4話 ホスピス病棟オープン
医療法人賛善会の理事会後ほどなくして、山梨理事長の指示で、本院の河合事務長が中川井病院のホスピス病棟開設を手伝うことになった。
ホスピスを謳う以上、施設内容はもとよりスタッフ数やケアの内容は、それに見合うものが必要だった。そうでなければ、横浜初のホスピスを喧伝した、ただの売名行為と見られるのが落ちだからだ。
河合事務長は中川井病院をたびたび訪れ、いろいろ指示を出した。彼はここの元事務長だけあって、複雑な病院の建築構造を知り尽くしていた。
中川井病院の5階病棟は、最上階だった4階病棟の上に、さらに1階を継ぎ足して増築されたものだった。そのために、エレベーターは4階止まりのものと5階までのものの2機があった。ボイラー室など旧屋上に設置された設備機器を迂回するように病室は造られ、廊下は曲がりくねっていた。
5階病棟を高井と回りながら、河合はいろいろアドバイスした。
「床面積から計算して、6床部屋は3床、2床部屋は個室にします。4床部屋は仕切りを入れて、個室2室にしたらいいですね」
病室の見取り図を描いて河合は説明した。
「河合事務長、これで行くと病棟全体のベッド数は相当減ってしまいますね」
「そうですね。昔の造りですから、ホスピスの規定通りにはベッドを割り振れませんからね」
結局ホスピス病棟は12床となった。
「壁紙はすべて張り替えて、廊下には絨毯をひいてください」
「個室には家族もいっしょに過ごせるようにソファーを置きましょう」
「廊下の壁には、絵画や写真を飾ると雰囲気が和らぎます」
河合は大学のデザイン科を出ていただけに、室内装飾にはたけていた。彼はことこまかに指示を出し、高井はいちいちそれをメモに取った。
4階は元院長の自宅だったため、談話室や家族室、台所などが備わっていた。絨毯を張替え、ソファーなどの調度品を交換するだけで、十分使い物になった。
これだけの工事で、河合が試算した通り2000万円近く費用がかかったのだ。
こうして中川井病院にホスピス病棟をオープンしたのは、93年真冬の2月だった。
「河合事務長、色々ご指導ありがとうございました。お陰さまで念願のホスピスをオープンすることができました」
「おめでとうございます。うまくいくといいですね」
食事を囲みながら、2人は院長室で祝杯をあげた。2年越しの宿願がかなって、高井は上機嫌だった。
「まだ横浜ではどこもやってないことなので、苦労も多いと思いますよ」
「そうですね。認可が取れないことには完了したとはいえませんからね。これからもアドバイスよろしくお願いします」
「なんなりといってください。改装の指示を出したのは私ですから、私にも責任があります。特に事務手続きが今後重要になりますので、その時はいってください」
ほろ酔い気分でホスピス談議に花が咲いた。
しばらくして高井はおもむろに、
「教授選、困ったことになりましたね」
92年12月に関東大学の教授選があった。中尾教授配下の助教授は関東大学の出身だった。その対抗馬として、関東圏下の頂点に立つ東都大学出身者が教授選に名乗りを挙げたのだ。結果は僅少差で中尾派の助教授が敗れたのだ。
「確かに助教授が負けたとなると、うちの病院にも少なからず影響が出ると思いますよ」
河合は困り顔でいった。
教授を頂点とした教室は、教授が変わることによってその陣容が一変する。院長を初め多くの医師を医局から派遣してもらっていた賛善会病院からすれば、教授交代は下手すれば病院が窮地に立たされかねない事態なのだ。
この4月から、新任教授の体制がしかれる。
「僕の同僚にもいろいろ声をかけてみますよ。本院の経営安泰こそ第一ですからね」
「お願いします。うちのドクターは、大半が関東大学から来てもらっていますから」
2人は夜遅くまでビールを酌み交わした。
高井は知り合いのつてで、ホスピスに関心を持つ町田広子医師を、ホスピス病棟長に迎えた。町田医師は女性医師だった。彼女はホスピスケアの臨床経験はないものの、研究会を主宰して、ホスピスの勉強をしていたのだ。
ホスピスに熱心な赤城看護婦は、ホスピス病棟をもつ関西の病院へ研修に行った。彼女が先頭になって、看護婦たちは試行錯誤しながらホスピスケアを実践していったのだ。
初めは入院患者を数人にとどめた。スタッフの数がそろっていなかったことと、彼女たちにホスピスケアの経験がなかったからだ。すべてがゼロからの出発だった。
まもなくして、大学医局の後輩、徳田が中川井病院の当直にやって来た。中川井病院がオープンしてから、彼は当直を手伝ってくれていたのだ。
「先輩、ホスピス病棟をオープンしたんですか」
「そうだよ。4階と5階を少し改造してね」
2人は診療を終えてから久しぶりに医局で会った。
「ちょっと見学してもいいですか」
「もちろん。今から行く?」
そういうと2人は5階に上がった。
古い病棟を改装しただけなので、厚生省基準は満たしてはいたものの、廊下は狭く、病室もゆったりとくつろげるほどの広さはなかった。
廊下の壁には、所々に風景画が飾ってあった。
「廊下は狭いですね」
「改装だけだから、廊下までは広げられなかったんだ」
小声で話しながら、空室の部屋をのぞいた。
徳田はそのドアに手をかけた。
「先輩、これ何ですか」
ドアノブに長さ25㎝ほどのプレートがかかっていた。
「それは入室禁止の札だよ」
「入室禁止?」
「患者さんがこれをドアにかけていたら、誰も入ってはいけないんだ」
「誰も?」
「そう、誰も」
「ドクターも?」
「ドクターでもナースでも、入ってはいけないんだよ」
徳田は目を丸くして、
「それって、プライバシーの尊重ってことですか?」
高井はうなずいて、
「普通の病院ではスタッフのスケジュールに患者さんが合わせている。そのために患者さんのプライバシーは全く無いんだよ。ホスピスは違うんだ。患者さんのプライバシーを尊重しようと考えてそうしたんだよ」
「これはアイデア賞もんですね」
徳田はその札を手に取ると、感心した目つきでしげしげと見つめた。
ドアを開けて中に入った。
「明るい雰囲気ですね。家庭みたいだ」
徳田は部屋の片隅に置かれたソファーに腰をかけ、辺りを見渡した。
「病院というところはまるで殺風景で、鼻を突く薬の匂が充満しているのが普通だろ。ホスピスは患者さんにより良く生き抜いてもらうところで、なるべく家庭の雰囲気を大切にしているんだよ」
そう説明する高井の顔は自慢げだった。
「面会、外出、外泊も自由で、必要なときは家族が泊まれる家族室もあるんだ」
「面会が自由というのは家族にとって助かりますね。夜に面会してそのまま泊まれたら、少しでも長くいっしょにいられますからね」
「そう。ここから職場に通ってもいいんだよ」
「ワオ、そんなことができるんですか。普通の発想からはそんなこと出てきませんね」
徳田は両膝をたたいて、おおげさに驚いて見せた。
「キッチンやリビングルームは4階にあるんだ。見に行く?」
「ええ」
5階と4階はエレベーターでつながっていた。2人は階段で降りた。
「ここは、元院長の家族が住居として使っていたんだ。昔はこういうスタイルの病院が多くあったんだよ」
「だから家庭設備がそろっているんですね。5階と4階を合わせて使うとは、おもしろいところに着目しましたね。」
「フロアーが違っても、同一病棟として認めてくれたんだから、それこそほんとうにラッキーだよ」
談話室に入った。中には元院長の応接室らしく、シャンデリアが室内を明るく照らし、敷き詰められた絨毯が家庭の温かみをかもし出していた。談話室のドアを開けると、台所に通じていた。
2人はソファーに腰をおろした。
高井は笑みを浮かべると、
「ああそうそう。当ホスピスのスペシャルメニューを教えようか」
「スペシャルメニュー?」
「そう、スペシャルメニュー。当ホスピスでは食事の時、希望があればお酒もいけるんだ」
「へええ、お酒もですか!ビール、オワ、ワインっていうやつですね。当直に来たとき僕もいいですかね」
「勤務中だから君はダメだよ」
高井はわざと厳しい顔付きをしてみせた。
徳田はその表情を見てひょうきんに笑うと、本棚に並べられた書物を手に取った。
厚生省認可のないホスピス病棟は、扱いは一般病棟と同じで、収入は出来高払いだった。出来高払い方式では治療した分だけしか収入にならない。
ホスピスケアを希望する患者は、無理な延命治療を望まない患者がほとんどだ。収入を上げるために濃厚治療をすれば、患者の意思と生活の質(QOL)を尊重するというホスピスの精神に抵触してしまうのだ。
5階病棟のベッド数を12床に半減し、スタッフは増員、なおかつ治療行為はしないとなれば、収支が赤字になるのは目に見えていた。認可さえ下りれば間違いなく黒字に転換できるのだが、それまで資金的にもちこたえられるのか、ホスピス病棟のオープンは、中川井病院にとっては賭にも似た挑戦だったのだ。