1話 再建への道
11月(1990年)に、恒例の医局会が大学で開かれた。外科学教室に籍を置く医師たちが、出張先などから全員集まるのだ。
医局会ではいつも通り、各医員の研究の進捗状況や人事などが話し合われた。その中で高井の中川井病院長就任が、中尾教授から発表された。
「中川井病院の理事長は私の同級生なので、高井君に行ってもらうことにしました。みんなで高井君を応援して上げてください」
教授は高井にエールを送った。
医局会を終えると、簡単な親睦会がもたれた。
「先輩、病院の院長になるんですか」
徳田進がビール片手に尋ねた。徳田は高井の5年後輩だった。
「うん、中川井病院のね」
「それってどんな病院ですか」
「100床の古い病院だよ」
「へえ、小さい病院ですね」
「・・・」
病院のベッド数は、医療界では医師のステイタスのようなものだった。
「だけど、先輩にはお似合いかも知れませんね」
徳田は気を使って、笑いながらそういった。
「それ、どういう意味?」
「いやね、先輩はいつも杓子定規ってのが嫌いでしょ。それぐらいの規模だと小回りがきいて、自分のやりたいことができると思うんです」
徳田は高井と仲が良かった。考え方も似たところがあって、互いに外科医失格だといっては笑い合う仲だった。
「僕もそう思ってたよ」
高井は、不安にかられていた自分を励ましてくれる徳田に、ありがたいと思った。
「父のやっている病院が100床ぐらいで、時々手伝ったことがありますよ」
徳田のそのことばに高井は真顔になると、
「どんな感じだった」
高井は、今まで小規模病院には勤務したことがなかったので、興味深げに聞き返した。
「おもしろかったのは、何科でもやれることですね。というより、やらされるっていったほうがいいかな」
「どういうこと?」
「父なんか、午前は内科の外来をやって、午後には手術を手伝っていましたからね。僕だって、内科の名医なんていわれちゃいましたよ」
徳田は頭をかいて笑った。
徳田は、建物の構造や患者の数、毎日の勤務状況など、ことこまかに体験談を話した。
「ありがとう。参考になったよ」
「僕も手伝いますから、先輩も頑張って下さいね」
「頼むよ。当直なんか、足りないからね」
徳田は時計を見ると、白衣を手にとってソファーから立ち上がった。
「会う人がいますから、これで失礼します」
「あんまり無理するなよ。君は人がいいから、大変な患者をみんな背負わされるからな」
高井は、徳田が誰も担当したがらない末期癌患者を一人で受け持っているのを知っていて、そういったのだ。
「先輩こ-そね」
とおどけて見せると、徳田は医局を出て行った。
(この医局ともまたお別れだなあ)
誰もいなくなり静まりかえった医局に一人たたずみ、高井は懐かしそうに周りを見渡した。そこには医局員の机が20あまり並んでいた。高井の使っていた机だけは、本や書類がきれいに片付けられ、裸にされてぽつんと寂しげに見えた。
中川井病院の開設準備は、埼玉賛善会病院の事務次長だった河合宏が陣頭指揮をとった。河合は山梨理事長の信任が厚く、中川井病院の事務長に抜擢されたのだ。彼は40代半ばの医療事務のエキスパートだった。これまで新規の病院を実際に開院したこともあったし、経営難に陥った病院再建も手がけていて、多くの実績を積んでいた。
耳鼻科、小児科の医師たちは、前から派遣してくれていた近隣の大学から、非常勤で派遣してもらうことができた。内科の元常勤医だった安藤医師も復帰してくれた。
これで内科、小児科、耳鼻科、外科がそろった。常勤は2名で、それ以外は非常勤だった。当直は、高井の医局から来てくれることになった。
4カ月という短期間で中川井病院再開の準備ができたのは、休院となってからも、残った職員によっていつ再開されてもいいように整備されていたからだ。看板の法人名を変えただけで、特別手を加えることなく再開できたのだ。
高井は病院からほど近いアパートに、東京から単身赴任した。病院で何かあった時、すぐ駆けつけられるようにするためだった。
12月の暮れ、高井は大宮の賛善会病院の理事長室に山梨といた。来年1月に、中川井病院を再開するめどがたったからだ。河合事務長も同席した。
「いよいよだね」
山梨はねぎらうようにそういうと、持って来させたコーヒーを高井にすすめた。
「少し緊張しています」
高井は確かに緊張していた。若手の高井にとっては院長になること自体重責なのに、こともあろうに倒産した病院の院長であるということは、二重の重荷だった。
「あなたに先輩として、2つのことをアドバイスしましょう」
山梨はゆっくりと、しかも丁寧に話し出した。
「まずは人心掌握です。多くの職員の中には、いろいろな経験と能力を持った人がいる。それをできるだけ早く把握し、その中からリーダーとなれる人をまず育てることですね。あの田上さんなんかそのひとりですよ」
山梨のことばには重みがあった。40年近い辛酸をなめる医業経験から、千変万化する日本の医療制度の仕組みを、彼は熟知していた。
「次に、倒産するときと同じことをしていたら、また倒産しますよ。職員の意識を変えないとね。長年やってきたことを変えるのは、抵抗があるものだ。特に長くいる人は、それを変えようとはしない。同じことをしていたら同じことになることを教えないとだめですね」
山梨は河合の方を見やると、
「事務長になる河合君は医療事務の経験が豊富ですから、よく相談してやるといいですね」
といって小さくうなずいた。
91年1月10日が、高井にとっての中川井病院初出勤となった。開院は16日の予定だった。
高井は緊張していた。一度も経験したことのない院長職が、果たして自分に勤まるだろうかという一抹の不安と、「なぜ自分が」という煮え切らない気持ちが交錯していたのだ。
駐車場に車を置くと、出迎えた河合事務長が玄関に高井を案内した。
ところどころ錆付いたドアを開けて中に入ると、職員が整列して待っていた。
「宜しくお願いします」
最前列に立っていた田上が元気な声で挨拶すると、他の職員達もその声に呼応した。高井は一目見て、彼女が田上富美江だと分かった。大勢の職員の中でも、ひときわ輝いて見えたのだ。田上は高井よりいくらか年上で、聡明そうな美人顔の女性だった。
高井は、倒産した病院にしては職員の異様な明るさと熱気に気押された。
河合は職員の前に立つよう高井に促すと、
「この度、院長に就任された高井先生です」
「高井です。宜しくお願いします」
熱気に圧倒された分だけぎこちなく、紅潮した顔付で高井はいった。
職員は高井のことばをかたずをのんで待っていた。
高井はひと呼吸置くと、
「私には3つの目標があります。患者のためになる病院、地域のためになる病院、そして職員のためになる病院。この3つです」
昨夜考えておいた挨拶を語り出した。倒産して自らの生活を犠牲にしなければならなかった職員達を思いやって、彼はそういったのだ。田上は、メモを片手に目を凝らして聞いていた。
5分ほどで高井の挨拶が終ると、田上が前に進み出た。
「これはここに残った職員達で書いた闘いの記録です」
ワープロ打ちされた小冊子を田上が差し出した。表紙には《明日に向かって》というタイトルが書かれていた。それは、山梨理事長に宛てた嘆願書のコピーだった。
高井はそれを受け取ると、
「ありがとう。後でゆっくり読ませてもらいます」
とだけいって、すでに見たことは伏せておいた。小冊子には、病院を守った戦士たちの熱い思いと、将来への期待がこめられていることを、高井は十分に知っていた。それを今は内緒にしておきたかったのだ。
高井は、院長室で事務長の河合としばらく話すと、病院の中をいっしょに回った。
病院は70年代に建てられたものだけに、病室、廊下、トイレなどすべてのサイズが狭かった。地下2階、地上5階といった丈高の造りで、地下には、リハビリ室、厨房があった。
1階が外来棟、2階3階5階が入院病棟で、4階は、昔にはよく見かけた、オーナー院長の自宅になっていた。オーナー院長の死後、そこは総務や、医局、応接室、当直室として使われていた。
河合は高井に病院の要所を案内しながら、
「この病院は老朽化はもちろんのこと、狭い敷地に、地下2階・地上5階という不採算きわまりない建築構造なんですよ」
と、渋い表情をした。
「何年前に建てられたんですか」
「20年前です」
「20年前……」
高井は薄汚れた床や壁を、考え深げに見つめた。
「不採算な構造とはどういうことなんですか」
「医療法では、ベッド数に応じた1フロア当たりの床面積を厳しく規定しています。床面積が狭ければ狭いほど設置できるベッド数は少なくなり、不採算になってしまうんです」
さらに医療法には厳しい規定があった。1フロアのベッド数の多少にかかわらず、看護婦の人数は、日勤夜勤交代制で必然的に10人以上が必要になった。採算性の良いベッド数は、1フロアにおおむね50から60床ていどなのだ。
入院収入は外来のおよそ4倍なので、ベッドをいかに効率的に配置するかは、病院経営にとって死活問題となるのだ。
高井は30分ほどで中を1周すると、河合と分かれて院長室に入った。
椅子の背に身をもたせて、机の上に置かれた小冊子《明日に向かって》を開いた。山梨理事長に見せてもらった時に読んだのは、田上の文章だけだったが、26ページにもなる全ての文章を、高井はいっきに読み切った。
涙が溢れた。こんなにもこの病院を大切にした人たちがいたのかと思うと、責任の重大さをひしひしと高井は感じた。
中川井病院が再開したのを聞きつけると、ほうぼうの病院に散っていた患者たちが、ぞくぞくと戻ってきた。1カ月を待たずして外来は、1日100人にのぼった。
新規に開業する場合は、事前に地域のニーズを綿密に調査し、経営戦略をしっかり練った上で開業しないと、開業まもなく閉院という憂き目にあうことも珍しくないのが、医療界の厳しい現実だった。
患者のくちコミは恐ろしいもので、外来患者が時には500人を越えるほどの盛況を極めた中川井病院だけに、1日200人となるには、それほど時間はかからなかった。
病院が再開されたといっても、いっきに全フロアをオープンしたわけではない。早々、入院する患者もいなければ、スタッフも十分そろっていないので、それらを計算に入れながら、1フロアづつ順次オープンしていったのだ。
事務長の河合は医療経験が豊富で、難題の多い中川井病院にはうってつけの逸材だった。
「療養型病棟にするのがいいと思いますよ」
院長室で、河合は高井に進言した。
「それってどんな病棟ですか」
療養型病棟とは、高井が初めて聞く名称だった。
河合は厚生省通達の資料を見せて、
「横浜では、まだどこもやってないんですがね」
と苦笑した。それほど生まれたての厚生省案だった。
これまで日本の病院には、急性病の患者が入院する急性期病棟しかなかった。急性期治療で治っても、家庭事情があっていつまでも退院できない、いわゆる社会的入院の患者を減らすために、厚生省は急きょ、療養型病棟という慢性期病棟を考案した。
「療養型病棟は、一般病棟のような出来高払いではなく、包括払いなんです。その代わり、医師や看護婦の数は、一般病棟に比べて格段に少くてすみます。これならうちの規模でも採算は合います」
河合は自信ありげにいった。
「ただそれでも問題があります」
「問題?」
「床面積が足りないんです」
一般病棟は1ベッド当たりの床面積が4.3㎡で足りていたのに、療養型病棟では、6.4㎡いるのだ。床面積を広くできなければベッド数を減らすしかなく、減らせばさらに不採算になるというジレンマがあったのだ。
「手はありますよ。3階病棟の奥に10床の透析室があります。それを病床に加えれば採算は合います」
人工透析は、近隣の医療機関にはない中川井病院の目玉診療だった。しかし1年近く休院していた病院に、他院に移った透析患者が再び戻ってくることは、ほとんど期待うすだった。その透析室を療養型病棟に加えれば、床面積不足という難題は解消されるのだ。
河合は真顔になると、
「院長先生、手術や人工透析を行なう急性期病院から、慢性病を扱う病院に転換することに、外科医として抵抗はありませんか」
高井の心中を探るようにいった。
「それは・・・・・・」
高井は口ごもり、しばらく沈黙した。
(倒産するときと同じことをしていたら、また倒産しますよ)
高井は、山梨理事長のことばを思い出していた。病院経営にはずぶのしろうとの高井は、河合の手腕に頼るしかなかった。
「それでいきましょう」
高井は事務長の進言を受け入れ、3階病棟を療養型病棟に転換することを決断した。
まもなく2階の一般病棟についで、3階の療養型病棟がオープンした。
外来患者が増えるとともに、一般病棟の入院患者も増えていった。外来が窓口となって、入院治療を必要とする重症者が入ってくるからだ。
療養型病棟への患者の受け入れも始まった。療養型病棟へは一般病棟に長期入院になった患者が移っていくのが普通だが、それを待っているだけでは、なかなか40床ある病棟は埋まらない。そこで他の病院に電話を入れたり訪問したりして、長期入院患者を紹介してもらったのだ。
こうして、2階の一般病棟、3階の療養型病棟は、着実に患者が増えていった。
高井は、内科と外科を兼務することになった。内科は診療科目の中でも中心的な科で、外来・入院ともに患者も多く、複数の担当医が必要だった。後輩の徳田が笑いながら、「僕だって、内科の名医なんていわれちゃいましたよ」といったことばが、高井にとって現実のものとなった。
高井は、この兼務に患者からクレームが出るのではないかと心配だった。大病院では、1人の医師が内科と外科を兼務することなどあり得ない。小病院だからこそできたのだ。
ところがクレームはいっさい出なかった。中川井病院を訪れる患者たちは、昔からの顔なじみが多く、病院を信頼してくれていた。 クレームが出るどころか、高井の外来に患者は集まった。外科医高井の内科外来は、好評を博したのだ。
外科外来の担当中に、自分の内科患者が受診することもあった。患者はその状況に全く違和感を訴えることもなく、
「あら先生、ついでに内科も診てもらおうかしら」
と、冗談めかしていうほどだった。
時には、駄菓子など来院とちゅうで買ったものを、
「はい、おみやげ」
と、差し入れしてくれることもあった。この病院では、医者と患者の距離がこんなにも近かったのだ。大病院にしか勤めたことのない高井には、新鮮な体験だった。
来院する患者が増えてくると、中には手術を必要とする患者も出て来た。高井は外科医でもあり、患者が希望すれば自分の病院で手術してあげたいと思っていた。
倒産する前の中川井病院では、外科や整形外科の手術を数多く行っていたのだ。
しかし、その手術室は一昔前の造りだった。広さは10畳ほどと見るからに手狭で、手洗い台が1機のみ、手術室内に設置してあった。
今ではこういうたぐいの手術室は見られない。近代的な手術室は、手術室の手前に前室という広い部屋があり、そこでストレチャーに乗った患者が、病棟看護婦から手術室看護婦に引き継がれる。手術スタッフは、前室に多数設置された手洗い台で手を消毒し、手術の準備をするのだ。
中川井病院では、10畳間くらいのスペースに全てが押し込められていた。麻酔器を設置し、手術台をかこんでスタッフが立つと、身動きができなくなるほどの狭さだった。
通常手術は、執刀医と前立ちの最低2人の医師によって行われる。高井は、週3回近隣の大学病院から来ていた非常勤の外科医師に、手術の件を相談した。
外科医師は、
「今どきこういう病院で手術をしているところは、この近辺ではありませんよ」
と、忠告でもするかのように高井に耳打ちした。
「私が責任をとりますから、手伝ってくださいよ。患者さんがやってほしいと頼んでいます」
高井はそういって手を合わせた。
4月に、初めての手術が行われた。最初は、手術器具の調整具合やスタッフの技量も分からないので、なるべく小さな手術を選んだ。高齢男性のソケイヘルニアだった。
病院には、手術経験のある看護婦が2名いた。1人は手術医に器具を手渡す器械出し、もう1人は、ガーゼを数えたり患者の血圧などを計ったりする外回りを担当した。
腰椎麻酔だった。以前は大きな手術をしていただけに、手術器具はそろっていたし、その準備は落ち度なくなされていた。
高井は穿刺針を受け取ると、慎重に腰椎に向けて皮膚を刺した。1回でうまく硬膜下に入り、臍から下方が麻酔された。
執刀医は高井、前立ちは非常勤の医師がなった。器械出しの看護婦が、高井の真横についた。
初めての手術に、みんな緊張していた。
「よろしくお願いします」
高井は軽く会釈して、スタッフに目配せした。
「メス」
「はい」
看護婦が高井にメスを手渡し、手術が始まった。
メスを右手に持つと、高井は腹壁に切開を入れた。切開創から血がにじみ出た。久しぶりに見る出血だ。
「コッフェル」
出血をコッフェル鉗子で止め、腸が脱出するヘルニア嚢を探した。看護婦も汗をかきながら、てきぱきと手術医の声に従った。
老人だけにヘルニア嚢は大きく、それはたやすく見つかった。ヘルニア嚢を切除すると、その周囲の壁を補強し、30分ほどで順調に手術は終えた。初めての手術にしては、何ごともなく上出来だった。
「みなさんご苦労さまでした」
高井は最初の手術を無事に終えて、前立ちの医師や看護婦に、安堵の表情でねぎらいの声をかけた。
「ご苦労さまでした!」
緊張していただけに、みんなの返答する声がはずんでいた。
「先生、良かったですね」
マスクをはずすと、看護婦の汗ばむ顔に笑みがこぼれた。
「そうだね。うまくいったね」
高井は、これならある程度の手術までなら、この病院でできるという感触を得た。
これは中川井病院にとっては、大きな一歩だった。
外科は治療の最後の砦となる科だ。内科で手に負えない場合、多くは外科が最後の治療手段となるからだ。内科しかない病院は、外科的な病気の場合はもちろん、少し重症気味になると、院内にとどめておくのは危険なので、すぐより高次の病院に搬送せざるを得ない。そのために内科病院では、外来でも治療できる患者が入院しているということも、よく見かけることだった。
手術ができるとなると、がぜん病院の診療レベルが上がった。
ヘルニアの手術に続いて、徐々に大きな手術を手がけるようになった。手術日には、麻酔科医と外科医に大学から来てもらい、胃や胆のう、大腸の手術を行った。
さらに高井は、内視鏡検査や超音波検査、血管造影検査などだいたいの検査をこの病院でこなした。血管造影などは、専用の検査室がないため、胃のバリウム検査を行う一般透視室で行った。
もう1人の内科医師に、患者全員の病棟回診をしてもらい、高井は午前に内科外来を担当し、午後は検査や手術を行うようにした。こうすれば常勤医2人という少人数でも、ある程度の医療技術を患者に提供できるからだ。
赴任する前、山梨理事長に、
「外科は、何も知らないが何でもできる。中川井病院には、こういう医師が必要だ」
といわれたことばが、今まざまざとよみがえった。
職員は文句一ついうことなく、高井についていった。廃院から病院を守った勇士たちだけに、水を得た魚のように生き生きと働いたのだ。
中川井病院は評判となり、外来・入院ともに患者が増え、病院の収入は順調に増加していった。倒産した病院としては、好調すぎるほどの滑りだしだった。