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3話 中川井病院

 横浜の郊外に、ベッド数100床という、小規模の病院があった。中川井なかがわい病院といった。


 この病院は、70年代初頭に、診療所としてスタートした。地域の信頼を得て患者が増加するとともに、数度にわたって増築し、現在の病院にいたったのだ。


 継ぎ足しで増築されたせいか、敷地が250坪と狭い割りには、地上5階地下2階といった、丈高の建物だった。


 70年代の病院は、病室の広さが、1床当たり4.3平方メートルと法律で決められていた。それは、90年代の病院の広さとは、比ぶべくもないほど狭く、快適な生活空間とはほど遠いものだった。


 中川井病院の病室もその基準で造られていた。その狭さに、20年という歳月が加わり、一昔前の病院といった様相を呈していた。


 それにもかかわらず、横浜の住宅密集地にあって、近隣に病院と名のつく医療施設がないという有利な立地条件のせいで、外来患者は時に500名を越えるほどの盛況ぶりだった。


 診療科目は、内科、外科、小児科、整形外科、耳鼻科で、特に目立った専門性はなかったものの、手術や人工透析も行われ、救急車も頻繁に出入りする活気ある病院だった。子供から大人まで、風邪引きから癌患者までが来院する、まさに地域に根ざした病院と、近隣の住民には評判だった。


 こんな出来事もあった。


 外来も終わりに近づいた夕暮れどき、一人の老婆が中年の女性に抱きかかえられるようにしてやって来た。たどたどしい足取りだった。ひと目でそうとう衰弱しているのが分かった。


「おばあさん、どうしたの。いつもと顔色違うよ」


 院長の谷口一郎は、やさしく声をかけた。谷口は内科が専門だった。その老婆は、谷口の外来に通院している患者なので、彼女の普段の様子をよく知っていたのだ。


「昨日から口がしびれて・・・」


 老婆は、おぼつかない口調で答えた。


「電話したらしゃべり方がおかしいので訪ねてみると、様子が変なんです」


 付き添いの女性が、老婆の背後から遠慮がちにいった。


「あなたは身内の方?」


「いいえ、近所に住んでる者です」


「そうですか。それはどうも。おばあちゃん、そこのベッドに寝てごらん」


 看護婦が老婆の背中を手でささえ、ベッドに寝かせた。


「手足しびれる?」


 谷口は老婆の手を取って、叩いたりつねったりした。


「左手がしびれてる」


「僕の手を握ってごらん」


 谷口が老婆の手を握ると、老婆は懸命に握り返そうとした。


「左手が弱いね。足は大丈夫そうだ。たぶん、脳梗塞。入院して治そう!」


 老婆の足を両手で屈伸させながら、谷口はいった。


「入院!」


 とたんに老婆の顔が曇った。


「そう、まだ軽いうちだから、これ以上悪くならないようにしないとね」


「でも・・・」


 老婆はベッドから起き上がろうとした。手に力が入らず、左によろけた。急いで看護婦が老婆の背中に手を添えた。


「おじいさんが・・・」


 弱々しく老婆はつぶやいた。悲しげな表情だった。


「おじいさんなら、先生が話して下さるわよ。ね、先生」


「今、入ってもらって下さい」


 谷口が目で合図すると、看護婦はドアを開けて呼びに行こうとした。


「違うんです」


 付き添いの女性が口をはさんだ。


「おじいさんは家で寝たきりなんです」


「寝たきり!」


 谷口と看護婦は、思わず顔を見合わせた。


「おじいさん、寝たきりだったの・・・」


 気の毒そうに看護婦は声を落とした。


「わたしが入院したら、おじいさんを看る人がいなくなっちゃう・・・」


「子供さんに頼めないかな?」


「みんな、遠くに行っちゃって」


「う-ん、これは困った。そうかといってお婆さんの病気もほっとけないし・・・」


 谷口は打つ手なしといった困り顔で、腕組みをした。


 外来診察室で、みな黙り込んでしまった。人気のない外来棟はいっそう静まりかえった。


 しばらくして、


「そうだわ、先生!」


 沈黙を破ったのは看護婦だった。


「どうしたんだよ?!」


 谷口は驚いて振り向いた。


「いっそのこと2人いっしょに入院してもらったらどうですか」


「2人とも?!」


 意外な言葉に谷口は面食らった。


「そうです。2人ともです」


 看護婦はしたり顔でいった。


「そうか。2人部屋ならそれもいいなあ。そうしよう。おばあさん、2人で入院しなさいよ」


 普通の病院では男女が同室に入院することなどありえないが、融通のきくところが、中川井病院のような小規模病院の最大の利点なのだ。


 老婆は涙を流しながら谷口にすがって、


「このとおりです、このとおりです」


と、何度も頭を下げた。


「ここはみんなの病院なんだから、心配しなくていいんだよ」


 谷口は看護婦に入院の指示を出した。看護婦と付添人に見守られながら、老婆は車椅子で入院病棟に上がっていった。


 こうしてこの老夫婦は2人部屋にいっしょに入院した。ほどなく老婆の病気は回復し、夫婦そろって退院して行った。


 中川井病院は、このように地域住民に信頼され、親しまれる病院だった。




 病院の経営が狂いだしたのは、分院建設に着手した86年頃だった。


 医療界はその時すでに、最新設備のある大病院に患者が集中する、いわゆる大病院指向の時代にあった。病院は患者を集めるため、高価な最新機器を競って備える過当競争に陥っていた。


 そこに厚生省の医療費抑制策が追討ちをかけた。厚生省は、年々膨張する医療費を押えるため、抑制策を次々と繰り出したのだ。医業はもはや不況業種に位置付けられるようになっていた。


 中川井病院の100床というベッド数は、採算が合いにくい規模だった。さらに、敷地面積の狭さが災いした。敷地面積が狭い丈高の建築構造は、1フロア当たりに設置できるベッド数が少なくなる。


 厚生省の規定で、ベッド当たりの床面積や看護婦数が、事細かに決められており、1フロアになるべく多くのベッドを設置した方が、採算性が良いのだ。


 中川井病院は分院を建設して増床する戦略に出た。ところがそれは裏目に出た。分院を無理にオープンした結果、負債が増大し、銀行からの借金返済に追われたのだ。


 それに追い打ちをかけるように、オーナー院長が、がんで急死するという不運に見舞われた。


 その後を継いだのが谷口だった。彼は実務型の前院長とは違い、病院経営にはうとく、学者肌の医者だった。


 90年の1月頃から、しばしば職員の給料の遅配が起きるようになった。欠配にはならなかったため、診療は平常通り行なわれていたが、病院の経営は火の車だった。




 3月に入った。


 午後の外来診療も終わり、遅番の外来看護婦が診療の後片付けをしていた。


「あーあ、今日も終った。こんな小さな病院なのに、毎日外来300人だもの」


 看護婦は、両手を伸ばしてあくびをした。


 しばらくして、


「た、た、た、大変よ!」


 入院病棟の赤城幸代看護婦が、血相を変えて駆け込んで来た。赤城は病院の中でも闊達な看護婦で、リーダー的存在だった。


「仕事終ったのに何をあわててるの?」


 外来看護婦は、けげんそうな顔で赤城を見やりながら、そのまま後片付けを続けた。


「のんきなこといってる場合じゃないよ。事務長がいないのよ!」


 赤城は、いかにもあわてた様子で声をふるわせた。


「そんなのしょっちゅうでしょ」


「違うのよ、行方知れずなの!」


「行方知れず?!どういうこと?」


 外来看護婦は困惑した顔で、はじめて掃除の手を止めた。


「昨日から連絡が取れないの。きっと給料が払えないからって、姿をくらましたのよ。あ-あ、院長や婦長どこにいるの。困った困った」


 赤城は、そう叫びながらせわしそうに、診察室を出て行った。


 事務長が、ついに失踪してしまったのだ。


 院長の谷口は、病院経営のことはいっさい事務長に任せていたので、どこから手をつけていいのか全く分からなかった。


 普通、雇われ院長の場合、経営はほとんど事務長に任せきりになっている。経営が安定しているときは、そのような体制でやってこれたのだ。


 医事課長の田上富美江が、


「私がやってみます」


と、事務長代行を買ってでた。


 医事課は病院の窓口となるところで、患者と多く接し、しかも金銭を取り扱っているので、部署としては、総務や財務に通ずるところがあるのだ。


 田上はまず薬屋と交渉した。薬が手に入らないことには、病院は手足をもがれたも同然だからだ。薬屋は現金払いならと応じてくれた。


 中川井病院の経営が危なくなっていたことは、口コミで薬屋も知っていた。薬代金の支払いが、最近、不定期になり遅れがちになっていたからだ。


 薬さえ手に入れば、毎日の売り上げで、その日暮らしの診療は何とか継続できた。


 しかし、それも長くは続かなかった。借金の返済が大きくのしかかってきたのだ。それに年2回のボーナス時期には、給料に必要な資金は、普通の月の3倍近く必要になった。銀行から一時借り入れをしなければ、それを支払うことはできない。借り入れたお金は、月割で銀行に返済するのが通常なのだ。


 ところが、経営が危うくなった中川井病院は、銀行からそっぽを向かれた。銀行は、危ないところには決して、金を貸さない。「銀行とは、晴れた日に傘を貸して、雨の日に取り上げる」と、社会的に揶揄されている通りなのだ。


 資金が底をついた中川井病院は、これを乗り越えるすべがなかった。見切りをつけた職員が、1人2人と辞めて行った。




 5月になって、田上に連絡が入った。谷口院長からだった。


「私は院長を辞める。あとをよろしく頼む」


 憔悴しきった声だった。必死にやり繰りしてきたが、刀折れ矢尽きたのだ。


 それ以来、院長も姿を見せなくなった。院長まで失踪してしまったのだ。院長、事務長不在という、前代未聞の事態が中川井病院に起きたのだ。


 院長というリーダーを失った中川井病院は、あえなく休院となった。


 突然の休院に、職員も患者も途方にくれた。


 患者の他院への紹介が始まった。外来患者は、紹介状を書くだけですんだが、入院患者は、転院先を探す必要があった。


 病床の3分の2は入院患者で埋まっていた。多くは慢性病の患者だった。60名余の患者の行先は、容易には決まらなかった。


 来る日も来る日も、田上は転院先を電話で探した。


「もしもし、こちら中川井病院ですが、こちらの患者さんを引き取ってもらえませんか」


 突然の電話に相手も驚いた様子で、


「患者さんに何かあったんですか」


 患者が病院を移るときは、いつも受け手の病院は慎重になる。トラブルを引き起こして、転院するケースが多いからだ。


「患者さんには何の問題も無いのですが、病院が・・・」


 田上は一呼吸置いて、


「病院が休院になったんです」


 相手は無言だった。受話器を手でふさぎ、仲間と話している声がかすかに聞こえてきた。


「検討して、またご返事します」


 どの病院も簡単には受けてもらえなかった。それでも粘り強く1件1件当たり、転院先を見付けていった。


 患者の中には、事情で何年も入院している者もいた。そういう患者にとって、病院は我が家も同然であった。転院先を見付けるのも難渋したが、患者を説得するのはもっと大変だった。いざ見つかっても、行きたがら無いことがしばしばあったのだ。


 看護婦逹にとって、長年面倒を見た身内のように親しくなった患者を、本人が希望しないまま、よそに移さなければならないのは、忍びなかった。


「何で私は出ていかにゃならんの」


 最後の一人となった寝たきりの老婆は泣き叫んだ。


「病院が閉鎖になっちゃうの」


 看護婦はすまなさそうにいった。


「ここにおいておくれよ。おじいさんもここで死んだんだ。どこにも行きたかないよ」


 手を合わせて泣きじゃくる老婆といっしょに、看護婦も泣いていた。


「ごめんね。ごめんね」


 看護婦は老婆のひたいを、涙にぬれた手でやさしく撫でた。


「病院が再開したら、必ず迎えに来てよ」


 看護婦の手をつかんで、老婆はいった。


「うん、必ず行くからね。待っててね」


 そういうと、看護婦はこらえきれずに大声で泣き出した。


「約束だよ。約束だよ」


 いつまでも老婆の声が廊下に響いていた。


 看護婦にとって、ここにいたいという患者を無理やり移さなければならないのは、心が痛んだ。


(いったい自分は何をやっているんだろう。患者さんを安心させるのが自分の勤めなのに)


 そう思うと、悔し涙が止まらなかった。


「ごめんね、ごめんね」


 何度も同じ言葉を繰り返しささやいた。


 転院先がみつかり、1人1人無事移送し終わった時、それまでの緊張の糸が切れ、皆、茫然となった。




 患者という主を失ったベッドが閑散と並ぶ大部屋に、赤城はひとりたたずんでいた。赤城は、看護学校を卒業すると、すぐこの病院に赴任した。今までの人生の大半を、ここで過ごしたのだ。それだけに思い入れは人1倍強かった。


 色あせた、というより薄汚れた壁に手を掛け、ゆっくりと何かささやいていた。


「ありがとう、今日まで、患者さんを見守ってくれて」


 何か大切な人をいたわるように、やさしく壁を撫でた。


「もう、今日でおしまい。もう休んでいいのよ。患者さんはみんな退院していったわ」


 語りかけながら涙がこぼれ落ちた。すりへった床は、忙しく働いた職員の汗のあかし。汚れた壁は、病魔と闘った患者の涙の跡だった。


「さようなら、さようなら・・・」


 語りかけながら、病室を回診でもするように、赤城は一巡した。


「これですべて終わった」


 病室を出る時、なんども後ろを振り返りながら、赤城はおじぎをした。


 すると奥のほうから、声がしたように感じた。


「もう一度帰ってくるよ。再開したら呼び戻してね。待ってるよ。待ってるよ」


 むりやり転院させられた不運な老婆の叫びだった。


「きっと、迎えに行くよ!」


 赤城はこぶしを握りしめ、涙声で叫びながら、思い切り廊下を走った。




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