15 黒いネコの友達2 <ギフト:天界音楽さんから>
いつもは自転車のカゴに突っ込んでいる通学用の肩掛けボストンバッグを、捻挫している左手に触れないように頭を潜らせて斜めがけにし、教室を出た。学校指定のカバンには二種類ある。深町や百瀬が使っているのはリュックだが、俺が使うのはたいがい肩掛けボストンバッグだ。
小田が怪我を気にかけてくれたのはありがたいことだ。二人が走って俺が後から行くという判断は的確だと思う。腫れはおさまりつつあり、常に意識が左手に向かってしまうみたいな痛みはもうないけれど、走ってぶつけたりしたらと思うと、ゾッとしない。
それにふたりが直接話を詰めてくれるのもいい。小田は控えめだけど芯のしっかりした子だから安心できるし、深町は女子だから、女友達といた方がいいと思うし。なにかと間に入るのは正直面倒だった。これでネコの件に関わらないですむようになれば、俺も百瀬と元のようにわだかまりなくいられる。なんの問題もなくなる。
放課後ネコの世話をするって深町と約束したけど、小田がいるならもう俺はお役御免ってことでいいんじゃないか? 動物病院に向かう必要もないのかも。うだうだ考えながら歩いているうちに目的の場所に辿り着いてしまう。
ガラス張りの待合室の外側には、昨日はなかった手書きのポスターが貼られていた。迷い猫という文字の下、金の鈴のついた赤い首輪をした黒ネコが金色の目を見開いて写っている。太字で首にある三日月型の白い毛が特徴と書いてある。やっぱり図書館にいたあのネコなんじゃないだろうか。
コンコンとガラスがノックされ、ポスターの裏側で長椅子に座っていた小田と目が合った。ちょうど呼ばれたところだったのか深町が席を立ち、小田が俺を手招きする。呼ばれたんだから、仕方がないよな。心の中で言い訳をして動物病院の扉を開いた。
「いいタイミングだったね」
小田がにこやかに迎え入れた向こうで、診察室の扉を押さえて深町がしかめっつらで手招きする。
「遅いよ」
いきなり文句を言われ、つい言い返してしまう。
「お前が時間を教えなかったからだろ」
「悪いのは私じゃない。話してる途中でどっかいったのは南朋だ」
「は? 何のことだよ」
「喧嘩はあと。ネコを迎えに来たんでしょ」
小田に止められて診察台の向こうの水色の上下を着た獣医さんの顔を見る。扉を閉めると、奥から同じ形で色違いの緑色の上下を着た動物看護師らしき人がネコを抱いて入ってきた。赤い首輪をした黒ネコは金色の目を丸くし視線をキョロキョロさまよわせている。
獣医さんは四角いメガネを持ち上げてカルテをめくった。
「黒ネコちゃんね。元気だよ。前にも話した横っ腹の傷も皮膚の状態がいい。このまま自然に良くなっていくでしょう。傷を舐めないようにしばらくはエリザベスカーラーの着用が必須だけどね」
後ろ足から台の上に下ろされた猫は餅のように長く伸びる。
腹に少しだけ毛の流れのおかしく見える箇所がある。これが傷だろうか。
「消毒はもういいの?」
傷に顔を近づけて深町が尋ねた。
「ああ。病院ではワセリンを塗ってたけど、家ではまあ無理しなくてもいいかな」
「そうか、よかった。で、エリザベスカーラーって?」
深町の問いに獣医さんはプラスチック製のカバーを円錐形に丸めて見せた。
「これね。ネコの首に巻いて二箇所ボタンを留める。一週間くらいつけっぱなしにして欲しい。さて、問題は耳だなあ」
「耳?」
「中がだいぶ荒れているから一日一回、できれば朝晩、左耳にこの薬を差してあげて欲しい。点耳薬というのだけど、こんなふうに背中側から耳を引いてちゅっと入れて揉んでやる」
獣医さんは簡単に手本を示す。ネコはおとなしくされるがままだ。俺たちがしても同じようにじっとしていてくれるだろうか。なんといってもヤツには尖った爪がある。不安が表情に出ていたのか、獣医さんが提案する。
「不安だったら後ろからタオルでくるんでやるといい。できたらご褒美をあげてね。ところで、もう警察には届出を出したかい?」
「遺失物届けと、あと保健所? にも、親が相談してくれてる」
深町の答えに頷き、獣医さんはネコにエリザベスカーラーをつける。それから大きく息をついた。
「首輪はあるけど連絡先の記入も、マイクロチップもなし。お手上げだよ。人慣れしてるから、大事に飼われていた仔だとは思うが。うちのSNSでも流したけれど、いまのところ反応はないな。一緒に来た君たちが、預かってくれるのかな?」
獣医さんは俺と小田とを交互に見た。俺は手のひらを小田に向けて指した。
「えっと、一応彼女が候補です。俺はマンションだから飼えなくて」
「実は、私も学校で話を聞いたばかりで、これから親に相談するところです。できれば力になりたいと思っていますが」
「ふむ。じゃあ、退院後は……」
獣医さんは少し戸惑った目を深町に向けた。
「うちのガレージにウサギの古いケージを捨てずに残してあるから、一旦はそこで世話をする。家にはあげられないけど」
「ガレージかあ。日陰で風通しのいいところを選んであげないと。今日はネコを運ぶカゴかなんか持ってきてる?」
深町が大きく首を振ると、獣医さんはそばの看護師さんにキャリーバッグを持ってくるよう指示を出した。
「これを貸し出すから、明日の学校帰りに返してください。それから今回のことは緊急特別対応。他言無用でね。通常は保護した人に医療費を負担してもらうことになっているからね。みんなに同じことをしたら潰れてしまう。次かかる時は有料だよ」
「はい」
「でも何かの時はちゃんと連絡してね。ああ。あとお家の人にも帰ったら電話くれるように言って。無理して病院まで来なくてもいいから」
深町は黙って頷いた。
ネコはおとなしくバッグに入り丸くなった。エリザベスカーラーに首を固定されて窮屈そうだ。
「ありがとうございました」
俺たちは深々と頭を下げ、診察室を出る。出しなに深町は猫の入ったバッグを扉にぶつけてぐるっと回転させた。さらに膝で蹴りそうになり小田が悲鳴をあげる。自分の身体の扱いでさえ怪しい深町に、少なくとも四、五キロはあるだろうネコの入ったバッグをうまく扱えるはずがない。
「俺が持つよ」
深町の手からバッグを取り上げ、肩にかけた。左手を怪我しているとはいえ、俺の方がまだ余力がある。点耳薬を受け取り、受付にある時計を見るとまだ五時過ぎだ。
駅前商店街はそれなりに人通りがあるので、ネコの入ったバッグで幅をとる俺はふたりの前を歩いた。後ろで小田がぼそっとこぼす。
「ネコちゃんと触れ合いたかったな」
病院は処置するところなのだから仕方がないのだけれど、俺たちはまだ一度も黒ネコに触れていなかった。
「小田さん、この後うちに来ませんか」
背後で深町が小田に誘いかけている声が聞こえて、びっくりする。敬語だが、教室とはうって変わって、積極的じゃないか。
「いいの? 行く行く!」
小田も乗り気だ。俺のいない間に、ふたりに何かうちとけるきっかけでもあったのだろうか。
ロータリーが近づきSuicaを取り出しながら、小田にその準備がないだろうことに思い至った。俺のいたところでは深町が家の場所について話していた様子はない。高橋が噂をしていたから予測はついているかもしれないが。
「深町さんは電車通学なんだっけ。何駅まで行くの?」
小田の言葉に深町がハッとして立ち止まった。それから気まずそうに俯いてボソボソと話し出す。
「綾川駅。今の中学には校区外から通っていて、遠いから」
「わかった。切符買ってくる。私、Suica持ち歩いてなくて。綾川駅までいくらかな」
近くの券売機の前に立って目を細め、小田は路線図の文字を追った。驚いた顔を見せないように深町に気を遣っているのだろう。
「二百十円」
小田の後ろから深町が料金を読み上げる。ふたりの背中を見ながら、俺は深町が校区外からわざわざ越境してうちの学校に通っているのはなぜなんだろうと考えていた。
彼女のような、人と親しくなるのに時間のかかりそうな子が、小学校からの知り合いが誰一人いない中学にわざわざ町の外から越境してまで入るのには、高橋の言うようになにかしらそうするのも致し方ないと認められるだけの理由があるんじゃないか。
動物病院が迷い猫の怪我を無償で診ると思われては困るように、希望すれば誰でもが校区外から自由に通えると思われては学校も困るはずだ。
「大葉くん? 行こう」
考え事をしているうちにふたりは改札の中にいた。綾川方面行きの電車が入るとアナウンスが入り、俺は慌てて改札を通過する。乗り場は階段を上った向こう側だ。ネコに負担をかけないためにもゆっくり行きたい。走らなくてもなんとか間に合うはずだ。
滑り込みで入った車内はそれほど混んではいなかったけど、並んで空いている座席はなかった。ネコを、扉横の座席との間のスペースに下ろし、バーを握る。それから窓の外の線路と並行して走っている道をぼんやり眺めた。
「明日の放課後から耳の薬差すの、誰か手伝える?」
「え?」
深町の言葉を小田が聞き返す。電車の中では普段より耳を傾けていないとよく聞こえない。
「明日薬やるの手伝えるかってさ」
俺が同じことを言い直すと、なぜか深町は頬を膨らませた。
「それは今、私が言ったでしょ」
「聞こえなかったみたいだから、伝えてやったんだろ」
「また。私のせいにする」
「またってなんだよ。なにを拗ねてんだ」
今日はずっと深町にあたられているような気がする。
「だって、南朋は私ができないダメな子みたいにいうだろう。朝だって、予約時間伝える前に信号渡ったのは南朋なのに、私のせいになってるし。放課後だって自分で言うつもりだったのに、なんで声かけないんだって、怒るし」
信号? ああ。朝、虎之助に見られると思って慌てた時か。確かに深町が話しているのを振り切った覚えがあった。なぜか小田がふふふっと声を上げて笑う。
「ごめん。漫才みたいだなって思って。ふたり、すごく仲がいいんだ」
「「よくない!」」
図らずも声が重なってしまう。
「だって、大葉くんのこと名前で呼ぶ女の子なんて、他にいないよ?」
小田にはからかっているつもりなんてないのだろう。でも自然と顔に熱が上がってくる。いつかはちゃんと訂正しておかなくてはいけないと思っていたけれど、きっかけを待っている間に恐れていたことが起きてしまった。
「誤解だ。仲がいいから呼ばれてるわけじゃない。深町と口を聞いたのなんか、昨日が初めてだし」
俺の言っていることはすべて事実だ。深町とはまだその程度の仲でしかない。でも目の前でそれを口にすることはつまり、深町と距離を取ろうとすること同然で。見ると深町は少し強張った顔をしていた。
「……別に仲が悪い訳でもないけど。悪かったら来ないし」
フォローを入れるが、よくよく考えると全否定してたのは深町も同じだ。
「なんか。俺らが三人でいるのってなんだか不思議だな」
それとなく話を変えてごまかす。普段、個人的には接点がなかったのだから、それほどおかしなことは言ってないはずだ。足元のバッグの中からニャウ、とネコが鳴いて上部の網目部分から金色の目を向けた。
「三人じゃなくて、四人……三人と一匹だって言ってる」
小田が勝手な通訳をし、バッグの網目の上からネコの額を指で撫でた。それから顔を上げて俺と深町に微笑みかける。
「私たちが近づけたのは黒ネコちゃんのおかげだね。私たち、黒いネコの友達だ」
車窓から差す陽の光に照らされた小田の顔があまりにキラキラしていたので、ただ頷くことしかできなくて、きっと俺はよそから見ると挙動不審だったんじゃないかと思う。