23 不協和音 <ギフト:田中桔梗さんから>
<23話 あらすじ>
土曜日。
バスケ部の合同練習の相手は、以前祐樹が、失踪した親友・高木さとしを目撃した綾市のチーム。
もしかしたら、彼を知っている人に会えるかもしれない。
南朋の淡い期待は、思わぬ形で現実となる。
目が覚めるとすでに二段ベッドの上は空っぽだった。
俺は昔から眠りが浅い。
母が言うには、祐樹は遊んでいたかと思うと次の瞬間には突っ伏している、オンオフのはっきりした赤ん坊で、俺はその逆。
なかなか寝付かず、寝たと思ったら小さな物音ですぐ起きる。神経の過敏な赤ちゃんだったらしい。
そんな俺が、祐樹がはしごを降りるのにも気づかずに眠りこけていたなんて、よほど疲れが溜まっていたのだろうか。
思い返せば今週は、イレギュラーなことがたくさんあった。
リビングに向かうと、母は早くもお盆に乗った皿を食洗機に片付けていた。
「おはよう。祐樹は?」
「部活。展覧会用の制作があるんだってさ。さっき出たとこ」
ひとまず「ふーん」と気のない返事をして、母がカウンターに準備してくれている朝食をテーブルへ運んだ。
ずいぶんと早くに出たもんだ。部活ってことは、守さんも一緒だろうか。
昨日、電車に乗る前、祐樹は当たり前のように守さんの手を取っていた。
繋いだっていうよりは、掴んだという方が近いが。
「祐樹もだいぶ美術部員らしくなってきたね」
母の投げかけに心から同意できず、反射的に率直な意見を返した。
「どうかな。飯食う時しか座ってないようなヤツがじっと絵を描いてるなんて、俺にはうまくイメージできないけど」
「まあね。母さんも南朋が中学に入ったら二人でバスケするもんだと思ってたから、辞めてきた時はびっくりしたわ。でもきっと目覚めたのよ。アートに」
母には本当に祐樹が描くことに興味を持っているように見えるのだろうか。
「小学校の時の夏休みの宿題、青い画用紙をしわくちゃにして提出したの覚えてる? 海だって言い張って」
「斬新でいいじゃない」
「次の年は赤い画用紙で夕焼けだった。祐樹が魅力を感じてたのは制作時間が二秒で済むことだと思うけど」
興味のないことには見向きもしない。それで先生に叱られようが屁でもない。俺が知っている祐樹はそういうヤツだ。
中二の夏、祐樹は突然「飽きた」と言って夢中になってたバスケを捨て、美術部に顔を出すようになった。
高校でも継続して美術部で活動を続けている。
俺には祐樹の心変わりの事実が、未だうまく飲み込めていなかった。
母は鍋から味噌汁を注いで差し出した。
「ま、いいじゃない。それより今日の合同練習、まだ参加しちゃダメよ。あと一週間は体育の見学も継続なんだから」
わかってると返事して味噌汁を受け取り、手を合わせる。
左手でお椀を持つのも、もうなんてことはない。人間の回復力に感謝だ。
合同練習の相手の清水中は、うちのコーチの大学時代の後輩が指導している綾市のチームらしい。
コーチの言い方を借りれば「いまはまだ名を聞かないが、今後活躍するポテンシャルは十分に秘めているチーム」なのだそうだ。
祐樹がさとしと会ったのも綾市だ。
もしもさとしがバスケをやっていたら、きっと目立って活躍しているはずだ。
チームの中に誰か市の大会で彼を見て、覚えている人がいないだろうか。
俺は左手をグーパーさせて、昨日から天気が良ければそうしようと決めていたことを口にした。
「今日、自転車で帰ってくるわ。ずっと学校に置きっぱなしだったから。週明けからは自転車で通うつもり」
「そう? 診断書出してるんだから、楽しちゃえばいいのに。Suicaにもその分のお金入れてあるよ」
「もう痛みもないし、大丈夫だと思うんだ。無理そうなら、そんとき考える」
実は、深町の家に行くので使っちゃったからもうほとんど空なのだ。
自分の都合でしてることだから、追加で入金してくれとは言い出しづらい。
ネコのことも気になるけど、でも、それでも早くバスケに復帰したい。
洗面所で洗濯完了の電子音が鳴ると、カウンターの向こうの母はタオルで手を拭き、エプロンを引っ掛けた。
リビングを出ようとする母に、ある質問を投げかける。
「最近、不審者情報メールが届いてない? 例えば、電車で変な人が出たとか」
ふと守さんの昨日の発言を思い出したのだ。
「え。ないけど。駅でなんかあったの?」
「いや。人が話してたのを聞いただけ。ゲームのことだったのかも」
電車でヤバい人が出て一人じゃ危ないって、あれは単なるとっさの言い訳だったのだろうか。
「いろんな人が使うものだもんね。公共交通機関は。祐樹にも気をつけるよう言っとかなくちゃ」
洗濯物を取りに向かう母の背中に、この噂はソイツが出どころらしいけどね、と心の中でつぶやいた。
*
学校の正門前にある信号を渡ったところで、ちょうど学校の塀に沿って歩いてきていた虎之助と合流した。
今日は、紺地にオレンジの学年カラーが入った学校指定のジャージを着用している。
見学の俺も同じだ。運動するわけでもないのにジャージだなんて変な感じだけど。
互いにおはよと声をかけ合ったその時、虎之助が来たのとは反対側から自転車に乗った百瀬が息も絶え絶えになりながら飛び込んできた。
「よかっ……た。間に、あっ……た」
正門で急ブレーキをかけて自転車を降りる。校内では押して歩くルールだ。
虎之助が百瀬の自転車のカゴを覗き込む。
「ももちゃん、また寝坊なん。食ってすぐ動いたら腹イタくなるで」
籐籠風のバスケットには袋入りのバターロールが突っ込んであった。
齧りながらきたのか、袋の口は空いていて中にはもうふたつしか残っていない。
「だって、今日、土曜日だろ、目覚まし、が、さ。……お腹は、大丈夫。いつ、もの、ことだし。自転車、置いて、くる」
何がどう大丈夫なのだろうか。
「気をつけないと、しまいに事故るぞ」
人の真面目な忠告を聞き流して、百瀬は自転車を置きに駆け出した。
二年生の自転車置き場は正門から一番遠い。
虎之助が百瀬を待って歩みを止める。
「よっぽどのことがない限り変わらんのやろなぁ。あの性格は」
「三つ子の魂、百までっていうしな」
同意しながら、虎之助がテスト後に騒ぐのも毎度のことだし。と心の中でぼやく。
気づいてないだけで、俺にもあるのだろうか。わかっているのにどうしても繰り返してしまうことが。
見かけない紫のジャージの小集団が信号を渡ってくるのを見て、虎之助が自転車置き場に向かって手招きした。
「やべ。ももちゃん、はよ。清水中もう来てるで」
先頭のまだ現役大学生と言われてもおかしくないような見た目の小柄な男の人が俺らに向かって挨拶すると、紫ジャージの集団も「おはようございます」と声を揃える。
「バスケ部の合同練習にきました。清水中コーチの泉です。あの建物が体育館ですか」
ドーム型の屋根を指し尋ねてきたコーチに虎之助が「はい、そうです」と敬語で返事をする。
随分と人数が少ない。八人。全員揃ってこの人数なのだろうか。
だとすると学校では、五対五の実践練習ができないということになる。
コーチが礼を言うと生徒たちも後に続いた。
ふと、中でも一番背の高い、色白の少年に目が釘付けになる。
ひとりぼんやり体育館の屋根に顔を向けている、整った横顔の……。
「……さとし?」
呟きを拾い、少年がこちらを振り返った。瞳がまっすぐ俺の姿を捉え、微笑む。
まちがいない。さとし、高木さとしだ。まさか、会えるなんて!
「あのっ……」
叫び出しそうになっている俺に向かって、さとしは薄い唇の前に人差し指を立てて「静かに」とジェスチャーを送った。
それから、口の形で「あ・と・で・ね」と伝え、そのまま集団の後ろについて行ってしまう。
こっちの驚きに反し、極めて冷静な態度。
そうか。宮下中との合同練習が決まった時から、さとしの方は俺らがいることを予感していたんだ。
「百瀬。清水中バスケ部に、さとしが」
興奮して振り返って見た視線の先では、百瀬がバターロールを口に咥えたままフリーズしていた。
*
「ほら、言わんこっちゃないやんか。せっかくきれいに巻いてパンにしてもろたのに栄養にもなれんで、かわいそうに」
「……パンじゃなくて百瀬の心配してやれよ。トラ、対戦練習始まるから交代」
俺は開かれたトイレの個室の後ろで仁王立ちし、よく分からない意地悪を言っている虎之助の肩をぽんと叩いた。
「南朋。ちゃうねん、自分に触んなってももちゃんが……ほっとけとか、あっちいけとか、もうめちゃくちゃで」
さっきまで毒を吐いていた虎之助が、ほとんど半泣きになって俺の腕にしがみついた。
目が合うとポロポロ涙をこぼすのに絶句する。
「でも、どないしよう。ももちゃん、食べたもん全部吐いてしもた。顔も真っ青やし。ずっと震えとんねん」
体育館で清水中と正式に顔合わせをした直後、百瀬はその場に座り込んでしまった。
吐きそうと言うので隣にいた虎之助が百瀬を連れ出したのだが、ウォーミングアップが終わっても戻ってこない。
対戦練習を始めるから虎之助に代わって様子を見てくるよう言われ、見学の俺が交代しに来たのだが……あまり大丈夫ではないようだ。
ひたいにあぶら汗を滲ませた百瀬が窪んだ目をこちらに向ける。
「……うるさいなあ。いいから早く行きなよ。待たせてんだろ?」
何があったんだろう。虎之助が訴えた通り、百瀬の態度は異常なほどピリピリしている。
「ひ、ひとりで立たれへんくせに、置いてけるわけないやろっ」
「いたって逆に邪魔だから、行っていいって言ってんじゃん」
あまりの言い草に、虎之助が勢い込んで反論した。
「ゆーとくけど自業自得やで! 弱いくせにバカ喰いして爆走するから。人がどんだけ……」
「わかってるよ。心配してくれなんて、頼んでない」
ああ言えばこう言う。
これじゃ、虎之介の立つ背がない。
気遣ってくれていることくらい伝わっているだろうに。
「助けてくれた相手にかける言葉じゃないだろ、それ」
思いを踏みにじられたら辛くなることを、百瀬はよく知っているはずだ。
捻挫した俺に対して、今の虎之助と同じような態度をとっていたんだから。
俺が虎之助を庇うと、百瀬はさらに毒を吐いた。
「うざ。男のくせに、こんなことくらいで泣きついて。余裕ないのはこっちなのに、なんで人の気持ちまで……邪魔なだけだよ。トラなんか」
「うざいってなんや。……ももちゃんのアホッ!」
虎之助は百瀬を大声で怒鳴りつけると、涙で濡れていた目をジャージの袖口でゴシゴシ擦った。
「人に対して邪魔、邪魔って。さすがに呆れる。百瀬の、そういうとこ」
感情の抑制が下手くそなことはわかっている。
しんどいのは仕方がないし、同情はするけど、でも周囲に当たり散らしていい理由にはならない。
しかも男のくせに、なんて誰よりも百瀬自身が嫌っている言葉をわざとぶつけて、傷つけて。
突き放された百瀬は憑き物が取れたように、急にしおらしくなった。
「……ごめん。南朋」
「謝るなら、俺じゃなくてトラだろ」
せっかくさとしが来てるのに、練習には参加できないし、虎之助は泣いてるし。
百瀬の体調や機嫌までもが最悪で、こっちまで気が滅入ってきた。
引きずられても何もいいことはないってわかってるのに。
どうしてこんな時くらい平和でいさせてくれないんだ。
「ええで、南朋。ももちゃんは南朋に嫌われるのは怖いけど、俺のことはどーでもえーんや。いつどこ行くか分からん転勤族のよそもんやしな。そんでも楽しく過ごせる仲間やって大事に思ってきたけど……もう、ええわ」
いつになく沈んだ声で卑屈なことを呟いて、虎之助はトイレを飛び出していってしまった。
「トラ!」
どうしてこうなってしまうんだろう。いつだって俺は平和でいたいだけなのに。