2話 光と影-ホスピスの日々
高井は翌日、ホスピスの町田医師と会って、理事長のことばを伝えた。
「理事長から、ホスピスの赤字はどうにかならないかといわれました」
高井は慎重に言葉を選んで語りかけた。
「厚生省の認可が降りるまでは、経営が難しいことはご存じなのでしょう」
町田医師はホスピス病棟が赤字であることはよく知っていた。しかし、認可が取れないことにはどうすることもできなかったのだ。
「埼玉の本院の方も例の内紛があって、経営が厳しくなっているようなのです」
高井は、理事長から聞いた賛善会の経営状況を、資料を見せながら町田医師に説明した。
町田医師は困惑顔で、
「どうしたらいいのでしょう」
「今は一般病棟と同じですから、いつも満床にすること、点数になることを少しはやることですね」
点数になることとは、投薬や検査などの医療行為をすることだ。そういう医療行為には、保険点数がついて病院の収入となる。厚生省認可がなければホスピスとは名ばかりで、保険上の扱いは一般病棟と同じなのだ。患者の話を聞いたり、音楽会を催すなどのホスピスケアの大半は、点数とはならない。しかも、ホスピスを希望する患者は治療を望まないことが多いため、検査や投薬は最少限にしかなされないのだ。
ホスピスが包括払いなのもそのためで、点数にならない内容が多いことを勘案して、その診療点数が設定されているのだ。
「患者の望まない治療もやれということですか」
町田は憤慨した面持ちでいった。
「少しはそれも考慮に入れてほしいということです。そうでないと、認可が下りる前にホスピス病棟は閉鎖になってしまいます」
2人の熱い議論が続いた。
「時には、3時間も患者さんの話を聞くこともあるんですよ」
町田医師は、1人のがん患者を引き合いに出して、実際の体験を話し始めた。
(1人に3時間も!)
高井は思わず心の中で叫んだ。
町田医師のホスピス医としての熱意に感嘆する一方で、それでは点数にはならないというソロバン勘定が、彼の頭の中で交錯していた。
「患者さんの話を聞いてあげると、使うモルヒネの量がどんどんと減っていくんです」
医師に話を聞いてもらうだけで、患者の苦痛は和らいでいく。それにつれて使うモルヒネの量が減っていくのだ。
町田医師はだんだんと話に熱を帯びてきた。彼女は目を輝やかせて、
「この間、病棟で結婚式を開いたんですよ」
「結婚式?!」
「そうです。息子さんの結婚式が1カ月後に予定されていたのですが、それまでその患者さんの命がもちそうにないので、私たちが段取りして、病室で結婚式を開いたんです」
高井はこの突飛な話に仰天した。それまで積もっていたいらだちも萎え、彼は町田医師の話に聞き入った。
町田は膝を乗り出すようにして、その模様を語り出した。
それは3カ月ほど前の秋だった。
町田医師は、いつものようにホスピス病棟を回診していた。病棟には佐々木律子が入院していた。佐々木は胃がんの末期患者だった。3年前に胃切除を受けたが、肝臓に転移し末期状態にあった。腹水がたまりそれが肺を圧迫して、呼吸するのもつらそうな様子だった。
町田医師はベッドの傍に近寄ると、置いてあった椅子に腰をかけた。その後ろに少し離れて橋本婦長が立っていた。
「佐々木さん、分かりますか。町田です」
「ええ、先生」
佐々木は弱々しい声で答えた。自力ではベッドから起き上がれないまでに、衰弱していた。時々苦しそうに咳をした。
「どこかつらいところは無いですか」
「体がけだるい・・・」
「けだるいでしょう。あまり食事が取れませんからね」
「佐々木さん、この数日、ほとんど食事なさっていません」
橋本婦長が後ろから口をはさんだ。
「佐々木さん、1本でいいから点滴しませんか」
「先生、私、薬は嫌なんです」
「あなたが薬を嫌がっているのはよく知っています。でもこんなとき、点滴1本でもすれば身体が楽になりますよ」
「先生、食べますから。食べますから、点滴はもうちょっと待って下さい」
「もちろん、嫌ならいいんですよ。してほしかったら、いつでもいって下さいね」
町田はいたわるように優しくいうと、椅子から立ち上がろうとした。
「先生、お願いがあります」
佐々木律子はやっとの思いで身を起こすと、弱々しい声でいった。
町田は律子の背中を手で支えながら、
「お願い?いいですよ、何でもいって下さい」
「健一のこと・・・」
「ご長男の健一さんね。健一さん、どうかなさったの?」
「1カ月後に結婚するんです」
「わあ、おめでとう。ほんとうにおめでとう」
しばらく沈黙していた律子は遠慮がちに、
「私、後1カ月生きられるでしょうか」
「そうですねえ・・・」
町田はことばを濁した。
「ほんとうのこといって下さい、今までどおり。先生は私に一度も嘘はつかなかった」
律子は町田医師の腕にすがった。
「健一の結婚式を見届けたいんです。それまで生きていたいんです。お願いです。本当のことをいって下さい、先生!」
町田は姿勢を正し深く一呼吸すると、ゆっくりとした口調で、
「ほんとうに残念ですけど、佐々木さんが後1カ月生きられる保証はありません」
「そうですか。やっぱり、そうですか」
律子は肩を落として涙を浮かべた。
「でも、精一杯頑張りましょうね。そうすれば大丈夫かも知れませんよ」
「いいんです。慰めはいいんです・・・」
律子は身を横たえると、声を詰まらせすすり泣いた。
橋本婦長は、何か思いついたように小さくうなずくと、町田の手をつかんで部屋の片隅に連れていった。
「先生!」
婦長は町田の耳元でささやいた。
「どうしたの、婦長さん?」
「先生、この部屋で結婚式を挙げてはどうですか」
「ここで?!結婚式?!」
思わず町田は声を上げた。
「し-!そうですよ、この部屋でするんです。私たち、みんなで準備します」
「だって、そんなこと息子さん、嫌がるんじゃないかしら」
「息子さんには、私たちで頼んでみましょうよ。ね、先生!」
町田はどうしたものかと、しばらく考えあぐねていた。
「先生、そうしましょ。ここはホスピスです。病院の常識を破らなきゃ。それが先生のモットーでしょ」
婦長は、困惑顔の町田にきっぱりとした口調でいった。
その気迫に押されるように、
「そうね。ホスピスは患者さんが主役だものね。そうしましょう」
2人は顔を見合わせて微笑んだ。
ベッド脇に戻ると町田医師が、
「律子さん、結婚式のこと心配しなくていいですよ。大丈夫ですからね」
「大丈夫?!」
「そう、大丈夫。任せて下さい」
婦長は怪訝な顔をする律子をよそに、おおげさに自分の胸をたたいて見せた。
「じゃあ、また来ますね」
町田はそういうと、婦長とともに部屋を出ていった。律子は首をかしげて2人を見送った。
それから1週間後の昼下がり、橋本婦長を先頭にして、看護婦たちが大きな花束とラジカセをもって佐々木律子の部屋に入って来た。
律子は寝たまま不思議そうにそれを見つめていた。
「佐々木さん、おはようございます」
「おはようございます。その花束は?」
「それはお楽しみ。先生がお話し下さいます。少しベッドを動かしますからね」
婦長はベッドを部屋の片隅に寄せると、床頭台を部屋の中央に移動させ、その上にラジカセを置いた。
しばらくして町田医師が、紺のスーツに身を包み部屋に入って来た。その後から、律子の夫、健治が続いた。
「佐々木さん、おはよう」
「先生、おはようございます」
「今日は何の日でしょう?」
町田は律子のベッド脇で腰をかがめ、笑顔で話しかけた。
「何の日?」
「健一さんの結婚式の日ですよ」
「健一の結婚式?!」
「そう。結婚式。この部屋で結婚式を執り行います」
「ま、まさか!」
律子は驚きのあまり目を見開き、夫の健治を見つめた。健治はうんうんとうなずいて見せた。
「結婚式が始まります。どなた様もご用意下さいませ。もうすぐ新郎新婦の入場です」
橋本婦長は、マイク片手にアナウンス調に語った。
ラジカセから結婚行進曲が流れた。町田医師は部屋の中央に立った。
律子はあわてて起き上がろうとしたが、力が入らず身動きできなかった。
「佐々木さん、そのままでいいですよ。寝たままで結構ですよ」
婦長はそう優しくいって、律子の肩に手をやった。
「いいえ、そうはいきません」
律子は咳をしながらゆっくりと身を起こすと、髪や身なりを整えた。婦長は電動ベッドを半座位にセットした。
病室のドアから式服に身を包んだ健一が、ウエディングドレスの新婦、小野秀子と腕を組み、曲に合わせてゆっくりとした歩調で入ってきた。
拍手がわいた。律子は驚きのあまり両手で口をおおった。
新郎新婦はゆっくりと部屋を回り、律子のベッドに近付いた。律子は健一の腕にすがりついた。
「健一、健一」
「母さん!」
健一は、なだめるように律子の肩を抱きしめた。新婦の小野秀子も律子に抱きついた。
「お母様!」
「秀子さん、とってもきれいよ。健一をよろしくお願いしますね。お願いしますね」
律子の顔は、涙でぐしょぐしょにぬれていた。
「ただいまから、佐々木健一さんと小野秀子さんの結婚式を行ないます。新郎新婦は町田先生の前にお立ち下さい」
2人は名残惜しそうに律子の腕を離し、部屋の中央に行った。
牧師役の町田は2人に向かうと、
「佐々木健一さん、小野秀子さん。2人は生涯の夫婦として、永遠の愛を誓いますか」
「はい。誓います」
2人は声をそろえていった。
「佐々木健一さん、小野秀子さんを夫婦として認めます」
病室に拍手が鳴り響いた。
「指輪の交換をして下さい」
婦長が指輪を差し出した。新郎新婦は指輪を交換した。
「親族を代表して、佐々木健治さんのご挨拶がございます」
婦長は佐々木健治に目配せをした。
「今日は病気の妻のために、病室でこのような結婚式を開いていただきありがとうございました。皆様の底知れぬ真心を思うと、その感動で涙を禁じ得ません。妻にとっても、新郎新婦にとっても、また私にとっても忘れ得ぬ思い出となりましょう。本当にありがとうございました」
健治はハンカチで涙をぬぐいながら、深々と頭を下げた。
律子が息づかい荒く必死に声を出し、
「ひとこと、ひとこと、私にいわせて下さい」
「佐々木さん、無理をなさらなくても」
婦長は心配そうにかたわらに寄った。
律子は姿勢を正し一息つくと、
「健一さん、秀子さん、おめでとう。これからは2人で支えあって、幸せな家庭を作って下さい。皆さん、結婚式本当にありがとう。私のために、本当にありがとうございました」
渾身の力をふりしぼってそういうと、律子はあえぎながらベッドに身をもたせた。
2人を祝福する拍手が、いつまでもホスピス病棟に響きわたっていた。
町田医師は、懐かしそうにその光景を思い浮かべながら語っていた。目には涙があふれ出ていた。
「佐々木律子さん、その3日後に亡くなられました」
高井の胸は感動でうち震えて、しばらく声が出なかった。
「ホスピスケアは、本当にすごいものですね」
目頭を指でぬぐった。
「院長なのに、ホスピスの現場を知らなかったとは恥ずかしい思いです」
高井は理事長にいわれてすぐに弱気になった自分を、恥ずかしく思った。
「町田先生、やりましょう。とことん、ホスピスをやりましょう。私は先生を応援しますよ」
「私もホスピスを守ります」
思わず高井は、町田の手を両手で握り締めていた。




