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無題

作者:

 

 

 人魚は人を食べるんだよ、と、近所のおばさんに脅されてからというもの。私は遠目に海を眺めることしかできなくなった。この地方の人魚伝説を信じているわけでもないのだけれど、何故か、恐ろしさというより嫌悪感を感じるようになった。


「自分に魅入った相手を餌にするなんて、ひどくない?」

「……普通じゃないか?」


 彼は味噌汁を口に流し込み、こちらの話をも流そうとしている。私は箸と茶碗を持ったままに彼を睨む。


「惚れられてるのをいい事に食べちゃうんだよ。ひどいよ」

「惚れたら負けとも言うしな。普通じゃないか?」


 普通でたまるか。


「じゃあ、あなたも私を食べるんだ」


 椀越しにちらっとこちらを見る彼。何故か困ったような、照れ臭そうな顔をしている。


「……駄目なのか?」


 話が食い違っている。


「そうじゃなくて。陥れるって意味だよ」

「ああ、なんだ」

「なんだじゃなくて……」


 彼は空の椀をちゃぶ台に置き、両手を合わせて「ごちそうさま」と一言。そして、小さく鼻から息を吐き出して呆れたように私を見やる。


「わかったわかった。だったら、食べられるのは俺だ。俺の負けだ」

「どういうこと」

「それくらい、お前に惚れてるってことだよ」


 真剣な眼差しで言われわたわたしていると、彼は立ち上がって側にかけていた作業着を手に取った。


「あ、何か買ってくるもんない? 今日町に出るんだけど」

「……葱」

「だけ?」

「だけ」


 声色で「不機嫌ですよ」と知らしめるも、彼は知らん顔で作業着のチャックを閉めている。私は茶碗を睨んでご飯を口に運んだ。


「じゃあ、行ってくるよ」


 彼は私の頭を軽く撫でて、居間から出て行った。私は箸をちゃぶ台に叩き置いて勢いよく振り返る。


「馬鹿ー!」

「行ってきまーす」


 玄関から遠い返事が聞こえると、引き戸が閉まる音がした。私は小さくなってゆく彼の足音を聞いてから、一人の食卓でご飯をかっ込んだ。

 いつもそうだ。はぐらかすように私を困らせては飄々として。手玉に取られているようでどうも悔しい。同い年だというのに、何故こうも差ができてしまったのか。

 この島へ来てもうすぐ一年。彼は漁で稼ぎ、私は島に残って家事をする。無人販売の八百屋に行くとたまに人に会うのだが、そのほとんどが老人や中年のおばさん。若者は皆、本島へ出ているらしい。どうしてこんな所へ来たのか彼に問いかけたところ、漁師になりたかったから、としか答えなかった。彼の目は遠くて、もっと違う答えがあるのかもしれないと思ったのだけれど。どうして私も彼についてきたのかよくわからなかったので、それ以上深くは聞かずにおいた。

 思えば、暇があれば海を眺めるだけの日々。飽きて島を飛び出しても誰も不思議に思わないだろうに、どうして若い夫婦がこんな島で難なく暮らしているのか、住人達は不思議がるようでいて感心していたようだった。でも、何をするわけでもないのに毎日が満ち足りて感じるのは彼がいるからに他ならない。住人達が不思議がったり感心したりするような立派な理由など、少なくとも私にはないのだ。


「またここにいたのか」


 日が沈む海を眺めていると、後ろから声がした。誰かはわかっているものだから、振り返る必要もない。彼は「よっ」と小さく声を漏らして私の隣に腰掛ける。

 誰もいない浜辺。今日は風もなく、海は静かだ。向こうには黒い影になった岩が海から頭を出している。あれを私は、人魚の台座と呼んでいる。


「まだ拗ねてんの」

「別に」


 私は岩を見つめてぼそりと呟く。彼は「そっか」と言って溜息をついた。


「人魚怖いのか?」

「別に」

「じゃあ何に怯えてんの」


 怯えていたのだろうか。


「……食べたくないし、食べられたくない」


 惚れたら負けだなんて、思いたくない。もしかしたら、たったそれだけの意地だったのかもしれない。


「人魚に魅入った奴にとってはそれが本望かもよ?」

「そんなの悲しい」

「お前が悲しくても、当人達はどうだろうな」

「そんなこと言って、もし私に食べられたらどうするの」

「俺はお前ならいいよ。喜んでこの身を差し出す」


 横目に見ると、彼は葱が入った袋を側に置いて真っ直ぐ前を見据えていた。夕陽に照らされた、何を考えているかわからない横顔。見ているとつかえていたものがすっと洗い流されるような気持ちになる。安堵する。


「帰ろう」


 彼がこちらを見て微笑んだ。その時、このまま時間が止まればいいと、ふと思う。これが、彼の言う"本望"なのだろうか。


「あ、そうだそうだ」


 魅入っていると、彼はごそごそと作業着のポケットをまさぐり始めた。何が出てくるのか待っていると、彼は小さな指輪を取り出した。


「はい。結婚指輪」

「……はい?」

「買ってなかったから、買ってきた」

「葱と一緒に?」

「うん」


 私が思わず笑い出すと、彼は楽しそうに微笑み返して私の薬指に指輪をはめた。そして、私の頭を抱き寄せて髪に優しく唇をあてがう。


「よかった。やっと笑った」

「機嫌悪かったんだもん」

「女は宝石一つで機嫌が良くなるんだな」

「葱も効いた」


 雰囲気も何もない。浪漫も何も感じない。少し気怠く、抑揚のない日々。それが心地良くて、私は彼に溺れるのだ。




 島に来て一年経つから何かお祝いをしようか、なんて話をした翌日。用意していた夕飯も冷めてしまったもので、表で彼の帰りを待ちながら星を眺めていた。


「被害者を見つけました」

「これから署へ向かいます」


 帰ってきたのは彼ではなく、知らない男の人達だった。訳もわからず船に乗せられ、本島にある警察署へ連れていかれた。そこで、知らない女の人と男の人に会った。


「無事でよかった! あなたに何かあったらもう……どうしようかと!」


 女の人は泣きながら私を抱きしめたが……その涙の意味が解せない。私の様子を不審に思ったのか、一人の警官が話しかけてきた。


「あの、一緒に暮らしていた男性のことですが」

「……夫が、何か」


 私の一言で、その場は凍りつく。女の人はおどおどし始めてまた瞳を潤ませるし、男の人は呆然と私を見つめる。それを見兼ねて、警官が再び口を開いた。


「あなたの旦那様は、1年前に死んでます」


 少し間をおき、首を傾げて笑ってしまった。


「何を、言ってるんですか? 夫なら今朝……」

「あなたが一緒に暮らしていたのは、あなたの旦那様を殺した犯人です。そして、あなたを拐った誘拐犯です」


 信じられない。島で過ごした彼との一年が轟々と頭を流れる。浜辺を散歩したり、花火をしたり。ふざけ合って笑ったり、喧嘩したり、雨が降って冷えた日には身を寄せ合って眠ったり……しかし、何故だろう。島に来る前のことが……思い出せない。


「記憶が混乱しているのでしょう。ご両親のことは覚えてらっしゃいますか」


 警官に聞かれ、俯いたまま首を横に振る。すると、女の人の啜り泣く声が聞こえてきた。それだけで、彼女が母で、その肩を抱いて慰める彼が父なのだろうと察する。覚えていない。思い出せない。それだけで、何だか二人に申し訳なく思えた。


「とにかく、今日はゆっくりお休みになってください。明日から何かと、お聞きしなければならないこともございますので」


 警官がそう言うと、父であろう人は私の肩を優しく抱いて歩き出した。反対側には声を殺して泣く母であろう人も一緒だ。



ーーわかったわかった。だったら、食べられるのは俺だ。俺の負けだーー



 私は、人魚に魅入られて食べられてしまっただけの哀れな人間なのか。



ーー魅入られた奴にとっては、それが本望かもよ?ーー



 今となっては、本望だ。あの島での日々が失われるくらいなら、こんな真実を聞かされるくらいなら、あのままで……よかった。浜辺で彼が言っていたことが、やっと理解できた気がする。

 しかし、時間というのは残酷だ。あのままでよかったと思えたはずなのに、だんだんと彼が憎く感じてくる。騙されたような気持ちに、なってくる。記憶がないとはいえ、ニュースで自分の報道を聞いたり、両親に哀れまれたりするうちに、私はすっかり被害者になりきっていた。


「失った記憶を取り戻すためにも、昔住んでいたマンションへ行ってみませんか」


 警官に言われるがまま、殺害された夫と住んでいたというマンションへ連れていかれた。夫の実家で遺影を見たが、何も思えなかった。無残な姿で山中に埋められていたという、私の夫。そうは聞かされても、黒い額縁の中で優しく笑う夫は知らない男の人にしか思えなかった。


「弟さんが犯行に及んだ日、玄関の鍵は開いていたそうですね」


 警官の言葉に、私は「わかりません」としか返事ができない。

 聞けば、彼は死んだ夫の弟だったらしい。つまり、私の義理の弟。そればかりは、未だに信じられない。あんなに大人びて見えた彼は私より若かったばかりか、まだ未成年だったのだから。

 マンションの中は薄暗く、閉め切られたカーテンが淡く光を帯びるばかり。白が基調のこざっぱりした広いリビングで、私は立ち尽くす。

 知っている。

 心臓がどくどくと高鳴る。仄かに感じる懐かしさに、身体が反応していた。そして、


『義姉さんから離れろよ!』


 ぽつりぽつりと、思い出した。揉み合う彼と夫。響く怒声。私はガタガタと震えながら……夫の背に、

 その瞬間、がっくりと膝が床に落ちた。警官が慌てて私の肩に触れるが、私はそれを振り払って頭を抱えた。

 思い出して、しまった。




 夫は外では人当たりが良かったが、家庭に戻れば酷く暴力的だった。泣いて訴えようが、聞き入れてもらえず。夫の暴力に怯えていた、ある日。


「何してんだよ!」


 痛めつけられていたところに、たまたま彼が現れた。予定外の来訪に夫は慌てふためくが、


「義姉さんから離れろよ!」


 彼に掴みかかられ、夫はその腕を掴み返して殴りかかった。


「お前には関係ないだろ!」

「関係無いで済ませる気か!」


 二人は激しく部屋を掻き乱して倒れ込む。夫は彼に馬乗りになり、殴りつける。


「俺の女をどうしようと、俺の勝手だろ!」


 殺される。このままでは彼も、私も。

 ふらふらと立ち上がり、私はキッチンに置いてあった包丁を手にする。震える両手で固く握りしめ……そして。




 大声で泣き叫ぶ私に警官は必死で何があったか問いかけてくるが……言葉にならない叫びしか、上げられない。

 逮捕されてから彼は、全て自分がやったと供述していた。夫を殺したのは些細な言い争いが原因で、私を誘拐したのは口封じのためだ、と。罪を全て、背負いこもうとして。

 どうしてそんなことを、なんて、考えるまでもなかった。彼と過ごした一年が、全てを物語っている。

 泣くだけ泣いて、私は改めて彼を愛しく思った。



ーー俺はお前ならいいよ。喜んでこの身を差し出すーー



 海で話したことは全て、私と彼だけの本当だったのだ。




 厳重な警備が敷かれた面会室。透明な硝子越しに、私と彼は数週間ぶりに顔を合わせていた。俯く彼は少し痩せた。もとより無表情なことが多い人だったが、すっかり黒い影を背負って目も虚ろになっていた。


「……何しに来たんだよ」


 優しかった彼の声も、低く威圧的に変わっていた。


「俺の顔なんか、見たくないだろ」


 変わり果てた彼の向こうに、遠い島の景色が浮かんで見える。彼の潤んだ瞳に、かつての彼の面影を感じる。私は、絞り出すように声を出した。


「ごめん……私、」

「何謝ってんだよ!」


 彼は急に声を荒げた。驚いて顔を上げると、彼は鋭く私を睨んでいた。


「憎めよ……俺はあんたの旦那を殺した! あんたを拐って騙した! そんな奴にごめんだなんて、馬鹿じゃないのか?!」


 熱くなる彼を警官達が抑えつける。


「俺は謝らないからな! あんたに何を思われようが知ったこっちゃない! 俺は……!」


 彼ははっとして、言葉を飲み込んだ。彼の視線は、私の薬指にある指輪に向けられていた。その目はみるみる潤んでゆき、ついに、彼は額を抑えて俯いてしまった。肩を震わせながら嗚咽する彼を見て、私の目からも涙が溢れる。

 彼に触れたい。彼と一緒にいたい。思い出してもやはりあなたが愛しいと……伝えたい。しかし、できなかった。私を庇おうとする彼の気持ちに、全て遮られてしまった。

 仮に、だ。人魚が自分に魅入った相手に好意を抱いてしまったとする。そうすると、食べてしまえば相手は本望でも……腹を満たした人魚は、悲しいばかりなのだ。





 くすんだ指輪を撫でながら眺める海は、相も変わらず綺麗だ。人魚があの台座に腰を下ろす姿を想像してしまうくらいに。


「またここにいたのか」


 誰なのかはわかるものだから、振り返る必要もない。いや、振り返れなかった。


「探した」


 後ろから抱きしめられ、私はその腕に涙を落とす。

 

「嘘つき」

「嘘じゃない。家中探し回ったんだぞ」


 私が泣きながら小さく笑うと、彼はぎゅうと腕に力を込めた。


「ただいま」

「……おかえり」


 雰囲気も何もない。浪漫も何も感じない。少し気怠く、抑揚のない日々。それが心地良くて、私は彼に溺れる。

 涙が頬を伝うのもそのままに、私と彼はじっと夕陽を見つめていた。あの日と何ら変わりない。何を忘れても、何を思い出しても、全てはここへ還るのだ。

 

「……腹減ったな」

「ご飯できてるよ」

「知ってる。見た」

「帰る?」

「んー……あと、もうちょっと」










ーFinー

 


 読んで頂き、ありがとうございました。


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