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3話 お家騒動-病院崩壊

 94年の初夏、中川井病院の総婦長が、新聞片手にあわてた様子で院長室に入ってきた。


「院長、こんなものが出ていますよ」


 記事が見えるように開いて、彼女は新聞を差し出した。


 高井は目を疑った。


「病院崩壊-医師権力闘争(埼玉賛善会病院)」


 大手新聞朝刊だった。社会面の4分の1を占めるほどの大々的な記事だった。


「まさか、マスコミにまで取り上げられるとは」


 高井は頭の中が真っ白になった。心配していたとはいえ、本院の内紛がこれまでにこじれるとは思ってもいなかった。


 医局内抗争が高じて、病院内の権力闘争という常軌を逸した事態が、埼玉の賛善会病院で起きたのだ。


 折しもその頃、中学校教師の権力闘争といった似たような出来事が、マスコミを賑わしていた。教育者ともあろうものが権力闘争とはなにごとだと、社会問題になっていたのだ。


 そのマスコミが、今度は賛善会病院の異常事態をかぎつけた。大手新聞の全国版に、「病院崩壊」という見出しで、大々的に取り上げられたのだ。




 94年に入った頃から、賛善会病院の医局内抗争は極に達していた。金子院長と伊良部副院長率いる医局員が、露骨な権力闘争を展開したのだ。


 関東大学の中尾前教授の門下生だった金子院長は、荒井教授配下の伊良部副院長とは年齢が一回りも違い、もともとそりが合わなかった。


 金子院長は性格的に一徹なところがあり、昔流儀のやり方もあいまって、医療の考え方から手術手技などの医療技術に至るまで、若手の医師とは意見が合わず、医局では孤立していた。


 河合事務長はその対立のほこを収めようと、医局にたびたび顔を出して手を打った。


 医局員に不評だった夜の抄読会は、昼休みにするようにして、医局員の負担を軽くした。


 長年続いてきた6時半までの午後の外来時間を、2時から5時までに変更した。6時半までの受け付けは、午後に手術時間をとるために金子院長が発案したものだった。


 河合は毎月開かれる医局会にその都度同席して、紛糾する意見の調整を図るなど尽力したのだ。


 医局での対立の影響は、当然のことながら診療現場にも波及した。時には、ナースセンターで2人が異なる指示を出すこともあり、看護婦たちも混乱してしまいノイローゼになる者まで出たのだ。


 初めは感情的な対立だったのが、現場を巻き込んでの抗争に発展してしまった。ここまで来ると果てしない泥仕合になって、双方とも歩み寄ろうという姿勢が全くなくなった。


 伊良部派は金子院長ではやっていけないと、ストライキまがいの行動に出たのだ。病院中がその騒動に巻き込まれて騒然となった。


 医局の融和を図ろうとした河合事務長の努力も徒労に終わリ、責任をとって彼は事務長を辞任したのだ。




「河合事務長、3月で辞められるんですって?」


 河合を見かけると矢継ぎ早に高井は尋ねた。


「もう耳に入りましたか」


 河合は苦笑しながらうなずいた。94年の3月1杯で、河合は賛善会病院を退職することになり、昔、事務長を勤めた中川井病院の仲間たちと会うためにそこを訪れたのだ。


「この間、理事長から連絡がありましたよ。また急にどうしてですか」


「急でもないんですよ。前から理事長には話していたんですが、慰留されていたんです」


 山梨理事長の片腕的存在だった河合事務長がいなくなることは、賛善会にとっては大きな痛手だったのだ。


「金子院長とうまくいきません。医局がこんなことでは病院は崩壊しますよと、去年から何度も忠告してたんですが、駄目でした。ここまでこじれると、もう手立てがありませんね」


 河合は肩をすくめてお手上げですというしぐさをした。


「ところで河合さんの行く先は決まっているんですか」


「決まっています。千葉にある仁愛会病院に行きます」


「仁愛会?」


「山梨理事長の知り合いの病院です。仁愛会は400床ほどのグループ病院を持っているんです」


 山梨理事長は、自分の片腕として活躍してくれた河合が、金子院長とうまくいかず辞めることになったのを不憫に思い、知人の仁愛会オーナーに彼を紹介したのだ。


 仁愛会のオーナーは、中川井病院の債権者の1人だった。山梨理事長は、90年に仁愛会等と中川井病院の賃貸借契約を結んで開業したのだ。それ以来両者には深いつながりがあった。


 仁愛会でも、ちょうど事務長クラスの人材を探していて、もろ手を挙げて歓迎してくれたのだ。


「残念なことですが、ご縁があればまたいっしょにやりましょう」


 高井は手を差し出した。


「先生も、後をよろしくお願いします」


 河合は、かつて部下だった中川井病院の職員たちを気遣うようにいった。


 2人は両手で固い握手を交わした。




 河合の退職を契機に、賛善会病院は坂道を転げ落ちるように混乱していった。


 河合の後任は、医療経験の浅い事務長で、医局内の対立を治めるほどの力量は持ち合わせていなかった。


 山梨理事長は、経営立て直しに諸銀行を回りながら、埼玉や横浜、実弟の医療村のある大阪を飛び回っていた。賛善会病院には常在する時間がなく、事務長に指示を出し、自らは時々医局に顔を出すくらいが関の山だった。




 4月に山梨理事長は、近況の報告がてらに関東大学の荒井教授を訪ねた。


「そちらさんの病院は何をやっているんですか」


 ソファーに座るなり荒井教授は語気を強めていった。派遣している医局員たちから、賛善会病院の医局騒動を聞きつけていたのだ。


「恥ずかしながら、当院の医局で、院長と医局員が対立してしまっているのです」


「伊良部君から聞いたんですが、おたくの院長が院長権限と称して、伊良部君には手術をさせてないというじゃないですか!彼らも勉強のためにそちらに行っているんですから、外科医に手術をさせないとはとんでもないことですよ」


 金子院長は窮地に立たされ思いあまって、伊良部副院長に対して手術室出入り禁止の強権を発動したのだ。手術は自分だけがやるといって、伊良部を手術室から閉め出してしまった。


「こんなことを許しているなら、うちから医師を出すことはできませんよ」


 荒井教授は山梨をにらみすえた。


「私から再度院長を説得してみますので、もう少し時間を下さい」


 山梨はかしこまった顔で頭を下げると、上着の内ポケットから厚手の封筒を取り出し、荒井教授の前にそっと差し出した。荒井教授は、日常茶飯事のことでもあるかのごとく呑みこみ顔にそれを手に取り、白衣のポケットに収めた。


「山梨先生、熟慮なさったほうがいいですよ。派遣している大半の医局員たちは怒っていますからね」


 穏やかな口調ながらも、医局員引き揚げをほのめかす脅迫にも似た言葉だった。


 山梨は心中穏やかではなかった。


 金子院長は、前任の中尾教授時代、将来の教授を嘱望される逸材だった。それをなげうってまでして、山梨理事長の医療村構想に共感し、賛善会病院の院長に就任したのだ。10年余にわたって病院を盛り立ててくれた金子院長に引導を渡すのは、あまりに酷なことだった。




「金子先生、困りましたね」


 山梨は理事長室で、金子院長と向かい合った。


「中尾教授時代は、気心も知れてやりやすかったんですが、今の教授になってからは、毎日が権力争いのようなていたらくです」


 金子院長はもともと学者肌の医師で、院長という権力の座に力ずくで居座ろうというタイプの人間ではなかった。


「ここまでこじれてきては、私が身を引くしかないでしょうね」


 金子は権力闘争に明け暮れる毎日に、嫌気がさしていた。


 山梨は金子のこの言葉に目頭が熱くなった。


「あなたにそんな思いをさせなければならないのは、私の不徳のいたすところです」


「理事長の理想を実現したいと思ってやってきましたが、ここいらが潮時ですね」


 金子は左手で髪を撫でながら天井を見つめた。


「名誉院長はどうですか」


 山梨理事長は、せめてもの恩返しにと、金子を名誉院長に就けようと思っていた。


「いや理事長、ことここに至っては名誉院長どころではないでしょう。私は他に移りますよ」


 金子はすでに覚悟を決めていたのだ。


「申し訳ない」


 山梨は伏し目がちにいった。




 2人のこの話し合いがあって間もなくして、臨時理事会が開かれた。院長選任の件が話し合われたのだ。


 理事の中にも金子院長を支持する者もいたが、全面的に医師派遣を大学に頼っている以上、山梨理事長の提案を飲むしか他にすべはなかった。


 山梨は荒井教授にこの経緯を説明し了解を得た。伊良部新院長で6月からスタートする手はずが整った。




 ところが、晴天の霹靂のような出来事が起きた。とつじょ金子院長が退任を撤回したのだ。



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