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6話 主はわたしのいのちの砦

 中川井病院の競売開札を翌月に控え、いよいよ医療法人賛善会の動きが慌ただしくなってきた。3月に入って間もなく、賛善会の緊急理事会が埼玉で開かれた。


 議長席に座った山梨理事長は、配布された議案書に目をやり、ひっ迫する賛善会の経営状況を説明し始めた。


「みなさんも先般来ご承知のように、賛善会の経営はきわめて厳しい状況にあります」


 山梨の険しい表情に、会議室が水を打ったようにシンとなった。


「今日は、理事会として決議しなければならない議案があります」


 山梨はそういうと高井の方に目をやった。高井にはすでに山梨から根回しがしてあった。


「横浜の中川井病院はこの1月、競売に出され、4月4日がその開札日となりました。賛善会にはそれを落札するだけの資金的ゆとりがありませんので、残念ながら他の医療法人に移譲しなければなりません。そこで皆さんにその承認をいただきたいのです」


 山梨は競売の経緯を、淡々とした口調で説明した。


「理事長、ちょっとよろしいですか」


 高井は手を上げた。


「どうぞ、足りないところがあればいってください」


「ただ今、理事長先生のご説明の通り、当院は経営を移譲せざるを得ない状況になりました。先月には県からホスピス病棟の認可が正式に下りました。これによって当院は、3月は黒字に転換できる見込みです」


 会議室に小さなどよめきが起きた。


「4年前に院長として私が赴任して以来、ホスピスを造ろうと呼びかけ、職員たちの士気を鼓舞してまいりました。職員も文句ひとついうことなく、それによくこたえてくれました」


 高井は語りながら感極まって言葉につまった。一呼吸おいて、


「認可もないのにホスピスをうたったがために、これまで赤字を出し続けました。その間、職員たちには我慢をしいるのみで、一度も良い思いをさせて上げられませんでした。ホスピスが認可されてこれからという時に、他人に渡ってしまうとは痛恨の極みです」


 中川井病院は小病院であり、倒産寸前にあったところを賛善会に拾われた病院だけに、すべてが本院より後回しにされて来た。1千万円近い高額な医療器具でも、本院では医師のひと言ですぐ購入されているのに、中川井病院では1年もかかった。


 病院が古いということは設備も器材も全てが古い。手術器具にしろ検査器具にしろ大部分のものは、昔からある古いものが中川井病院ではそのまま使われていたのだ。


 高井は埼玉の本院を訪れるたびに、その恵まれた環境を目の当たりにして悔しい思いを何度もしてきたのだ。


「高井院長もよく頑張ってくれました。それには深く感謝しています」


 そういうと山梨は、議事が停滞しないように話を続けた。


「受けてくれる相手のめどはありますか」


 理事の1人が質問した。


「数件あります。今交渉しているところです」


 賛善会としては、中川井病院の黒字のめどが立ったときにこそ、強気に移譲の交渉が進められるのだ。


「黒字になったのなら、何とかうちでやっていけませんか」


 他の理事がいった。


「それができるくらいなら、こんな議論はしていません」


 山梨は語勢を強めた。


「しかし、黒字化が確実なら、銀行に交渉するなり手はあるのではありませんか」


 なおもその理事は食い下がった。


「診療報酬は2カ月後にしか現金になりません。今は、その2カ月をしのぐのに四苦八苦している状況なのです。下手すると、本院も共倒れになります」


 山梨のこのひと言で理事会は収まった。




「山梨理事長、競売の進み具合いはどうですか」


 1週間ほどして高井は理事長に電話を入れた。中川井病院の職員たちが浮き足立っていたからだ。事務長不在に、給料が遅配となれば、それは当然なことだった。


「合意までにはまだ至っていません」


「めどが立たないと職員たちを治められません。退職をいい出す者も次々と出てきているのです」


 高井は病院の窮状を切々と訴えた。


 1度倒産を経験している職員たちは、2度目の倒産を予感して動揺していたのだ。


 彼らは群れをなして院長室に押し寄せた。


「院長、この病院は大丈夫なんですか!」


「詳しく説明してください!」


 口々に叫んで高井に迫った。


「本部に問い合わせている。今は騒がずに返事を待とう」


 高井はそういって、職員たちをなだめるのが精一杯だった。




「もう少し頑張ってください。3月一杯には話をつけますから」


 山梨はかしこまるようにいった。


 移譲の話が進まないのは、買い手が様子見をしていたからだ。古くしかも狭い施設に4億円という値は、バブルがはじけた時勢には安い買い物ではなかった。たとえ落札して手に入れたとしても、そのまま使うには時代遅れの病院だった。さりとて建て替えるとなると、さらに倍の費用がかかってしまうのだ。


 そういう読みから、買い手は二の足を踏んでいたのだ。




 3月の下旬になっても朗報は入ってこなかった。4月4日の開札日が迫っていた。このまま買い手がつかなければ、中川井病院は閉院に追い込まれるのだ。


 高井も座して待つこと無く、方々の知り合いに声をかけてみた。唐突な話しに驚くばかりで、相手にもされなかった。4億もする商談を突然持ちかけられれば、驚くのが当たり前のことだ。


 突然、金融業を名乗る男から高井に電話が入ることもあった。明らかにヤミ金融と分かるぞんざいな物いいだった。


「あなた高井さん?」


「そうですが」


「融資の話は聞いているね?」


「大筋は聞いています」


 とっさに高井はそう答え、口裏を合わせた。山梨理事長が金策にとった手立てだと察しがついたからだ。そこまで病院経営はひっ迫していたのだ。


 夜までそういうたぐいの電話が入り、気が休まらなかった。高井はあまりのストレスに不眠がちとなって、精神安定剤を飲み始めた。




「 いよいよこれまでか……」


 午後の診療を終えて院長室に戻った高井は、窓際に立つと夜空を見上げて観念したようにつぶやいた。


 赴任後のこの4年間に起きた様々な出来事が、走馬燈のように頭の中をかけ巡り、しばし無言で立ちつくした。


 プルルル、プルルル。


 突然の電話に我に返った。


「田上ですが、今よろしいですか」


「何かあったの!」


 周りに人がいるらしく、田上はひそひそ声でいった。


「院長先生、お身体大丈夫ですか」


「何とかね」


「きっと、誰か買ってくれますよ」


「それを祈るのみだね」


 田上は何かいいたげに、しばらく黙っていた。


 そして語気をやや強めて、


「誰か買ってくれると思います」


 田上は繰り返した。


「そんな情報が入ったんです」


「え!」


 高井は耳を疑った。まさかあり得ぬ話しだといぶかりながらも、ワラをもつかむ思いでその言葉に飛びついた。


「ちょっ、ちょっと、院長室に来てくれませんか」


 ほどなく息せき切って田上がやってきた。4階まで階段を駆け登ってきたのだ。


「その情報、何ですか!?」


 絨毯敷きの床に座った田上のそばに、高井はにじり寄った。


「まだ秘密ですが、嘘ではありません」


「だって、病院に打診しないで買おうなんて人はいないと思うよ」


「でも、知り合いの人がそういってました」


「知り合いの人?」


「誰かはまだいえませんが、院長先生もご存じの方です」


「僕も知っている?!」


 真剣な田上の眼差しに、高井は何かあると直感した。知り合いとは一体誰だろうか、心の中で思い巡らせていた。


「今、入札期間ですので、くれぐれも内密にしてください」


「分かりました。それを聞いただけでも肩の荷が軽くなりました。希望が出ましたよ」


 絶体絶命の窮地に立たされた高井は、たとえそれが嘘の情報であったとしても、ほのかな希望が持てたことで心が躍り、田上を見つめて初めて笑顔を見せた。


 田上は最近、高井が精神安定剤を飲んでいることを知っていた。医事課にいると、すべてのカルテに目を通すからだ。その量が次第に増えていることにいたたまれなくなり、その知り合いに頼んで少しだけ伝えることを了解してもらったのだ。


「僕はこれでやっと院長職から解放されるね」


 高井は立ち上がると、椅子に座って天井を見上げた。


「何をいわれるんですか!」


 田上が憤った声でいった。


「僕は院長の器じゃない。こんな事態を招いた以上、責任をとらなきゃならないよ」


「先生以外に、この病院を守れる人がいますか!とやかくいう人はいますが、院長先生がリードしてくれたからこそ、みんなは必死に頑張って来たんじゃないですか」


 いさめるように田上が話すのを聞きながら、高井は我慢しきれずに嗚咽した。リーダーが倒れれば組織は崩壊すると気丈に振る舞って来ただけに、彼女の言葉が心の琴線に触れ、こらえきれずに男泣きしたのだ。


 田上も床に座したまま、伏し目がちに涙を流していた。


「そういってくれてありがとう」


 高井は椅子から身を起こし田上に近寄ると、やさしく肩を抱いた。




 4月に入った。


 月初めには恒例の全体朝礼があった。


 崖っぷちに立たされた病院の命運が決まる大事な月でもあり、高井は緊張していた。職員たちも院長の言葉を聞き逃すまいと、息をこらして待っていた。


 高井は前に立つと、田上をちらりと見やった。田上は小さくうなずいた。


「みなさんもご承知のように、この4日に競売の開札があります。この日に病院の命運が決まります。まだ確定的なことはいえませんが、大いに望みはあります。この病院が地域に必要ならば、必ずや道は開けます。それを信じて私たちは、自分の職務に心をこめて励みましょう」


 高井は田上から入札の話を聞いていたので、自信ありげに堂々と話すことが出来た。


 その毅然とした話しぶりに私語する職員はいなかった。


 その時ホスピス医師町田が手を上げた。


「ちょっとよろしいでしょうか」


 前に出ると、


「念願のホスピスが認可されました。この病院は評判が上がり、患者さんがどんどん増えています。この地域に病院は絶対に必要です。みんなで力を合わせてこの病院を守りぬきましょう」


 いっせいに拍手が起きた。職員たちの表情に笑みがこぼれ、活気がよみがえった。それを見て高井はほっと胸をなで下ろした。


 あとは4日の開札を待つのみだ。「まな板の鯉」という表現がぴったりとする、高井の心境だった。




 4月4日になった。


 高井は田上に競売会場に出向いてもらった。なるべく早く開札結果を知りたかったからだ。


 昼前に田上から電話が入った。


「仁愛会が落札しました!」


 田上は歓喜の声を上げた。


「仁愛会?・・・」


 高井は仁愛会という名前を思い出そうと、しばらく沈黙していた。


 はっと思い付いたように、


「仁愛会って、河合さんの行ったところ!?」


 思わず声がうわずった。


「そうですよ。先生もよくご存じの。良かったですね」


 田上は茶目っ気たっぷりにいった。


「そうだったのか・・・」


 感慨深げにうなずくと、


「どうもご苦労さまでした。すぐみんなに伝えます」


 高井は各部署の職員たちに急いで電話を入れた。


「仁愛会?」


 職員たちは口々にいった。その名前は誰も知らなかった。しかも仁愛会の事務局長が河合であるとは、想像だにしなかった。


 中川井病院から賛善会病院に異動になった河合事務長が、その後、どこに移ったかは誰一人知らなかったのだ。


 ひとまず病院は存続できる。安堵の声が病院中に響きわたった。




 数日後、仁愛会の河合事務局長が中川井病院を訪れた。


 高井と河合は運命の糸のようなもので結ばれていた。90年の倒産の時、高井は中川井病院の院長として河合に招聘された。その後、本院の事務長に河合を推薦したのは高井だった。その河合が、今度は窮地に立つ高井を助けに来てくれたのだ。


 高井は、外来職員と共に病院の玄関で河合を出迎えた。


「河合事務長だわ!」


 職員から声が上がリ、一瞬ざわめいた。


「今は事務局長だよ」


 高井は小声でそっといった。


 事務長はいち病院の事務方の長にすぎないが、事務局長は医療法人の理事長代行の重責をにない、事務長とは格が違うのだ。河合は仁愛会に移ってから持ち前の実行力を発揮して、傘下の病院全ての経営を立て直した。その手腕を買われて、事務局長に抜擢されたのだ。


 2人はがっちりと握手した。拍手が起きた。河合は、迎えに出ていた顔見知りの職員と握手して回った。


「よく来てくださいました。職員を代表してお礼申し上げます」


 高井は丁重に礼をいうと、院長室に案内した。


 ソファーに座ると開口一番、


「先生に院長をやってもらいますからね」


 機先を制するように河合はいった。田上から高井の辞任話を聞いていたからだ。


「僕は考えつく限りのことをしてきました。それがこの結果ですから、僕ではこれ以上病院は良くなりませんよ」


 高井は院長の重荷から解放されて、少し休みたいと思っていた。 小病院の院長は、診療はむろんのこと、病院経営の責任も負い、しかも、一番の稼ぎがしらにならなければならない。この4年間、まさに毎日が「かごの鳥」のような生活だったのだ。


「ホスピスや療養型病棟に目をつけるとはたいしたものですよ。この建物の構造からして、再建するにはそれ以外には手がないですよ」


 河合は高井を持ち上げた。


 確かに、大都市横浜にあってもどこもやっていない、ホスピスや療養型病棟を最初に開設したのは中川井病院だった。それを見学しようと、この古い病院にたびたび視察団が訪れていたのだ。


「実際、ホスピスが認可されて、3月の売り上げは7500万でした。これなら十分にやっていけます。もう心配はいりません」


 河合は昔一緒に働いていただけに、責任感の強い高井の性格をよく知っていた。


「先生も大変なものを背負わされて苦労しましたね。悪いことばかりは続きませんから、これからは仁愛会で前向きにやっていきましょう」


 2人は奇跡にも似た再会に、嬉々として語り合った。


 電話が鳴った。田上からだった。リハビリ室で、職員みんなが待っているとのことだった。田上が気をきかせて、セッティングしたのだ。


 高井は河合を案内してリハビリ室を訪れた。職員たちが勢揃いしていた。


「河合事務局長、お帰りなさい!」


 みんなが叫んだ。河合は少し驚いた様子で、みんなの前に立った。


 高井が、


「仁愛会の河合事務局長です」


 と彼を紹介した。


 河合も懐かしそうに職員たちを見渡して、話し出した。


「私は4年前、この病院の事務長でした。そのときの職員の顔が今も多く見られます。高井院長をリーダーに、皆さんは身をていしてこの病院をよく守ってくれました。私がここに戻って来たからには、もう苦労はさせません。希望を持って、のびのびとより良い医療を、地域の人々に提供していきましょう」


 職員は総立ちになり拍手喝采した。顔見知りである河合の登場に、職員は安堵と歓喜に満ち溢れていた。




 運命とは不思議なものだ。まるで運命の糸で結ばれたとしかいえないような出来事が、実際に起きるのだ。


 中川井病院は、倒産寸前の憂き目に2度も遭遇しながらそれを乗り越えた。地域住民のいのちの砦となったのだ。


 そして今日もなお、その砦であり続けている。




「神は迷える羊を窮地から救ってくださいました」


 高井は聖書を手に取った。


 旧約聖書 詩編 27章1節に、こう記されていた。




主はわたしの光


わたしの救い


わたしは誰を恐れよう


主はわたしのいのちの砦


わたしは誰の前に


おののくことがあろう




《完》



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