束の間の幸福
キッチンの掃除は終わった。
水垢も落としてシンクはピカピカだし、布巾やマグカップ、お皿も漂白剤に浸けているから、ある程度の時間が経ったら後で洗えばいい。
フローリングは何時もの掃除でやっているからそこまで汚くはないが、折角だからとウエットタイプのフローリングワイパーで粘着質な汚れも取ってからワックスを塗った。
カーテンやカーペットは業者に頼んで洗ってもらっているし、普段は手が届かなくてできない窓の上の方もちゃんと拭けたし、お風呂場に発生している小さな黒カビや、ついつい忘れがちになる水垢を全部とって清潔になった。
一段と綺麗になった室内をぐるりと見回して達成感に浸る。
年末の大掃除を今日やってしまったから、当日はさっと掃除して終わらせることができるだろう。
そうすれば新年一番最初に食べる御節料理に手間をかけて、結構豪華にすることができると思う。
ついでに年越し蕎麦に時間をかけてもいいかもしれない。
桜海老に玉ねぎに人参にミツバ、意外な具かもしれないがトウモロコシも入れた豪勢なかき揚げを作ろう。
柄にもなくウキウキしながら掃除の後片付けをしていると、背後から死にかけの老人みたいな皺がれた声が聞こえてきた。
「……お腹、すいた…」
ワックスを塗った御蔭で艶艶と輝いているフローリングに寝転がっているのは、私が大掃除を強制的に手伝わせた三国だ。
何時もは拭けない高い窓が拭けた理由は、身長が百八十センチメートルを越えている三国がいたからこそ。
掃除が捗ったし助かったからお礼を言いたいと思ってはいるが、デカイ人間が寝っ転がっているのははっきり言って邪魔だ。
いくら部屋が広いとはいえ、気分的になんか溜息をつきたくなる。
お腹がすき過ぎていて動けないらしい三国の側に立って、三国が直ぐに回復するであろう言葉を告げる。
「今から何か作るつもりだけど、三国は何が食べたい?」
「和食!できることなら炊き込みご飯とか焼き魚とかが食べたい!」
「白米でセットしちゃったから炊き込みご飯は無理だけど、混ぜ込みご飯ならできるわよ?」
「それでお願い!」
和食が大好きな三国はブラウンの瞳をキラキラと輝かせている。
まさしく腹ペコな子供のような表情に苦笑を浮かべるが、自分が作ったご飯をこんなにも心待ちにしてくれている人を邪険にはできない。
いつの間にか優しい微笑みを浮かべていることに気が付かずに、私はほんの少しだけ埃がついた三国のサラサラした金髪を撫でる。
そういえば、三国にこの髪の毛が地毛だと聞かされた時は心底驚いたことを思い出しながら。
「はいはい。それじゃあ、この間弓弦さんから貰った塩鯖を焼いて、お味噌汁は豆腐と大根と油揚げにして、ご飯は五目飯にしましょうか」
「よっしゃあ!」
「作っておくから、三国はさっさとお風呂に入って来てね」
「紗綾は?」
「私はお風呂場を掃除をした時についでに入っちゃったから」
「了解!楽しみにしているから!」
体を跳ね上げるようにして一瞬で立ち上がる様は、流石暗殺者とか殺人鬼をやっているだけあって身体能力が異様に高いというか身が軽いな、と何気にくだらないことを思う。
それよりも、三国には一つ注意をしておかないと。
「それは構わないけど、慌てて出てこないでよね。早過ぎるとご飯を作る時間が足りなくなるから」
「分かった。ゆっくり湯船に浸かってくるよ」
「そうしてちょうだい」
意気揚々とお風呂場へ向かう三国は可愛らしいというか幼いというか、見ていてなんか和む。
「さてと、私も早くご飯を作りましょうか」
キッチンに置いてある炊飯器は朝の内にセットしておいたから、ご飯は既に炊けている。
混ぜ込み用の椎茸に人参、油揚げなど様々な具材を切り刻んで、醤油と出汁とみりんで味付けをする。
野菜の味をタレに染み込ませるために少しだけ時間をおいておくのが、混ぜ込みご飯のポイントだ。
その間に冷蔵庫から豆腐と大根を取り出す。
水を張った鍋を火にかける。
隣で大根を短冊切りにして、豆腐を一口サイズに切っていく。
油揚げは混ぜ込み用のタレを作っていた時についでに切ってあって、今はまな板の端っこに盛られている。
「大根を投入〜」
何と無くで切っていたら結構な量になった大根を、まだ熱湯になっていないお鍋の中へ放り込む。
水の状態からじっくりと火を通した方が大根ら柔らかくなるからだ。
「さてと、塩鯖はチルド室だったかな?……お、当たりだ」
冷蔵庫のチルド室からこの間弓弦さんに貰った塩鯖を取り出す。
何でも梓ちゃんと二人で一緒に仕事に行った(デートの間違いではないかと私と三国は密かに思っている)時に買ったものらしい。
魚のまんまではなくて切り身にされているのはありがたい。
昔にお母さんから習ったから魚を捌くことはできるが、捌くのは意外と腕力を使うので結構疲れるから進んでやりたくはないのだ。
今みたいに掃除の所為で疲れている時は尚更。
「グリルで焼けばいいよね」
魚の切り身を四枚取り出す。
私は一枚でいいのだが、三国のあの調子だと三枚くらいはぺろりと平らげてしまいそうな気がする。
「そろそろお湯は沸いたかしら」
グリルに時間と温度をセットして四枚の塩鯖の切り身を並べた後、火にかけて蓋をしていたお鍋から湯気が上がっているのが見えた。
そっと蓋を取ってみると、もう既に沸騰している状態だった。
固くないかどうかみる為にお箸で刺してみた大根も柔らかくなっていたから、豆腐と油揚げを入れて出汁の素を加え、味噌を溶かしていく。
ふわりと味噌のいい香りが漂った。
「次は五目飯ね」
ある程度時間をおいたから椎茸や人参に味が染み込んだらしく、色が茶色っぽくなっていた。
熱々のご飯をボールに移して、混ぜ込みご飯のタレを投入する。
冷めないうちに手早くしゃもじで混ぜていくと、此処にやって来てから見る回数の多くなった五目飯の混ぜ込みご飯が姿を現した。
三国はこの五目飯が大好きなようでかなりの頻度で私に注文してくるから、いつの間にか作るのは相当上達していると思う。
「お味噌汁もいい感じだし、魚も後少しで焼けそうね」
ボールの中の五目飯をそれぞれのお茶碗によそり、まだ湯気が立っているお味噌汁もお椀によそる。
若干焦げ目がついた魚も脂を垂らしながらじゅわじゅわと音を立てていて、後もう少しで焼けそうだ。
この分なら三国がお風呂から出て来る前にご飯を作り終えることができそうだ。
「お皿は、これでいいよね」
シンクの上に設置されている棚から横長のお皿を取り出す。
魚をよそる時などに重宝しているお皿だ。
グリルが焼き終わったことを教える音を鳴らし始めたので、取っ手を引いて塩鯖の切り身を取り出した。
茶色の焦げ目がついた、いい匂いを漂わせる美味しそうに焼き上がった魚がお皿に乗せられる。
「よし、これで完成」
器によそったご飯の数々をお盆に乗せて、食事用のテーブルに運ぶ。
全てを並び終えた時に、お風呂から上がったらしい三国が首に白いタオルをかけたまま裸足でやって来た。
「お、美味しそう!」
「私が一度でも不味いご飯を作ったことがある?」
「いや、ないね」
心底嬉しそうな、というよりはウキウキした顔をする三国は自分の紺色のお箸を取って手を合わせた。
私もそれに合わせて赤色のお箸を手に取る。
「いただきます」
「いただきます」
最初の頃の三国はご飯を食べる時の挨拶を殆ど言わなかったので、それはいけないと思った私が挨拶をしなければご飯を食べさせないと軽く脅して以来、ちゃんと毎回言うようになったのだ。
「相変わらず紗綾のご飯は美味しいな」
「お褒めに預かり光栄です。これでも前から料理は得意だったからね」
「そっか」
三国は私と二、三言言い交わした後はもくもくと食べ続けている。
しかも凄まじいスピードだ。
そんなに急がなくてもご飯は無くならないと前に言ったが、こればっかりは治らなかったから諦めている。
代わりにしっかりと噛むように教え込んではいるが。
「ご飯のお代わりはいる?」
「もらう」
「わかった」
三国の、私のものよりも一回り以上大きい空っぽのお茶碗を受け取り、椅子から立ち上がってキッチンに置いてあるボールの元まで行き、入れっぱなしの五目飯をまたよそる。
大盛りというほどではないが普通より多くよそったお茶碗はそこそこ重さがある。
「はい」
「ありがとう」
それだけを告げると三国はまたもくもくとご飯を食べ始めた。
十代後半の食べ盛りの息子を見守る母親のような眼差しになっている気がするが、自分が作ったご飯をこれだけ食べてもらえるのは嬉しい。
思わずニコニコしながら私もお茶碗を再び手に取って、混ぜ込みご飯を食べる。
明日も和食にしてあげた方がいいかもしれない。