7 罪悪感を背負わされた幼馴染は犯人の少女を許せない <相関図:百瀬薫の姉妹>
<7話 あらすじ>
心配する百瀬に、南朋は「ただの捻挫だったし、ちょうど保健室に来ていた深町とも話がついた」と報告する。
しかし百瀬は、自分がぶつかったくせに怪我人を置いて教室を出ていってしまった深町のことが、どうしても許せなくて……。
翌朝。教室に着くなり、先に登校していた百瀬が駆け寄ってきた。
「病院どうだった? 夜、電話しようかと思ったんだけど、気をつかわせるからやめろって譲姉に止められてさぁ……」
開口一番、百瀬家で強い権力を持つ長姉の名前を出して言い訳する。譲さんは嫌がる百瀬に例の籐籠の自転車を押し付けた人だ。今は新しく買ったバイクで専門学校に通っているらしい。
年が離れている譲さんとはあまり関わった記憶がない。百瀬の家で遊んでいた時に弟妹に理不尽な命令しているのを見て、どこの家でも長子は偉そうだよななんて思った覚えがあるくらいだ。
「心配するほどじゃなかったよ。ただの捻挫。左だし生活には問題ない」
「ごめん。それでラインにしたんだけど返すの大変だったよな。悟にもウザいって呆れられた」
百瀬はきまずそうに頭を掻く。百瀬の家は彼以外女ばかりの四人姉妹だ。上から譲・守・薫・悟と女の子には男の子を、男の子には女の子を想像させる、ややこしい名前が付けられている。
小六の悟ちゃんは妙に現実的で、絶対に兄のようにカバンの中をカオスになどしない、きちんとしたタイプだ。やや趣味が個性的だが、身だしなみもきちんとしていて礼儀正しく、幼いながらも文字通り悟っているように見える。強い姉としっかり者の妹の両方から諌められるなんて。同情してしまう。
「百瀬はごめん言い過ぎ。そもそも何も悪くないんだから。気にするな」
「うん……」
納得できない顔で永遠に自分責めする姿は、悟ちゃんでなくともウザくて付き合いきれない。どうにかループを断ち切りたくて話を逸らす。
「そうだ。あれから俺、保健室で深町さんとあったよ。あの子も肘を怪我してた。本人はいつどこでどうして怪我したのか、不思議がってたけど。話せばわかってくれた」
当事者間で話がついたと言えば、百瀬の自分責めも終わると思っていた。なのに百瀬はいっそう興奮した様子で机に身を乗り出してきた。
「は? あんな派手にぶつかっといて何がわかんないの。そんで自分だけ保健室で見てもらってたって? アイツどういう神経してんだ」
「いや。深町は窓からネコのひき逃げを目撃したんだ。保健室に行ったのは自分じゃなくてひかれたネコのためだよ。だから自分がどこかにぶつけたとかぶつかったとか、それどころじゃなかったんだ」
俺の説明が下手すぎて、百瀬が頭を抱える。
「ちょっとまって。なに言ってんのかわかんない。それどころじゃないってなんだよ。っていうかネコってどういうこと。関係なくない?」
百瀬も俺と同じだ。たとえ校舎の二階の窓からひき逃げを見たとして、自分が飛び出していってなんとかしなきゃとは考えない。発想にない。おそらくもっと他人事だ。ひどいもの見ちゃったな、くらいの温度感。せいぜい周囲や大人に告げて判断させるかどうかだろう。それは、相手が人間ではないから。そして僕らが大人ではないから。
でも深町は違った。目撃した瞬間、弾丸のように飛び出し、ネコを保健室まで連れてきた。自分が人にぶつかったかどうかなんて、本当にわかんなかったんだよ、あの子には。ネコのために必死で交渉していた姿を思い浮かべると、なぜか胸があったかくなる。
「事故を見てほっとけなかったんだよ」
「だから許せって? はぁ。なに言いくるめられちゃってんの」
百瀬は拗ねたように唇を尖らせた。保健室での深町の態度は確かにひどいものだった。だけど俺にはあのときの深町の「なんで」や、「気づかなかった」と言ったことを嘘や誤魔化しだとはどうしても思えなかった。
「言いくるめるって……百瀬こそ、なんでそんな喧嘩腰なんだよ。お前が怒ることでもないだろ」
「は。ぶつかられたの俺なんだけど」
反論するといっそう百瀬の態度は頑なになる。
「それはそうだけど。もういいじゃん。すんだことだろ」
百瀬にぶつかったのは深町だろう。でも百瀬が望むような反応はきっと今の深町からは返ってこない。それどころではないからだ。俺たちは彼女の意識の外なのだ。それは全く悪気なく。
深町七緒には何かが決定的に足りない。例えば使うべき時に敬語を使わないこと。深町の国語の成績に問題はない。というかたぶんテストなら俺よりできてるだろう。わかっているなら使った方が面倒がないのに、使えない。
あと、わざわざ動物病院に連絡を取ってくれた保健室の先生にお礼の言葉ひとつでないこと。轢き逃げを目撃したからって、なりふり構わず、誰にも告げず、ひとり学外へ飛び出してしまうこともそう。君のせいで怪我をしたと訴える相手に「なんで」なんて怒らせるようなことを言ってしまうことだって。
変わっているというのじゃ済まないほどの、人の気持ちに対する鈍感さがある。自分自身に対してさえそうだ。怪我をしたネコという大事の前にセンサーがオフになってしまっている。だから落ち着くまで一旦待つ。俺にはそれ以外に解決策が浮かばない。
百瀬が黙り込み、話が終わりかけていた時、教室の前の方でバンッと大きな音がした。扉にしたたか身体を打ち付けて、深町が入ってきたのだ。彼女は少しよろめいたが、痛みに顔をしかめるでもなく、注目を浴びて気まずそうでもなく、何事もなかったかのように席まで歩いた。
「ひゅー。びびったぁ、ガラス割れたか思ったわ」
ロッカーにカバンを片付けていた虎之助が呑気な声をあげると、衝撃音に固まっていた教室内の空気が緩んだ。
「おはよー南朋。土曜の清水中との合同練習やねんけど、見学でええから来いってコーチが言うとったで」
虎之助が俺の席に寄ってくると同時に、百瀬が離れた。彼は教壇近くの深町の席の方へ歩みを進める。
「おい、百瀬」
まずいと直感する。引き止めようと追いかけるが、間に合わない。
「深町さん、ちょっといい?」
座席にカバンを置いた深町はチラッと顔を上げて前に立つ百瀬を見た。
「なに」
すぐに目を逸らし、カバンの中の物を机に入れ始める。目の前で人が話しかけているのに手を止めようとも顔を見ようともしない。
「百瀬!」
「南朋は黙ってて」
百瀬はバンと大きな音を立て、両手で机を叩いた。カバンが跳ねて、深町は目を丸くする。
「わざわざ来たのに、無視することないだろ」
「え? 無視なんかしてないよ。なにって聞いてる」
それでも深町は手を止めず、カバンから飛び出した教科書を片付け始めた。確かに深町は何の用かとちゃんと百瀬に尋ねてはいる。いるけれど……。自分の行動が相手に無視しているような印象を与えているのだとは理解していないようだ。
イライラを抑えようとしているのか、百瀬は胸に手を当てふうっと大きく息を吐く。
「……まあいいや。昨日、俺にぶつかったこと覚えてるよね」
しっかり支度を終えてから、深町は真正面から黙って百瀬を見つめ返した。すっとぼけたかのような態度に百瀬の怒りが頂点に達する。
「しらばっくれんな! 保健室で南朋と話したんだろ?」
「……なお?」
「ほら、大葉だよ。大葉南朋。同じクラスの! あんたのせいで手首を怪我して保健室に来てただろ」
深町は首を傾げた。大葉南朋と言われても、深町は一度も俺の方を見なかった。まさか、昨日俺と会ったことを忘れているのだろうか。じっと見ていると、視線を感じてなのかようやく深町がこちらに顔を向けた。今度は穴が開くほど凝視されドギマギする。
「……あ〜あ!」
ようやく合点がいったようすで頷いた。もしかして名前を知らなかった? まさか認知されてもいなかったとは。話したことがないとはいえ、そこまで興味を持たれていないと知るのは正直ショックだ。
「っていうか深町さん、今話してるこの人、誰か知っとるん」
虎之助が百瀬の肩を引き寄せ、顔を指差す。深町はぎゅっと口を結んだまま、俯いた。
「五月末にもなってクラスメイトに紹介することになるとは思わんかったけど。俺は笹森虎之助。こっちは百瀬薫。昨日、深町さんに吹っ飛ばされたせいで友達の大葉南朋に怪我させてもーて、罪悪感でいっぱいなんよ、ももちゃんは。心配で、心配で、部活にも身が入らんかった」
「べつに。そんなんじゃない」
「……笹森、……ももちゃん」
深町が二人を交互に見て、虎之助の発した名前の一部を復唱すると、百瀬がすぐさま訂正を入れる。
「ももちゃんじゃなくて、百瀬ね。深町さんさあ、保健室で南朋の怪我を見たんだろ。南朋は優しいから責めたりしなかったと思うけど……」
「いや、私がぶつかったから怪我したって言われた」
深町が百瀬の言葉を遮る。ちがうだろ? 責められたとかそんな流れじゃなかったじゃん。なんでそこだけ言うんだよ。深町の不器用さに頭を抱えた。ひき逃げされた猫のことで頭がいっぱいだったこととか、言われても自分には身に覚えがなくて戸惑ったこととか、だけど怪我していることに気がついてびっくりしたこととか、言い訳にしか映らないかもしれないけど、にしたって、もっと他に言うことがあっただろ。
案の定、百瀬は秒でキレた。
「だったら、なにしらばっくれてんだよ! 謝りにも来ないで、なにさま?」
「いや。百瀬、誤解だ」
深町を庇おうと声を上げると後ろの席の高橋かなえが立ち上がり、いきなり百瀬が一発でカチンとくるだろう一言を放った。
「あーもう、男のくせにビービーうるさい。なに泣いてんの」
高橋は小学生の頃から百瀬と顔を合わせれば喧嘩ばかりしている、因縁の相手だ。
「は? 誰が!」
必死で反論する百瀬の目が潤んでいるのが見なくてもわかる。興奮するといつもそうなるから。高橋は昔から百瀬の地雷を的確に踏み抜く。付き合い長いんだから百瀬に男のくせには禁句だってことくらいわかるだろうに。
「彼女、今教室に入ったばっかで謝りに行く間なんかなかったじゃん。女子相手に机叩いて威圧して。カッコ悪いと思わないの?」
「男子とか女子とか関係ないだろ」
「高橋さん、ももちゃんも、落ち着いて」
さすがの虎之助も入っていけず、仲裁しながらちらりと視線で俺に助けを求める。
「しかも相手は深町七緒だよ? 名前知らないのとか、今更聞く? そもそも関係ないのは、ももちゃんでしょ。大葉に頼まれたわけ。深町さんと話をつけてくれって」
高橋が畳み掛ける。深町本人の前で割とひどいことを言ってる気がするけど、高橋に自覚はあるだろうか。
「か、関係ないわけないだろ。だって俺のせいで南朋が……」
百瀬が怯むとここぞとばかりに高橋の勢いが増す。
「で、結局頼まれたの? 頼まれてないよね。頼むわけがないのよ。話が通じないってわかってんだから。知らないの? 深町さんって……」
朝練に出てた連中も教室に戻り始め、皆が高橋の発言に注目していた。机に目を落とす深町の顔がこわばっている。高橋の口から、何が出てくるのか怖がっている。俺は話を遮った。
「もうやめようぜ。怪我は大したことなかったんだし。この件について話すのはもう終わりにしよう」
深町がどれほど嫌なヤツかなんてことは大勢の前で、しかも本人を前にして言っていいことではない。傷つく。高橋は所在なげにゆるく編んだ三つ編みを手にくるくる巻きつけながら、唇をキュッと噛み締めた。
「……そうね。終わりってことで」
「百瀬も、もういいよな」
念を押すと百瀬は冷たい目で深町を見下ろし、聞こえよがしなため息をついた。それからあの潤んだ目で俺を睨みつける。
「余計なことして悪かったね」
納得できません。全然良くないですよ。と態度で訴えている。俯いてしまった深町。席で頬杖をついている高橋。それから怖い顔をした百瀬。間に挟まれた虎之助が百瀬を宥める。
「ももちゃん、南朋とまで喧嘩してどないするんよ。な〜南朋」
ホームルームの本鈴が鳴る。
「自分を犠牲にしてまで庇うのがいいこととは思えないけどね、俺は。南朋の事なかれ主義」
百瀬は小さな子供みたいにプイッと顔をそらして自席へと戻っていった。