4話
劣悪な環境下で生活して五ヶ月が過ぎただろうか。
この時にはエレナに着けられた魔封じの首輪は、身から溢れ出る魔力のせいで魔封じの効力をほぼなしていなかった。
たかが魔封じの首輪でエレナの膨大な魔力を抑えるのは不可能。逆にその魔道具が壊れ始めるのだ。
完全にエレナの力を封じるには、それこそ国宝級の魔道具でなくては無理だろう。
したがって捕まってから三ヶ月経った頃には、エレナはいつでも牢屋から逃げることができた。
しかし、エレナは逃げなかった。いや、逃げる意欲が湧かなかった、と言った方が正しいだろう。
なぜなら、エレナの帰る家が既になくなっていたからだ。
もし……家族が生きていたとしたら、エレナは真っ先に家に帰っていたことだろう。
家族と言う拠り所を失ったエレナ派、まるで廃人のようだった。
そしてその日も、エレナはいつものように牢の中から道路を行き交う人を眺めていた。貴族の生活と庶民の生活は全然違った。
今のエレナは庶民以下の身分なのだけれど……。
泥などの汚れでその美しい銀髪はくすみ、櫛で梳かされていないせいかボサボサである。
ボロい麻服の隙間から覗く腕や脚は痩せ細り、淡く光り輝く少女の肌は白く透き通っているが、かすり傷ばかりでかなり痛々しい。
エレナは生きる希望を亡くしていた。それでも公爵令嬢としての最後のプライドからなのか、純潔だけは必死に守っていた。
エレナを観賞用として買う奴らはたくさんいる。しかし、ただ見てるだけでは我慢できなくなり、エレナを性奴隷にしようと試みてきた。そのたびにエレナは冷たい微笑みを浮かべ、手枷を武器として相手が血まみれになるまで殴り続けた。
そんなことを繰り返しいたからなのか、誰もエレナを買おうとはしなくなった。
(……死にたい。そうすれば、あの世にいる家族に会うことができるのに……)
エレナは悔しかった。どんなに死にたくても人間としての生存本能からなのか、出される食事をどうしても食べてしまうのだ。
「狂気姫、お前の同居人が出来たぞ。ほらよッ!」
『狂気姫』……あまりにも人を楽しそうに殴るものだからエレナにつけられた愛称である。どうでもいいけど。
大柄の男がエレナのいる牢屋に少年を放り込んできた。
年齢は大体ヴァンと同じくらいだろうか。首には従属の首輪がつけられていた。エレナの場合、従属の首輪をつけてしまうと、魔封じの首輪と力が衝突してしまうため、付けられてはいない。
栗色の髪に、
「痛たたた……もう少し優しく扱ってくれればいいのに……」
少年特有の幼い声が牢屋中に響く。栗色の髪に、黄金の瞳……とても綺麗な少年だ。
「……それにしてもかなり頑丈な牢屋だな。ねえ、君はどう思う?」
「……」
牢屋に放り込まれたというのに、少年はどこか明るい。まあ、どうでもいいんだけれど……。
「うーん、お口はついているんだよね?」
「……」
少年はエレナにそっと近寄り、口元をツンツンと突っついてきた。
「……喋れないのかな?」
全く喋る気配のないエレナに、少年は不思議そうに首を傾げた。そういえば、ここ二ヶ月、一言も喋っていなかった気がする。
「僕の名前はヴェン。君は?」
名前の響きが、ヴァンと似ていて心臓が跳ねそうになった。
「……エ、レナ」
久しぶりに声を出した。
「お! 喋れるなんだね。エレナか、響きの良い名前だね。今から竜王様が僕たちを助けにきてくれるから安心して」
竜王様? 竜族の王様のことだろうか?
「……助けて、くれなくてもいいのに……」
「ん? 何か言った?」
エレナは少年に「なんでもない」と言った。
仮にもエレナは公爵令嬢。国から捜索願いが出てもおかしくないのにそれすらない。唯一エレナを暖かく迎えてくれる家族すらもこの世にはいない。一体エレナに何が残っているというのだ。
「先ず、この牢屋をどうにかしないとね。首輪邪魔だな」
少年はそう言うと、首に着けられた従属の首輪をいつも簡単に破ってしまった。従属の首輪は、専用の鍵以外で外すことできないはずなのに……。
「この竜王国で人身売買とか……仕事増やさないで欲しいよね」
少年はブツブツと呟きながら、格子の作りをじっくりと観察し始めた。
「……ここは、竜王国、なの、ですか?」
まだ声を出すことに慣れなくて、どこか辿々しくなってしまう。
「そうだよ。で、僕は潜入担当ってわけ! 一応竜王様の側近なんだ。でもね、竜王様ってかなり人使い荒いんだよね!!」
なんて、人懐っこそうな少年なのだろうか。少年のおかげで、ついここが冷たい牢屋の中であることを忘れそうになった。
「ふふ、竜王様が、とても好きなの、ですね?」
エレナの口元に笑みが浮かんだ。少年は微かに目を見開く。
「どうしてそう思うの?」
「だって、とても楽しそうに、お話になるから」
エレナは率直に感想を述べた。
「なるほど。まあ、竜王様は竜族の男にとっては憧れの存在だしね! ちなみにエレナはお姫様とか何か?」
「え? 私が、お姫様?」
次はエレナが目を見開く番だ。
「そう、だって話し方が上品だもん」
「なるほど……でも、お姫様なんて、大層なものではないわ。お姫様みたいにか儚くもないし……」
決してエレナはお姫様のような雰囲気なんて持ち合わせていない。
世間の人は、ローズ男爵令嬢みたいな人をお姫様のような人だと言うのだろう。王子様に無条件で守られるような女性のことを……。
エレナは誰かに守ってもらいたいとは思わない。守られるよりは守る立場にいたい、とエレナは思う。
「お姫様っていってもいろんなお姫様がいる。僕からしたら、エレナはとても綺麗で、強いお姫様に見えるよ。僕は守られるだけのお姫様は嫌い。君みたいに強い瞳を持ったお姫様の方が好ましい」
「え……ど、どうして?」
「守られるだけのお姫様は何も変えることなんてできないからかな」
少年の言葉がエレナの心に深く染み渡る。そうだ、ずっと素晴らしい賢王の妃になれるように、民の生活を調べてきた。ときには、親の反対を押しきり一ヶ月間下町で生活したときもあった。今ではその努力も全て無駄になったんだけど。
国に戻っても、公爵家という後ろ盾を失ったエレナは、酷い扱いを受けることだろう。下手したら、監禁されてもおかしくない。
「ヴェンと、話をしていたら、心がとても軽くなったわ。ありがとう」
エレナはヴェンにお礼を言った。
「どういたしまして。ちなみにエレナって彼氏とかいたの?」
「え? どうして?」
「え、えーと、かなり綺麗な容姿をしているから」
赤面しながらそう言うヴェンに、エレナはくすりと笑った。
「一応、婚約者はいた、かな? でも、私、嫌われていた、みたい」
「その男、女を見る目がないね。竜王様なんて、女に全然目向きもしないから困っているというのにさ!」
「ふふ、大変ね」
それから、エレナとヴェンは何気ない会話を続けた。