかった。これが喜劇なんて、悲しすぎるから」
「私も出来そこないだったんだ。
この世界の空は高すぎて、透明すぎて、飛べないよ」
「あなたのつくってくれた空は、あんなに綺麗だったのに」
「……私はね、喜劇より悲劇の方が好き」
「だって人は。
笑ったことはすぐに忘れてしまうけど、泣いたことは簡単には忘れない」
「それでも私は、喜劇を描くよ。あなたに、たしかに救われたから。
優しい空を描きたいから」
「『言葉は宙に舞い、思いは地に残る』
……物語の中の、記憶の中のあなたには、空を飛んでいて欲しい。
私は、この記憶とこの思いを抱いて、飛べない空の下を生きるから」