表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/60

私と彼の出会い

――高低の変わらない穏やかな音が断続的に耳に入る。

……耳鳴り?

いや、ちがう。そんなに高い音ではない。

――これは雨音だ。

どうやら外では雨が降っているようだ。

小雨だろう。本降りではない。

いつの間に降りだしたのだろうか? 

窓の外に吊るしたままにしている季節外れの風鈴の音も雨音に交じり聞こえてくる。

彼の「階段」での体験談を思い返していた私は雨や風鈴の音に気付かなかったようだ。


「……意外と堪えているのだな。全くらしくもない」


私はそう呟くと口元で小さく笑った。


どこからか隙間風が入ってくる。

こたつに両脚を入れているので下半身は暖かいが背中や肩といった上半身は冷える。

私はこたつ布団を引き寄せ肩まで入ると横を向いて寝転んでしまった。


「素敵なアパートですね。窓を閉め切っていても風が入ってくる」


真面目な顔で皮肉を言う彼の表情がふっと浮かんできた。

よく彼はそう言って私の安アパートを馬鹿にしていた。

……全く年下のくせに生意気な奴だ。

その割には何度も私のアパートにやって来たではないか。

でも、そんな皮肉を彼から聞くことはもうない。

彼はもうこの世にはいない。

彼は――私の友人は死んでしまったのだ……。


――十年前、教師をクビになった私は妻にも子供にも逃げられた。

言い訳はしない。全て自分の責任だ。

分かってはいる。

だが無職となった私は自暴自棄になった。

新しい仕事に就くこともなく、毎日夜になると繁華街へ出かけ、記憶がなくなるまで酒を煽った。

私は生きることが厭になっていたのだ。


そんな八月のある夜だった。

零時過ぎに繁華街の居酒屋を出た私は路地の隅にかがみこんだ。

珍しいことではない。

この頃の私はしょっちゅう路上で胃の中のものを吐き出していた。

でもこの日は少し違った。

酒に酔った気持ち悪さもあったが、それよりも腹部の痛みに耐えかねたのだ。

胃の辺りに刺すような痛みを感じ声も出なくなった。

私はうずくまりながら周囲の通行人に助けを求めようとした。

だが誰も私を助けてくれる人はいなかった。

私と関わりあいたくなかったのだろう。

皆無視をするか怪訝な表情で一瞥して通り過ぎていってしまった。

額から脂汗が滴り落ちる。全身から汗が吹き出す。

八月の絡みつくような熱気に、私の意識は朦朧としてきた。


「・・・終わりか。呆気ない」


意識が遠退く。

ここで私の人生は終わるのだと感じられた。

あぁ、こんなに呆気なく俺は死んでしまうのか。

そう思った。

しかし別に守るものもなければ悲しむ人もいない。

それなのに命を惜しむ理由があるだろうか?

そう思った私は、一抹の寂しさは感じたものの、

その場で命を終える覚悟をした。


するとその時、誰かが私の身体を抱き起こした。


それが彼だった。

それが私と彼の出会いだった。

私が死を覚悟したまさにその時、彼は私の前に現れたのだ。


「行きましょう」


彼は私の顔も見ずに一言だけ呟くように言うと、

やおら私の事をおぶり、何も言わずに歩きだした。

私よりひとまわりは若いと思われる彼は、

世の中からはじかれた事が察せられるような薄汚い

酔いつぶれた男を、上半身吐瀉物にまみれ異臭を放った

眼を背けたくなるような男を、当たり前のように

背中におぶってくれた。

今思えば、この瞬間に私は彼という男を

好きになっていたのかもしれない。



「・・・すいません。本当に、申し訳ない」


私は彼の背中に揺られながら感謝の言葉を述べた。

彼は何も答えなかった。

気付くと私の眼から涙が流れてきた。

久しぶりに、何か悪いものを洗い流すように涙が流れてきた。

私は彼の背中で声をあげて泣いた。

彼はやはり何も言わずに、私をおぶり歩き続けた。


しばらくすると、彼は足を止めた。


「あなたは本当に生きていたいですか?」


彼はどこか怒ったような口調で私に尋ねた。

表情は分からないが、彼は冗談ではなく

真剣に私に向かって尋ねているのだと感じられた。


「この世界で、本当に生きていきたいとあなたは

思っていますか?」


彼はもう一度同じような口調で私に尋ねた。


普通、突然こんな事を尋ねられたら、質問の意図を

探るためにいったん返答を避け、その脈絡のない質問を

唐突になげかけるその相手に対し、警戒線を張り巡らせる。

しかし、その時の私にはその質問が必然的なものだと

感じられたので、そのような警戒感は微塵も起きなかった。


「あれを見て下さい」


彼は近くの雑居ビルを見上げた。

私も彼に習い、その雑居ビルを見上げた。

ビルの五階、開け放たれた窓から一人の男性の姿が

見える。

スーツを着た中高年とおぼしき男性。

男性は窓から身を乗りだし、今にも飛び降りようとしている。


「あ!」


私は思わず声を上げた。

私が声をあげるのとほぼ同時に男性は窓から身を投げ、

私たちからそう遠くない路上にうつ伏せの状態で

叩きつけられた。

男性はピクリともしない。

男性は死んだのだ。


私はたまらず悲鳴をあげた。

人が一人、目の前で死んだのだ。

男性の頭部から溢れた血は、みるみる路面を赤く染めていった。


すると彼が私の身体を揺さぶった。


「違うその男じゃない! あれを見ろ!」


彼は雑居ビルを見上げたまま叫んだ。

違うって何が違うんだ?

私は訳が分からず雑居ビルを見上げた。

私はまたもや悲鳴を上げた。

目の前で男性が路上に叩きつけられた時に上げた

悲鳴なんか、かわいいものだと思えるくらい大きな悲鳴を。


男性が身を投げた五階の窓。

その開け放たれた窓いっぱいに、二十はくだらない

と思われる数の人間の顔がひしめき、そのどれもが

声にはなっていない笑い声を上げ、顔を揺らしていたのだ。


私は悲鳴を上げながら彼の背中から転げ落ちた。

彼は私の身体を抱き起こすと、私の眼をじっと見つめた。


「あれは死んだ人間たちです」


私は言葉を失った。

死んだ人間?

それは要するに「霊」という事か?

あの無数の気味悪く笑っているような顔の群れは、

生きている人間ではないのか?


「飛び降りた男は、あの霊たちに殺されたのです。

理由は分からない。しかしあの霊たちが殺したのです!」


彼が叫ぶように私に言ったその時、

窓を埋め尽くしていた顔の群れが窓から飛び出し、

死んだ男の周囲を旋回し始めた。

首から下のない顔の群れは、どれを見ても醜く笑っている。

顔の群れはスピードをどんどん早め、その残像が

一つのリングのように見えたかと思うと、

スッとその場から消えていなくなってしまった。


私は霊など信じていない。

しかし目の前に広がるこの世のものとは思えない光景に、

私の思考は完全にショートした。

これはどういう事なのだ?

腹部の強烈な痛みもどこかに消えた。

私はわー! と叫びながら頭をかきむしった。


「これは現実だ!」


彼は私の肩を両手で強く掴んだ。


「この世界には生きている人間だけでなく、

生きていない人間も存在するのです!

ただ存在するだけではない、場合によっては強い殺意を

持ち、生きている人間を殺そうとするのです!」


「嘘だ!」


私は彼の目を見返した。


「人間が美しい存在ではないと承知はしている!

しかしそんな非現実的な・・・」


「今見た光景を忘れましたか!」


彼の顔がさらに私に近づいた。


「殺すという目的を達成した顔の群れが、

醜く笑い飛び回っていたのを忘れましたか!」


私は反論出来なかったが、認めたくもないので彼の身体を

両手で突き飛ばした。

尻もちをついた彼は、睨みつけるようにして私の顔を見た。


「では、あなたの隣のその顔をよく見てみるんだ!」


彼は私の顔のすぐ左側を指差した。

わたしはびくりとして、彼の指差すほうに顔を向けた。

そこには若い女性と思われる顔だけが浮いていた。

その女性の顔は、先程の醜く笑っていた顔の群れとは違い、

忌々しいような悔しいような表情で私をじっと見つめていた。


私はその場に固まった。

するとその女性が私に向かってこう呟いた。


「お前も連れていったのに」


私は全身から血の気が引くのを感じた。

私はもしかして、あの女性に命を取られようとしていたのか?

私は強い目眩に襲われた。

目の前が暗くなる。

そんな私に、悲しむような彼の声が聞こえた。


「あなたは本当に生きていたいと思いますか?」



私はそこで気を失った。


以上が、私と彼の出会いだ。

懐かしく恐ろしく、どこか厳粛だとも感じられる出会いだ。

他にも言いたい事はあるが、震えが止まらない。

この話しはここで終わろう。

そして、彼から聞いた話しを続ける事としよう。










三年以上放置しすいませんでした。

その間に私の身にも恐ろしい事が起こっていたの

かもしれない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ