憎悪と表裏一体の愛3
繊細なレリーフの施された、豪奢な飾り格子のついた嵌め殺しの窓。
そこから覗く空はどんよりとした鈍い灰色で、空を多い尽くす雲からは一筋の陽光すらも差し込まない。
天鵞絨張りされた深紅色の、体に負荷がかからない程度に沈み込むソファーは最高品質の物だと分かる。
目の前に置かれた磨き抜かれた艶のある飴色のテーブルにはこれまた細かな装飾が施されていて、これだけで芸術品の域に達している。
テーブルの上に置かれた真っ白な茶器には色鮮やかな花が品良く描かれていて、注がれた紅茶からは馥郁とした香りが漂ってくる。
隣にある年代物の四段重ねのケーキスタンドにはマカロンにスコーンにクロテッドクリーム、ガトーショコラにスフレチーズケーキ、ベリーのタルトやカップケーキなどのお菓子の他に軽食として小さなサンドイッチが盛られている。
見た目も綺麗で大変美味しそうだ。
彼方此方へのコネクションや財力が半端なものではない南雲晴臣が雇った料理人は全て一級なのだろう。
「はあ……」
重たい溜息が唇から零れ落ちる。
食べたいと思うし美味しそうだとも思うけれど、どれにも手を付けようという気分にはなれない。
理由は毒殺とか自白剤のことを心配しているとかではなくて、ただ単に本当に食べる気が起きないだけだ。
此処はラグナロクの領域なのだから毒殺なんてまどろっこしい真似をするまでもなく私のことは楽に殺せるし、私が死んだという事実を消すのも楽勝。
私はあの日から三国に監禁されている(特に拒絶はしていない)状態だったから行方も生死も不明で、あの三人を除いて私の所在を知る者はいないから、存在を消すのは至極簡単。
生きているかも分からない人間を殺して存在を抹消するなど裏で有名な彼らには日常茶飯事な筈。
他の可能性である自白剤は無理矢理飲ませればいいだけだし、それでも私が吐かないならば尋問でも拷問でもすればよいだけのこと。
裏関係者である彼らにとって、一般人の私を痛め付けることは赤子の手を捻るように簡単なこと。
それをしないということは、監禁されているとはいえ私は客人扱い。
客室に監禁して衣住食の全てが保証されて、それどころかケーキなど嗜好品の類も用意されて。
ほぼ無理矢理攫った癖にこういう扱いを受けては、此処からどうにかして脱走しようとかいう考えもだんだん削り取られてくる。
此処には何人もの使用人が常駐しているから三国の元に居た時のように料理や掃除をする必要もない。
つまり、暇があり過ぎるのだ。
その所為で何かを考える必要がない頭は、気を失う前に見せた三国のことを繰り返し思い出す。
必死の形相で此方に伸ばされた腕は私には届かない。
ブラウンの瞳はギリギリまで見開かれ、困惑と不安、何よりも私を失うかもしれないという恐怖が浮かぶ。
開かれた口から零れた私の名前はまるで悲痛な絶叫のようで。
その様子に安心してと言いたいのに、ぐらりと傾いだ体は誰かに支えられる。
瞼を閉じる最後に見えたのは、狂気を滲ませた猛獣のような瞳。
本人の意思とは関係なく繰り返される記憶を眺めている間に、いつの間にか閉じていた瞼をゆっくりと上げる。
嵌め殺しの窓から見える空は相変わらずの重苦しい灰色で、今にも雨が降り注ぎそうだ。
淹れたてだった紅茶は流石に冷め切っていて、白い湯気はもう立っていなかった。
一つ溜息を吐き出すと、コンコンと軽いノック音が二回響く。
「…誰?」
「私だよ」
「オレオレ詐欺のつもりですか?ちゃんと名前を述べて下さい」
「はあ、南雲晴臣だよ」
「入って下さって構いません」
意趣返しとしてほんのちょっとの嫌がらせをすると、皺の刻まれた柔和な顔に苦笑を浮かべた南雲晴臣を入って来た。
今日も相変わらずピシッと糊のきいた黒いスーツに無地のネクタイを締めていて、見ている此方としては非常に堅苦しいことこの上ない。
せめてこの部屋に来る時くらいはラフな格好をして欲しいものだ南雲晴臣が訪ねて来る度に心の内で思う。
「この部屋に来れるのは私くらいなんだから、別に確認を取る必要はないんじゃないかな?」
「使用人の方々が食事を運んで来たり着替えを持って来たりしますので、一応は確認を取っているだけですが?」
「その度にあんなことをしているのかい?」
訝しげな顔をした南雲晴臣は、自分のところにそのような報告が上がっていないのだろうか、疑うような声色になった。
「いいえ。声の高低とか質感である程度の判別はつきますから、貴方だと分かった場合にのみ限り嫌がらせのようなことをしているだけです」
「……それほど私が嫌いかい?」
「自分を攫って監禁した人間、つまりは誘拐犯を好きになれる人間は珍しいのでは?それこそストックホルム症候群にでもならない限りは」
はっ、と鼻で嘲笑って、私は椅子に座っているから位置的には見下ろされている筈なのに、南雲晴臣を思いっきり見下すような視線を遣る。
更に深められた苦笑にさっいまで沈んでいた気分が僅かに浮上するのがわかる。
「確かにそうだろうね。けど、君の場合はそのストックホルム症候群にすらなりそうにないけど」
「当たり前です。どれほど時間がかかろうとも三国たちが私を助けに来てくれるというのは確定事項ですから、それまでの間ちょっと長めの旅行しているくらいの気分でしかありませんからね」
「旅行……攫われて監禁されるのが旅行…」
「ものの例えですよ。本当に旅行に行けるとするのならば、こんな堅苦しい服装のお腹真っ黒なおじさんが数時間おきにやって来るような場所なんて絶対に選びませんから」
「お腹真っ黒って、」
「事実でしょう。腹黒って言葉を知っていますか?」
止めの一言を言ってやると、南雲晴臣はそっと私から視線を逸らして明後日の方向を見ている。
今までを振り返ってみて思い当たることが多過ぎるのだろう。
ついでに言うとするならば、真性の腹黒はこの程度をさらりと受け流して屁理屈で反論するのが常(三国のように)なのだから、この人は腹黒になり切れていない腹黒だ。
中途半端とも言う。
まあ、三国に腹黒さで敵うような人間がいたら私は怖くて安心なんて欠片もできないから、南雲晴臣程度の方が逆に助かる。
疲れたように溜息をついた南雲晴臣は、口元にデフォルトとなりつつある苦笑を浮かべて口を開いた。
「それにしても、君は桐生三国が助けに来てくれると確信しているんですね」
「勿論です。三国は絶対に来てくれますし、梓ちゃんや弓弦さんも三国に頼まれて来てくれる筈です」
「そこまで信頼しているんだね」
「いいえ、信頼ではありませんよ」
「え?」
何を言っているんだこいつは、と言いた気な表情をした南雲晴臣に薄ら笑いを浮かべて見せる。
私は三国のことを信頼なんてしていない。
だって、それ以上に厄介なものをお互いに持っているから。
「これは依存です。より正確に言うならば相互依存関係です。三国は私のことを決して手離したりしないでしょう。もしも何かやらかして死ぬ時は私も道連れにすると宣言した三国が、私をこんなところに放っておく筈がありませんから。梓ちゃんや弓弦さんも私のことを大切にしてくれますし、何よりあの三国が執着した子としての私を必要としていますからね。貴方が私を無傷で攫ったという時点で貴方が私を殺さないということを彼らは理解しているでしょうから、此処を見付けて私を助け出してくれます」
すらすらと私が考えていることを述べると、南雲晴臣は阿呆みたいにポカンと口を開けて唖然とした顔を晒す。
この人はこんな風に簡単に思っていることを顔に出して、魑魅魍魎の跋扈する裏社会や政界でやって行けているのかと他人事ながら心配になってしまった。
けれど、それを一瞬にして掻き消すと、南雲晴臣は普段とは違って真剣な顔をして私を見てくる。
「………三国君が死んでいたとしたら、どうするの?」
「あり得ません。貴方はもう既に知っているでしょうが、私は三国に“あの日”に起こったことを何一つ話していません。それなのに、あいつは私が何に怯えているかを悟っている。選りに選ってそれを知る三国が私を置いて死ぬなんてあり得ない」
はっきりと言い切ると、南雲晴臣は何かを考え込む様子で押し黙った。
多分今日はもうこれで戻るだろう。
視線を遣った窓の向こうの空は、灰色から血のように赤い茜色に変わっていた。
「…待っているから」
囚われの姫君なんて柄じゃないけど、私は彼らが助けに来てくれるのを待つしかない。
それとも、私が課せられた役割を果たすのが早いのだろうか。