プロローグ
それは、とても暗い雨の日だった。
空は厚い雲に覆われ、しかしその雲すら視認することが困難なほどに暗かった。
昼だったのか、それとも夜だったのか。
そのあたりの記憶は、彼女のなかでも曖昧だった。
鮮明に覚えているのは、不幸にも帰路の途中で降られてしまったこと。
それから――ようやっと家に着いたと思ったら、玄関に籠が置かれていたこと。
そしてそこから、どうやら赤ん坊の泣き声のような音が聞こえてきたことだった。
彼女はのちにその日の出来事を、本人にこう述懐する。
「......あの時は驚いたよ。何せ......泣き声がするから籠の布をとってみれば、何も入っていなかったんだから」
そうして彼女が空の籠を拾ってから、20余年の月日が流れた。
その頃、彼女の家からほど近くにある村では、露店が開かれていた。
その村はコメンツォという、住人が150人に満たないほどの小さな村だった。
"頭巾に奇妙な仮面をつけた男と思しき薬師が、質のいい薬を安く売っている――"
初めの頃こそ警戒したが、今や村民の皆々がその薬師の薬に頼りきりの状態だ。
毎日決まった場所にやってきて、客が来るまではじっとその場に立っているだけ。
無骨な木組みの手押し車に載せられているのは、数々の薬草や調合された薬。
荷台を覗いてみると、痛み止めから流行病の薬といったものまで、幅広く取り揃えられている。
質がよく安く買える薬は、貧乏なコメンツォの村では当然とても重宝された。
そんな彼は、いつしかコメンツォの村民たちから尊敬を込めて「薬師様」と呼ばれるようになる。
彼はこのようにして日々薬を売り、細々と村を支えて一生を終える気でいた。
そしておそらくは、そこになんの躊躇もなかった。
とある事実を、知るまでは――。