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5話 崖っぷち

 95年に入った。


 中川井病院は新年早々、病院の競売入札の詳細が裁判所によって公告され、開札日は4月4日と決まった。


 その一方で、県のホスピス認可作業が、大詰めを迎えていた。県の担当官が視察に病院を訪れたり、提出書類が病棟の見取り図や、病室、付帯設備の写真、スタッフの名簿などと、具体的なものになってきていたのだ。


 競売とホスピス認可。この大事が時を同じくして動いていた。


「今年は一波乱ある」


 誰しもがそう予感する新年だった。


 


 午前中の外来診療を終えて、昼食を取りに高井は食堂に入った。


 テレビがニュースを放映していた。上空からの映像が、もくもくと煙を上げる街並みをとらえていた。まるで街全体が燃えているようだった。


「どこの国だろう?」


 高井は食事をしながら、のんびりと画面を眺めていた。


 実況中継のアナウンスが入った。


「燃えています。灰色の煙が至るところで空高く舞い上がっています。神戸の街が燃えています」


「えっ!神戸」


 阪神淡路大震災だった。1995年1月17日午前5時56分に発生したのだ。


 高井はこの日早番で病院に入り、そのまま午前の外来診療をしていたので、大震災のニュースを知らなかったのだ。


 次々に映し出される被害の大きさに愕然とした。はかり知れない災禍に日本国中が巻き込まれるような、例えようのない不安が脳裏をよぎり身震いした。


 高井は居ても立ってもいられず、埼玉本部に電話を入れた。


「もしもし、山梨理事長はおられますか」


 賛善会病院の事務長が出た。


「理事長は、ただいま大阪の方に行かれています」


「大阪に?」


「弟さんの経営する病院が、地震で被害を受けたようなのです」


 高井はそれを聞いて、「弟も関西で医療村を経営している」と、前に山梨理事長がいっていたことを思い出した。


「その病院、大丈夫なんでしょうか」


「まだ連絡が入っていないので分かりません。入り次第ご連絡いたします」


 理事長がいない本部で、事務長も不安げな様子だった。


 日本国中がこの大震災で大揺れに揺れた。流れるニュースは大震災一色になった。政府は、激甚災害に指定して救助に乗り出した。自衛隊の出動や、日本全国からかけつけたボランティアで、救助活動が大々的に展開されたのだ。


 阪神淡路大震災は、死亡者総数6400人を越える大被害をもたらした。




 しばらくして山梨理事長から電話が入った。


「医療村は大阪でも西寄りなので、窓ガラスが割れたり壁にヒビが入ったりの被害はありましたが、幸いにも入所者に負傷者は出ませんでした」


「それは良かったですね」


「ところが関西の経済的な混乱で、取引銀行との交渉が大変でしたよ」


 山梨は疲れ声でいった。


「こちらは大丈夫なんでしょうか」


 高井の関心は、もっぱら埼玉の本部がどうなるかにあった。


「こちらの銀行も大阪と同じです。銀行側からすれば、西も東もありませんから大変厳しい状況です」


 大阪の病院の被害は軽かったものの、同じ銀行から融資を受けていた関係で、もろに埼玉の方にも影響した。銀行は賛善会に対して警戒レベルをさらに引き上げたのだ。


 賛善会にとって、94年の内部抗争の後遺症は根深く残っていた。取引銀行の信用失墜を招き、思うような融資を受けられないでいたのだ。来院患者の減少で病院収入も伸び悩み、本院である埼玉の病院でさえ資金繰りに難渋していた。そこに大震災が追い打ちをかけたのだ。




 中川井病院も当然その余波を受けた。運転資金は埼玉が優先されたため、中川井病院で2月から給料の遅配がついに起きたのだ。


 1度倒産の苦汁をなめている職員たちは、給料遅配に始まった当時と同じような状況に極めて敏感だった。


「病院は大丈夫か」


「競売はどうなっているのか」


 不安の声が病院中に渦巻いたのだ。


 高井は内心、心もとない思いだったが平静を装った。飄々(ひょうひょう)としたいつもと変わらぬ態度で診療に臨んだ。トップが動揺すれば、全員が浮き足立ってしまうからだ。




 2月下旬の朝、突然事務長が院長室にやってきた。ちょうどその時、耳鼻科の非常勤医師が院長室にいた。


「再三給料の振り込みをきちんとしてほしいといっているのに、いいかげんになっています」


 非常勤医師は、院長に直談判をしていたのだ。


「これ以上いいかげんにするなら、今月一杯で私たちは引き上げます」


「本部に聞いてみますから、もう少し時間をくださいよ」


 高井は金銭管理は埼玉本部でやっているので、詳しいことは知らされていなかった。


 事務長は入って来るなり、


「それは先日も説明したでしょう!」


 語勢を強めていった。本部の通知を受けて給料遅配に対処はしていたが、直接お金を動かせる立場ではないので、事務長としても手をこまねいていたのだ。


「きちんとしなければ、今月一杯で辞めます」


 そういい放つと、非常勤医師は院長室を出て行った。


「本部の方でやってくれないからどうしようもないんですよ」


 事務長は険しい表情でそういうと、やにわに背広の内ポケットに手を入れ、白い封筒を取り出した。


「今日で辞めさせていただきます」


 辞職願いだった。


「ちょっと待てよ。こんな事態で辞めるとは卑怯だろう。敵前逃亡だぞ」


 高井は声を荒げた。


「やっておれませんよ」


 本部の金策がうまくいかず、中川井病院は全てが後回しにされたのだ。事務長は本部に直訴したが、いっこうにらちが開かずついに腹を決めた。


 突然の辞意表明だった。事務長は無造作に辞表を机の上に置くと、そそくさと出て行った。


 高井はすぐに本部に電話を入れたが、既に本部にも辞表は出され、受理されていたのだ。




 事務長の退職は、またたく間に病院中に広まった。90年の倒産時、事務長が失踪したのと同じ出来事に職員の動揺は大きかった。


 事務長が不在になると、事務仕事がもろに高井に回ってきた。ホスピスの認可が近いときだけに手続きは山積し、忙しい診療の合間にそれをこなすのは至難の業だった。


「私でよかったら、事務長を代行しましょうか」


 そう申し出たのは、医事課長の田上富美江だった。


 彼女は90年の倒産時にも、事務長代行を勤めたことがある。当時は院長、事務長ともに失踪し不在になってしまったのだ。


 田上が事務長代行に起用された。


 医業にとって真っ先に必要な事務手続きは、薬の仕入れだ。薬さえ手に入れば、医業は何とか続けられる。


 田上は薬業者と交渉して、現金払いなら薬を納入してもよいという約束を取り付けた。


 まさに綱渡りの日々が始まったのだ。


 高井と田上が、職員たちに病院の実情を説明して回った。


 高井の説明に常勤医師たちは、


「今後の勤務は約束できません」


と、みんな冷たくいい放った。


 ホスピス医だけは、


「私は今お金に困っていませんから、給料は職員たちにまず渡してください。大変でしょうが院長先生頑張りましょう」


 苦境に立たされた時のその言葉に、心からありがたいと高井は思った。


 大学から来ていた小児科の非常勤医師たちも、


「先生も大変ですね。私たちはお金のためだけにやっているのではありません。すぐ引き上げるようなことはしませんから、安心してください」


 人間は窮地に立たされると本音が出るもので、高井は良識ある医師たちの言葉に励まされ慰められたのだ。




「院長先生、ホスピスが認可されましたよ」


 田上事務長代行から報告があった。2月の末、県から連絡が入ったのだ。3月からホスピス病棟が、医療保険のきく正式な緩和ケア病棟として、県に認可されたのだ。


「おめでとうございます」


「そうか、おめでとう。ついにおりたか・・・」


 高井は感慨深げに天を仰いだ。


 これまで患者1人当たりの収入が月40万ほどだったのが、3月からはその約3倍になる。月5百万の赤字を出していた病棟が、5百万の黒字を出すことになるのだ。


 通常なら祝宴をもうけるところだが、高井は手放しで喜べる心境ではなかった。目指してきたホスピス病棟がやっとのこと認可されたというのに、病院本体が今売りに出されているのだ。


 中川井病院に赴任して4年、病院再建のためホスピス開設にエネルギーの大半を費やしてきた。高井は自分の給料はおろか、私財までも病院に投入していたのだ。




「神様、これがあなたのみ心ですか。4年をかけたホスピスが認可されたというのに、病院は消えようとしています。全てが無に帰そうとしています」


 院長室の窓から夜空を眺めながら高井は祈った。


 心の中でやさしくささやく声がした。


「嘆くな。あなたは何も失いはしない。あなたのささげたその行いで、何人の命が救われただろうか。世のために全てをささげたのだと自分を誇りなさい。それ以上の愛はないのだから」


 涙が溢れて頬をつたった。



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