束の間の幸福2
百八の煩悩を払うという除夜の鐘が遠くで鳴る音が聞こえてくる。
高層マンションの上階である此処まで鐘の音が響いてくるのだから、その音量は相当なものだろう。
鐘の音を近くで聞いている人たちは耳が痛くならなければいいが。
だがしかし、今はそんなことよりも目の前にいる三国に新年の挨拶をしなければならない。
この間業者から帰って来ばかりのたカーペットの上に置かれた炬燵にゴロゴロと寝転がって二人で大晦日の特別番組を見ていたが、私は起き上がって正座の形に姿勢を正す。
それを見た三国も慌てて同様に姿勢を正した。
「新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いします」
「新年明けましておめでとうございます。こちらこそどうぞ宜しくお願いします」
深々と頭を下げて暫く待つ。
こういうのはちゃんとやらなければいけないと両親、それと祖父母に口酸っぱく何度も言われていたから、所作は全て体が覚えていた。
「それじゃあ、御節料理を食べましょうか。重箱を取ってくるわね」
「なら俺はお吸い物でもよそった方がいいかな?」
「それならお願いするね」
「これくらいのことなら出来るから任せといて」
幾ら家事が苦手とはいえ不器用という類の人間ではない三国は、ちょっとした料理の手伝いならできるし、掃除は私が仕込んだので其処らのぐうたらな主婦には決して劣らない。
漆塗りのお椀をシンクの上にある棚から二つ取り出して、お鍋の中に入っていたお吸い物をよそり出した三国を横目に、私は重箱の蓋を開けてお皿を並べ始める。
重箱の中には伊達巻や栗きんとんに黒豆、数の子、かまぼこが丁寧に陳列されている。
そのおかずの大部分は、私が三国に買って貰った料理本と睨めっこしながら頑張って手作りしたものだ。
大食漢の三国も満足してくれるといいが、この量ならば明日には食べ終えてしまう気がするので三が日までは持たないだろう。
それについてはもう既に諦めつつあるが、正月の間はちょっとは楽をしたかったというのが本音だ。
「はい、これが紗綾のだよ」
「ありがとう」
「新年初っ端から、しかも深夜に御節料理を食べれるとは思わなかったよ」
「出来ることなら初詣に行きたいけど、無理なのよね?」
「…………俺が常に張り付いていてもいいのなら連れてってあげるよ。そう遠くの神社へは連れて行けないけどね」
「え、行っていいの?」
三国のことだから問答無用で却下するのではないかと確信していたが、眉間に深い皺を刻みながらも渋々と頷いた三国は私の生み出した幻覚ではないだろうか。
思わず手を伸ばして男のくせにすべすべとした三国の頬に触れる。
「…えっと、何かな?」
「いや、これは私の生み出した都合の良い幻覚ではないかと心配になっちゃって、つい」
思ったままを伝えると、三国は困ったような顔をして、頬に触れたままの私の手に自分の手を重ねた。
そのまま私の手に頬を摺り寄せてくるその姿は猫、いや、犬っぽい。
三国がもしも犬だったならば、飼い主に忠実な忠犬ではなくて飼い主の手に負えない狂犬だろう。
そう考えてクスクスと忍び笑いを漏らすと、三国は私が笑っている理由が分からないようできょとんと目を見開いている。
「何でもないよ。それより、本当に初詣に行っていいの?」
「嗚呼。情報操作とか色々やっておいまから、少しくらいの外出なら問題無いと思う」
何やら情報操作という随分と不穏な単語が聞こえた気がするが、綺麗さっぱり無視をする。
不穏であろうが何であろうが、出掛けられる可能性があるということの方が私にとってはかなり大事で重大なことなのだから。
「なら!」
「但し!」
「は、はい」
「絶対に俺の側から離れないこと。一人でふらふらと歩いていかないこと。はぐれたりしないこと。それが守れるのなら連れて行ってあげる」
「分かった!絶対守る!必ず守るから、初詣に連れて行って!」
何故私がここまで必死になっているかというと、流石に何ヶ月もの間部屋の中に閉じ込められていると気が滅入って鬱々とした気分になるからであり、そろそろ気分転換をしたいと思っていたからだ。
三国に攫われる前も半引き篭もりだった私だから何ヶ月もの監禁生活に耐えられたのだが、この頃ちょっとお出掛けくらいはしたいなという気持ちになっていたのだ。
そんな訳で、この絶好の機会を逃すわけにはいかない。
まるで獲物に食らいつく肉食獣のような勢いで三国ににじり寄って、必死の形相で訴えかける。
それに苦笑を浮かべる三国は近寄って来た私の頭を優しく撫でる。
「分かった。朝一で近くの神社に初詣に行こうか。けど、居られるのは三十分くらいだからね」
「それでも全然構わないわ!少しでも外に出られるということ自体が嬉しいのよ!」
「…………家に居るのはそんなに息が詰まる?」
「私は元々引き篭もりだからそうでもないけど、何ヶ月も引き篭もっていると少しは外に出たくなるのよ。まあ、私の場合は数ヶ月に一回のペースで構わないけどね」
欲しいものはいつの間にか全部三国が買ってくれているしね、と続けるが、思考の海に沈んでいたらしい三国は形の綺麗な顎に手を当てて深々と考え込んでいる。
美形は何をしても絵になるな、と嫉妬混じりに思いつつ、三国が全て食らい尽くしてしまう前に食べておこうと私は重箱に箸を伸ばした。
最初は伊達巻だ。
久し振りに作ったが色も形も上手くいったので見た目は上出来。
味はどうかな、らしくもなくとワクワクしながら口に運ぶ。
「ん、美味しい。伊達巻はやっぱり甘い方がいいわよね」
パサついてなくてしっとりとしていて、程よい甘さが口の中に広がる。
思いの外良く出来た伊達巻を嬉しく思いながら、次は隣に並べてある黒豆に箸を伸ばした。
黒豆は私が御節料理の中で一番好きな料理だ。
艶艶した黒豆を三粒ほどお皿に取ってから一粒ずつ口に運ぶ。
それからもニコニコしながら御節料理を食べれていると、だいたい十分ほど経ったのだろうか。
漸く思考の海から浮上してきた三国が祝い箸を手に取って、私が少々食べたとはいえ、まだ沢山残っている重箱の中からごっそりとおかずを持っていく。
半分は消えたかもしれない。
「お、この栗きんとん美味しいね」
「それは良かった。栗きんとんは初めて作ったから少し心配だったの。でも、その様子なら平気そうね」
「うん。紗綾も食べてみなよ」
「そうする」
微笑む三国に促されて私も栗きんとんを口に含む。
柔らかい食感に甘過ぎない味付け、栗の良い香りと初めてにしては結構上手に作れたと思う。
「これを食べて少し休んだら、初詣に行くとしようか」
「そうしましょう」
もしも私がここで三国と共に初詣に行かなければ。
もしも私が初詣に行きたいなんて言わなければ。
もしも私が三国に外に出たいなんて言わなければ。
もしも三国が私に外に出ることを許可しなければ。
あんなことは起こらなかったのだろうか。
この不自然なまでに穏やかな生活はまだ続いていたのだろうか。
私は普段通りに三国の隣で笑っていたのだろうか。
私には分からない。
もう何も分からない。
凍り付いてしまった私の心では。
もう何も感じられない。
後は只管に眠るだけ。