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2話 東海大学安楽死事件

 高井は、倒産の憂き目に遭遇した職員の士気を鼓舞するために、何か目標とするものが必要だと常々思っていた。その思いは日ごとにつのっていった。


 倒産したという心の傷は密かに心の奥深くに潜伏する。それは経営が安定してくればくるほど、緊張感の低下とともにマンネリ化として頭をもたげてくる。


 マンネリ化は時として、中川井病院のような利便性が取り得の小規模病院にとっては、致命傷となるのだ。


 4月も末になり、高井は一日の仕事を終えて、院長室の長椅子に身を休めていた。


 プルルル、プルルル。


 電話が鳴った。後輩の徳田からだった。


「百瀬さんが昨夜亡くなりました」


 徳田はポツリといった。


 去年の夏まで高井が診ていた軟部肉腫の患者、百瀬香織が亡くなったのだ。


 徳田が香織の死を看取った。転移した肺がんに肺炎を合併して、突然の最期だった。


 彼は高井の後任としてその病院に非常勤で勤め、香織を担当していた。徳田は高井の様子をときどき彼女に話していた。香織はそれを楽しそうに聞いていたという。


「そうか・・・」


 高井はことばが出なかった。


(香織さんが死んだ・・・)


 高井は、4階にある院長室の窓から空を見上げていた。


 21歳の若さでがんを患い、青春を謳歌することなく逝った香織だった。回診のたびに、命や神について語り合った。というより香織から教えられたのだ。


「ホスピスがあったらいいのにね」


 大学に帰任するとき、高井に向かって涙目でつぶやく香織のことばだった。


「香織さん!僕はホスピスを造るよ」


 香織の魂と約束でもするかのように、空に向かって叫んだ。


 机上に置かれた香織のくれたホスピスの本を手に取って、ゆっくりとページをめくるうちに、頭にひらめいた。


「そうだ!ホスピスをこの病院の目標にしよう」


 高井は、暗闇の中に一点の光でも見いだしたかのように、高揚した気分でひとりつぶやいた。


 看護婦の赤城幸代は、熱心なクリスチャンだった。一般病棟に勤務し、高井の回診にたびたび付き添った。


 ある日、赤城は用事で院長室を訪ねた。高井は不在だったが、それを知らずにドアを開けた赤城の目に、机上に置かれたホスピスの本が飛び込んできた。赤城も前々からホスピスに深い関心を持っていたのだ。


 それからというもの赤城は回診に付き添うたびに、


「ホスピスっていいですね」


 高井を見つめてはつぶやくようになった。高井には不可解な言動に見えたが、頭の片隅にそれを記憶しておいた。


 ホスピスはイギリスが発祥の地だ。近代ホスピスは、1967年ロンドンにセントクリストファーホスピスが誕生している。


 日本で最初のホスピスは、大阪の淀川キリスト教病院に1973年併設された。その後、数カ所に設置はされたが、病名告知や不採算性などの問題があって、日本ではあまり普及しなかった。


 ところが1990年、ホスピスが緩和ケア病棟として厚生省の認可を受けたのだ。厚生省はホスピスに、一般病棟の2倍近くの診療報酬をつけた。それによって不採算部門として見向きもされなかったホスピスは、いちやく脚光を浴びるようになった。日本全国に、ホスピス設置の動きがにわかに広がったのだ。


 高井は、職員にホスピスをいいだせるときがくるのをじっと待った。




 1991年5月、医療界を震撼させる事件が大学病院で起きた。東海大学安楽死事件だ。


 多発性骨髄腫の末期患者が全身痙攣で苦しむのを見るに見かねて、家族に強く請われるまま、主治医が塩化カリウムを静注して患者を安楽死させた事件である。


 塩化カリウムをいっきに静注すれば心停止をきたすことは、医療界では常識だった。主治医は、末期患者の治療のために夜昼なく起こされ、疲労困憊していたのだ。


 この事件は、殺人罪として横浜地裁に起訴された。これを契機にマスコミは、安楽死問題や終末期医療などをいっせいに取り上げるようになった。


 被告となった医師は、高井の後輩・徳田の外科仲間だった。


「彼はそんなことをする男じゃないですよ」


 徳田は電話で高井にいった。


「彼は僕の友人なんです。よくターミナル研究会に、いっしょに参加した仲なんです」


 徳田のいうには、その医師は末期患者を多く担当していて、夜昼なく起こされる日々が続いた。毎日が徹夜で疲れきってしまって、周りが見えなくなってしまっていたのだ。


 全身痙攣を反復する末期患者を前にして、苦痛を止めるには塩化カリウムしかないと彼は思い込んだ。ターミナルケアで推奨されるモルヒネが頭に浮かばなかったのだ。それほどまでに彼の神経は疲弊していたのだ。


「僕も、多くの末期患者を担当してますから、その気持ちが分かるんです。バーンアウト(燃え尽き)ですよ」


 徳田は同情するようにいった。


「バーンアウト?」


「気持ちが燃え尽きちゃうんです。それも熱心であればあるほど」


「医者はみんな、末期患者からは逃げてしまうからね」


 徳田の話を聞いて高井は、熱意がかえってあだになり殺人罪に問われてしまった被告医師を、気の毒に思った。


 医療界は今こそ終末期医療に取り組むべきだと、高井は強く感じた。朝日新聞にその主張を投稿した。それが全国版に掲載されたのだ。


 その新聞記事のコピーが、中川井病院のいたるところに張り出された。病院中でそれが話題になった。


 高井は、ホスピスをいいだす時が来たと感じた。




 91年7月、その時がやってきた。


 いつものように高井は病棟回診をしていた。赤城看護婦が付き添っていた。患者を診察し終えて病室を出たとき、赤城と目が合った。その一瞬、2人の視線に閃光が走った。


「ホスピスをやろうか」


 とっさに高井は声をかけた。


 赤城はこのときを今か今かと待っていたかのように、


「院長先生、やりましょう!」


 満面の笑みを浮かべて力強く答えた。2人はくしくも思いが通じたその喜びに、声がはずんだ。


「そのためには、まず準備が必要だよ。みんなを説得しないとね。院内にホスピス運動を起こすんだ」


 高井は熱っぽく語った。


「その顔役になってくれる有力者が欲しい。赤城さん、そういう人に心当たりがありませんか」


「あります。あります。私の通っているキリスト教会に、元大学教授の先生がおられます」


「それは素晴らしい。その先生に声をかけてくれませんか」


「分かりました。今度、教会でお会いしたとき話してみます」


 2人は回診中であることも忘れて、意気投合して語り合った。


 数日して、医事課の田上が高井の外来にやってきた。


「院長先生、赤城さんに目をつけるとはさすがですね」


 息をはずませて田上はいった。田上は赤城と仲がよかった。赤城は高井と話した後すぐに、田上に知らせにとんで行ったのだ。


「やりましょうよ。私も手伝います」


 またたくまに、ホスピスの話は病院中に広がった。




「皆様お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」


 元大学教授の小金井が立ち上がって、開会の挨拶をした。


 91年秋、中川井病院にほど近い相鉄線駅ビルの会議室で、ホスピス研究会の初めての世話人会がもたれた。15人の世話人が集まった。


 7月にホスピスの話をしてから、忙しい診療の合間をぬってホスピス研究会作りが始まった。赤城や田上が知り合いをつてに奔走したのだ。5月に東海大学安楽死事件が起きたばかりだけに、人々の関心はすこぶる高く打てば響くような手応えがあった。


 高井は、ホスピスの研究会を立ち上げる自信があった。1980年カンボジア難民の医療活動を終えて帰国した高井は、立ち遅れる日本の国際協力を啓発しようと、学会設立のために奔走した。その時の経験が役立ったのだ。


「顔役になってくれる有力者が欲しい」と高井に頼まれた赤城看護婦は、自分の所属するキリスト教会の信者である小金井康雄に相談した。小金井は元大学教授で、国語教育が専門だった。教授になる前には中学校長を歴任し、教育関係者に知り合いが多くいた。


「最後のご奉公と思ってやってみましょう」


 小金井は快く引き受けてくれた。知り合いの校長OBに呼びかけ、世話人就任の了解を取り付けてくれたのだ。


 赴任して間もない横浜の地には、医療界の人脈が高井にはなかった。医療者の世話人探しに苦心しているところに、国際協力の学会で知り合った医師から電話が入った。話をするうちに思いがけない事実を知った。その医師は横浜市大の出身で、友人医師が横浜に大勢いたのだ。しかも、彼自身もホスピスに関心を持っていた。


 まさに奇遇だった。


「ホスピスに関心のある先生をご存じありませんか」


「いますよ。市民病院の木田先生が熱心ですね」


「ご紹介いただけるとありがたいのですが」


「私から話してみますよ」


 話はトントン拍子で進んだ。


 木田典雄医師は外科が専門だったが、市民病院の有志でターミナルケアの勉強会を開いていたのだ。


「僕の友人に声をかけてみましょう」


 木田医師は、ホスピスに関心を持つ友人医師に電話をした。大学教授やがんセンターの医師など10人近い医師が、名乗りを上げた。


 見えざる手によるとでもいえる不思議な出会いが重なって、10人を越える人々が研究会の世話人を引き受けてくれたのだ。




 世話人会の初会合には、医師、看護婦、教育者など15人が集まった。高井の知り合いの読売新聞記者も同席した。安楽死事件で世の関心も高かったおり、彼が広報担当を買って出てくれた。


「まことに僭越ですが、私が司会をさせていただきます」


 簡単に各人が自己紹介を終えると、小金井の司会で世話人会は始まった。高井はワープロ打ちした議案書を全員に配布しておいた。


「まず、会の名称についてですが」


 小金井が議題を読み上げると、


「ホスピスと横浜市民がキーワードになりますので、この2つの言葉が入れば良いかと思います」


 高井はすかさずそう提案した。彼は330万人を擁する横浜を舞台に、医療者だけではなく一般市民を含めた市民の会にしたいと思っていたのだ。


 異論の声はなく、会の名称は「ホスピス横浜市民の会」と決まった。


 手順通りに話し合いは進行した。小金井が会長に選出され、会の趣旨、幹事、事務局などが決められた。事務局は中川井病院に置くことになり、第1回講演会は、来年6月に開催する運びになった。


 高井のねらいは、横浜の地にホスピスの市民運動を起こすのと併行して、中川井病院にホスピス病棟を開設することにあった。


 市民の会の段取りが大筋決まると、高井はホスピス病棟の開設準備に取りかかった。




 92年に入り病院が再開して1年が経った。順調に患者数も増え、経営は安定してきた。病棟は2階、3階をオープンしたものの、5階は手つかずのままだった。5階をどのような形でオープンするかが大きな課題だった。


 2月に河合事務長が、埼玉本部に人事異動となった。中川井病院黒字化の実績を買われ、賛善会病院の事務長に昇進したのだ。


 異動日の数日前、中川井病院の院長室に、高井と河合はテーブルをはさんで対座していた。


「河合事務長、いろいろありがとうございました。ここまでに病院がなれたのも、あなたの実行力のおかげです」


 倒産した病院にもかかわらず、中川井病院がさしたる問題を起こさず軌道に乗れたのは、河合事務長の手腕によるところが大きかったのだ。


「先生、あとをよろしくお願いします。病院にとっては、5階をどうするかが今後の課題だと思いますよ。あまり長い間休ませておくと、役所から指導が入りますからね」


 中川井病院の5階病棟は、休止中として役所に届け出てあるのだ。ある程度の期間ならそのままで許されるが、あまり長く続くと役所の指導が入り、それらが余剰ベッドと見なされて削減されてしまうことがあるのだ。


「僕は、5階をホスピス病棟にしようと考えているんです」


 高井のこの言葉に、河合は気乗りしない表情を見せた。


「何か問題でもありますか?」


「ホスピスは厚生省の規制が厳しくて、なかなか難しいですよ」


 河合は、一筋縄にはいかないことをにおわせた。


「僕もそれは知っていますが、何とか挑戦してみたいと思っています。今後もアドバイスをしてくださいね」


 高井は立ち上がると河合に手を差し出した。二人はがっちりと握手を交わした。




 中川井病院の新事務長は、賛善会病院の総務課長だった佐口徹がなった。佐口は30代とまだ若く、医療経験はあったものの河合ほどの力量はなかった。


 しばらくして、高井は5階病棟にホスピスを開設する準備に入った。役所に余剰ベッドとみなされて、削減されないかと少し焦っていたのだ。


 厚生省認可の緩和ケア病棟(ホスピス病棟)は90年にスタートしたばかりで、その開設を経験した者は誰一人いないのが実情だった。神奈川県内にはホスピスを開設した病院は1件もなく、県の医療整備課でさえ、認可基準の詳細は知らないという有り様だった。


 厚生省の認可基準は極めて厳しいものだった。その主な要項は、基準看護の承認を受けていること、看護婦が患者1.5人に一人以上勤務していること、患者一人あたりの病室の広さが8㎡以上あること、家族の控え室、患者専用の台所、面談室、談話室を設けてあること などだ。


 簡単にいえば、病室の広さは一般病棟の倍で、医師やナースなどのスタッフも2倍必要なのだ。それに、家族室や台所、面談室、談話室などの付帯設備がそろっていなければならない。


 これらすべてをクリアしなければ、厚生省の認可は下りないのだ。これだけの基準を満たすには、病棟を新築する以外に手はないといっても過言ではない。潤沢な資金のある病院でならいざ知らず、やっと軌道に乗ったばかりの中川井病院の出る幕は、普通に考えれば有り得なかった。


 ところが幸運なことに中川井病院の4階は、元院長家族が自宅として使っていた。昔の病院は、そういうスタイルのものが多くあったのだ。そのため、家族室や台所、面談室、談話室などの付帯設備一式が、4階にすべてそろっていたのだ。


 問題があった。病院の5階に入院ベッドを置き、4階に付帯設備があるという施設形態が、法律的に認められるかどうかそれが問題だった。


 佐口事務長が役所に問い合わせた。


「調べて、後ほど連絡します」


 担当官も初めての経験で、分からなかったのだ。


 しばらくして、


「厚生省の方では、それでも大丈夫といっています」


 担当官から連絡が入った。階が異なっても、患者が移動してその設備を利用できるなら、厚生省は認可するというのだ。


 これで基準看護を除いては、緩和ケア病棟の施設基準をクリアできるのだ。


「佐口事務長、ホスピス病棟をオープンする準備に入ってください」


 高井は佐口に指示した。


「基準看護はどうしますか。看護婦1人を雇うのに、諸費用含めて40万円強かかります。病院全体でとなるとそうとう人件費がかさみますが」


 佐口は不安げに聞き返した。


 基準看護とは、ベッド当たりの看護婦数に関する厚生省の取り決めで、その割合が規定以上になると、診療報酬アップなどいろいろな優遇措置が得られるのだ。


 中川井病院は基準看護を取っていなかった。


「どれくらい増えますか?」


「病院全体のベッド数で計算しますから、今の1.5倍近くになります」


「1.5倍もですか・・・」


「基準看護が取れないと、病院の収支は大赤字になります」


 法律では、基準看護は病棟単位ではなく、病院全体で取得する決まりになっていた。これはすでに時代遅れだった。80年代までは病棟形態が一般病棟しかなかったところに、90年に入って療養型病棟、緩和ケア病棟など全く異質な形態の病棟が誕生した。これら各病棟の陣容はまったく異なっていたにもかかわらず、病院全体のベッド数で看護婦数が算出されるというのは、不合理なものだったのだ。


「基準看護の取得は並行してやりましょう」


 高井は決断した。


「分かりました。総婦長とも相談してみます」


 佐口事務長はそれ以上反駁することなく、高井の申し出に従った。


 1年間休止していた5階病棟を取りあえずホスピス病棟としてオープンし、それと並行して基準看護を取得すれば、緩和ケア病棟の認可も取れると高井は踏んでいた。


 しかし基準看護の手続きはそんなに甘くはなかった。それは佐口事務長が熟知していなければならないことだったが、彼は経験も浅いため、院長に反対するほどの強さや計算高さは持ち合わせていなかった。


 これが後々、中川井病院の経営上の大誤算を招くことになるのだ。



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